藤森照信氏は東京大学生産技術研究所の教授として長年勤務された。定年退職後は工学院大学に移られたようだ。現在、先生が読売新聞に連載中の「時代の証言者」が面白い。同時代を生きた自分と藤森先生の回顧が重なって興味深い。
藤森照信氏が大学時代、1年と2年の川内の教養部では文学に夢中になって 2年間留年したとか、35歳まで給料がなかったとか、若い時代からご本人の関心事に没入されたようです。
経歴を拝見すると、私と同じ大学の教養部で同学年だったようですが、新聞連載によると、ご本人は大学にはほとんど出席せず、寮や下宿で文学に没頭し本を読んで過ごしておられたそうです。藤森氏とは教養部の学生時代はどう考えてもお会いした記憶はありません。建築を専攻したオフコースの小田和正氏は覚えているのですが、藤森氏の印象はほとんどない。ひょっとしたら学生食堂あたりですれ違ったかもしれません。
当時は工学部で数百人を一括して入学させ、本人の希望と成績により2年の後期あたりで各専門課程に振り分けられた。私は原子核工学専攻でしたが、藤森氏ご本人は小田氏と同じく専門課程からは建築を専攻されました。
当時の学生にとって、若気の至りで自分の好きな生き方に没頭するのは望むところで、例え世のはみ出し者でもいいや、と教養部ぐらいの若年者にアーナキーな考え方に陥ることはよくある話だ。しかし、年齢を重ねるにつれて少しずつ落ち着いてきて、女房子供を抱えるようになると社会に適合せざるを得ない。新聞連載によればイクメン元祖として奥様に随分お世話になり家庭人としても恵まれたようです。
藤森氏の自伝的な随筆は、日経新聞の私の履歴書か、あるいは雑誌「山と渓谷」あたりで拝見したことがあり、諏訪の御柱祭の記事が面白かった記憶がある。
後日、私が企業に就職し、ずいぶん時間が経ち、東京大学の生産技術研究所の一般公開に行ったことがあった。そこで我々が御指導を受けていた別の知り合いの先生の研究室を訪問したところ、すぐ近くに藤森先生の研究室があり、ポスターが展示されていた。ずいぶん身近なところにおられたのだと思いました。しかし、残念ながらご本人は不在だった。
藤森先生は赤瀬川原平氏などとの路上観察学会、タンポポハウスやニラハウスなどで有名になり、ご本人はもちろん関知しないところですが、藤森先生のことは単なる同窓同期生でも個人的には一方的なすれ違いで、昔から気になる存在でした。