生船(なません)の船乗りになるには、高等小学校を卒業すると船に乗るが、最初は「かしき」という飯炊きからスタートする。
「かしき」とは、三省堂大辞林によれば「炊き」と書き、古来、炊事をする意味で、「特に,近世の廻船で炊事をした年少の者。現在も漁船などで,炊事や雑用にあたる者をいう。船乗りになる第一段階。」とある。父の生地は廻船や海運業に従事する者が多く、江戸時代後期から幕末にかけて同郷の高田屋嘉兵衛たちが活躍したころ、またそれ以前の瀬戸内海の水軍や北前船など廻船を生業としてきた歴史的な流れがある。
生船は五島、天草、壱岐あたりから神戸や大阪まで昼夜を通して航海し、海も荒れることが多いので、うかうかしていると大けがをしたり命を落としたりする。年長の船乗りを相手に下働きをし、炊事して食事を提供することは並大抵のことではなく、特に気が立っているときに不味いものでも出せば、こんなもんが食えるかと放り投げ捨てられる。
父は年少のころ、「かしき」からたたき上げられ、成人してからは軍隊に行き、復員して生船に乗った後、進駐軍に職を得て厨房に入ったのは、かしきの経験も役に立ったからだろう。魚を料理するのも気合をいれて自分でさばいた。
父は神戸の進駐軍で何年かコックをした後、祖父とともに神戸で起業した。私が小学生だったころだ。
祖父は長い間、生船の船長をしていた。温厚で人望もあり、一般船員の3倍の給料をもらっていたという。祖父は生船の船長を辞め、父は進駐軍勤務を辞めて、親子で中古の船を買い、神戸製鋼所の鋼材や線材を船で運ぶ仕事を始めた。最初の船は「天神丸」だった。
その後、父と祖父は銀行から融資を受け、新しい船を造り「第2天神丸」を完成させた。私が小学生のとき第2天神丸の進水式を船上で経験した。造船所の地上レールのローラーの上に新しく作った船が、ゴーという音とともに滑り出し、波打ち際を直角に海に突入して、やがて船の浮力でローラーから離れ、船は水上を滑るように進みやがて減速して止まり、進水式は終了する。
当初は高度成長期が続き景気が良かった。西宮駅前の商店街に店舗兼住居の家を建て、母親は喫茶店の経営を始めたが、暫くして店をたたみ、神戸市葺合区(現在は中央区となった)に引っ越した。
自宅から道を下ると、途中に神戸製鋼所の中央研究所がありその横を通過し、下の海岸には脇浜の製鋼所があった。後年には灘浜工場もできた。そこではドロドロに溶けた鉄を流し込んで鋼材を生産していた。従業員は耐熱服で身を覆い、多量の汗をかくため休憩のときには塩を舐めると聞いた。そこで出来上がったばかりの鋼材や線材を、クレーンで船に積み込んでもらい、各地へ輸送するのが仕事だった。
何十年か後、私が企業に就職し、新日鉄の君津製鉄所で仕事をしたとき、溶鉱炉から流れ出る大量の溶岩流のような銑鉄を見て、小学生のころに見た神戸製鋼の赤い橙色の溶けた鉄の奔流を思い出した。
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