クリスチャンの方には信じられない話であるが、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を公布した1587年から、キリシタンの迫害が日本で始まる。その後徳川家光が1638年に終了させた島原の乱で鎖国が完成する。ではなぜ秀吉は「バテレン追放令」を公布したのだろうか?
日本で火薬の原料となる硝石が産出しない。鉄砲は作れても火薬が無ければ意味が無い。日本では人糞や牛馬糞から僅かに硝酸カリウム(硝石)を製造していたが微々たる量であり、大規模な戦に使うには輸入した硝石に頼らねばならなかった。他の硫黄などの原料は日本でも入手できたので硝石だけが入手困難であった。故に硝石1樽と日本人女性50人が奴隷として交換されていた。ザビエルの来日以降1587年までの44年間に、徳富蘇峰によると日本人の女性約50万人が奴隷として国外に売られたと言われている。天正の遣欧使節団の日記には「異国で秘所を丸出しにされ奴隷産出国にまで売られていく日本人女性を目にした」とあるそうだ。確か秀吉が出した「バテレン追放令」の11ヶ条の一つに「日本人を奴隷として売買することを禁ず」との条項があった。高山右近がその代表的なクリスチャン大名で秀吉により改易された。彼が奴隷として輸出した女性の数は相当な数になるそうだ。
秀吉の行動がおかしくなるのは小田原北条氏を降してからである、1590年以降の事だ。ザビエルもユダヤ教からキリスト教への転向者であり、奴隷売買も行う、金になれば海外へも何処へでも行くと言うユダヤ商人の一面があった。しかし日本人は聖人として扱う。
当時のスペイン・ポルトガルの戦略は、先ず宣教師が布教し、次に商人が商売し、最後に軍隊が侵略するという方法を採っていた。南米や東南アジアはこの方法で植民地化されていくわけだが、日本と山田長政が王となったタイや僅かな国だけがキリスト教を排除した、最も100年以上戦争を続けている日本人との陸戦は恐怖であった。当時日本刀は明にも大量に輸出されていて継戚光(一人で北伐南慮を行った明の将軍)により世界的に有名になる。故にスペイン・ポルトガルの植民地にならずにすんだ。その後スペイン・ポルトガルが廃れイギリス・オランダがその後を継ぐ(インドがこの頃植民地化される)。
東京の中野に徳川綱吉(犬公方)のお犬様の後始末としての大規模な犬小屋があった。そして今の西新宿に犬の糞から硝石を抽出する硝石小屋があったそうだ。最も綱吉の生類哀れみの令も武断政治から文治政治への移行に抵抗する(獣肉を食し体力を自慢する)世論に、「体力バカはもういらない」とする政策だった(後日記載する)。故に30回以上出されている、後から出されている令は滑稽な内容になってきている。
別段当時の支配階級が気まぐれで、キリスト教を禁じたりしてはいない。明確な理由があったのだ。しかし庶民はその理由など考えずに耳さわり良い話を好む傾向にある。これは現在も同じである。昔は知的レベルの高い方の比率が低い。故に滑稽話的なこととして今に伝えられている。更に学校でも秀吉の「バテレン追放令」を此処まで掘り下げない。キリスト教を悪視させないように戦後のGHQの要請による。自分で調べるしかないのである。