蔵王の御釜
久しぶりに蔵王を歩いてみた
冬期は火口湖が凍結しその上に積雪がある
ゴールデンウィークのころに一部を残して融解し水面が現れる
熊野岳避難小屋が見える
蔵王の主峰 熊野岳への登り
少し風が強かった
蔵王山神社の避難小屋
熊野岳頂上の道標
斎藤茂吉の歌碑
蔵王連峰 熊野岳頂上にある
「陸奥(みちのく)の・・・茂吉」
裏面には設置者銘が刻まれている
「昭和九年八月 高橋四郎兵衛建立 石工鈴木惣兵衛」
斉藤茂吉は山形県上山(かみのやま)の出身
帰りは上山に行ってみる
斎藤茂吉記念館は山形県上山市にある
齋藤茂吉先生像
「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えたまふ蔵王の山の雲の中にたつ」
建立した高橋四郎兵衛は実弟です
斎藤茂吉
1882年〈明治15年〉5月14日 - 1953年〈昭和28年〉2月25日)
山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現:上山市金瓶)の守谷伝右衛門熊次郎といくの間の三男
茂吉は14歳のとき
山形県上山から徒歩で笹谷峠を越え仙台まで行った
仙台から汽車に乗って東京へ行った
山形まで汽車が来ていなかったという
茂吉は見込まれて東京青山脳病院の斎藤家に養子に入った
開成中学
第一高等学校
東京帝国大学医学部卒
相当な秀才だった
ーーーーーーーーーーーーー
(訂正後)
斎藤茂吉(1882年生)は夏目漱石と一緒になった写真があった
茂吉は伊藤左千夫に師事したことがある
伊藤左千夫は正岡子規の門下
その関係で夏目漱石との集合写真が残っていたのだろう
夏目漱石1867年生 正岡子規1867年生 秋山真之1868年生
ーーーーーーーーーーーーー
茂吉の故郷上山への想いは強く
実母が危篤で一時帰郷し母親を見送っている
「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり」
高校の教科書に載っていたような気がする
今のボクにはずっしりと堪える歌だ
「旅する斎藤茂吉 その瞳は何を映したか」
4.27~8.31 斎藤茂吉記念館で開催中
斎藤茂吉は日本国中を旅している
ボクは最近、バイクや飛行機でやっと日本の各地を訪ねることができた
茂吉は留学時代ドイツほか各地を訪れている
ボクも茂吉が行った多くの都市を訪れた
茂吉は柿本人麻呂の研究者だった
柿本人麻呂 西暦680年ころ 飛鳥時代
古事記 712年 奈良時代
日本書紀 720年
万葉集 759年 日本最古の歌集 大伴家持ほか
環翠亭
斎藤茂吉記念館に隣接
蔵王連山を望む
茂吉が眺めた蔵王連山
熊野岳、刈田岳が見える
斎藤茂吉の別荘
箱根強羅にあった別荘 箱根山荘の「勉強部屋」の建物が
山形県上山市の斎藤茂吉記念館に隣接して移築された
斎藤茂吉の「勉強部屋」
箱根強羅の別荘にて
次男の北杜夫(斎藤宗吉)が親父茂吉の炊事など身辺の世話をしたそうだ
北杜夫は斎藤茂吉の次男
旧制松本高校から東北大学医学部卒
2011年の東日本大震災のあとの数年後に
山形で北杜夫の講演会が開催予定だったことがある
ボクはその講演会に行く予定だったが
北杜夫さんが体調不良とのことで中止になった
あれが最後の機会だった
ボクが上高地や穂高に何度も通うようになったのは
潜在的に北杜夫さんの影響が大きい
北杜夫「楡家(にれけ)の人々」は非常に面白い小説でした
斎藤茂吉の生家
生家の隣にある私塾
幼少のときの勉学は如何に重要かが判る
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます