[95点]
一昨年、ホドロフスキーやウェス・アンダーソンの映画を観て、映画とはパンフォーカスだ!!と天啓のようなものを感じた(気がした)
自主映画が一眼で撮るのが主流になり、背景がぼけてて登場人物にだけくっきりとピントのあった、ナローフォーカスの美しい映像が自主映画コンペでたくさん見るようになった。一方で要するに背景ぼけてりゃかっこいいだろと勘違いしている(ように思える)映画もたくさん作られていた。
そんな中で、登場人物だけでなく背景もくっきりと写すパンフォーカスの画で2時間描き続けたホドロフスキーやアンダーソンがその時はとってもクールに思えた。
映像内の一点にだけ意識をフォーカスさせるナローフォーカスの画って、実は映像作りから逃げているのではって思ったのだ。
しかしパンフォーカスもナローフォーカスも表現者の手段であり、フォーカスだけで良い悪いは決められないと、「サウルの息子」を観て大いに反省することとなった。
映画の監督の仕事はただ画を作るだけではない。作者の想いを色々な手法でもって表現することなのだ。「サウルの息子」は寄りの画しかない構成と極端に背景をボヤかすことが作者の主張と直結しており表現者としての苦闘が伝わってくる。作者の熱い使命感とそのための表現と繰り広げられる地獄絵図にむなぐらを掴まれぶんぶん揺さぶられるような強い衝撃を受けた。
「サウルの息子」は映像の大部分がナローフォーカスであり、ほとんどが主人公の寄りの画である。背景はほとんどのショットで極端にぼけている。
引きの画など一個もない。
しかしアウシュビッツという想像を超える過酷な環境を描くに当たり、背景をぼけさせることで、観客の意識はフォーカスの当たっていない部分へと向けられる。
背景すべてがピンボケとはいえ、そこには夥しい死体があり、もうすぐ死体となる人たちの恐らく恐怖におののいている顔があるのだ。
そして2時間の間ずっとフォーカスの当たっている主人公は感情を表に出す神経がすでに破壊されているかのように、表情が乏しく、かえって彼の心にあまりに重くのしかかる表現不可能な想いを想像せざるを得ない。
思い出した。
「キツツキと雨」の映評を書いた時に、スクリーンに映っていない画を見せ、スピーカーから発していない音を聴かせるようなところが良い、などと書いた。
「サウルの息子」はまさに映っていないものを見せる映画だ。はっきりしない背景、無表情の向こう側の感情。
オスカー・シンドラーのように「もっと救えたのに!!」などと言って号泣するような大げさな感情表現など一切無く、感情も物語も全てを有耶無耶にするような語らない語り口が心に突き刺さる。
映画はファーストショットで全てを表現すべきと思っているのだが、その点でこの映画のファーストショットはピンボケの森らしき背景から始まり画面の奥から主人公が歩いてきて主人公にピタリとフォーカスの当たる位置で止まるところから始まる。そしてそこから囚人たちがガス室に送り込まれるまでの長回しとなる。
その間背景は徹底的にぼけている。完璧に映画の方向性の全てを示した秀逸なファーストショットだ。
物語には色々疑問がある。悪い意味で無く。
あの子は本当にサウルの息子なのか?
多分違うのだろう。
この映画は起こっている事象だけを描き、それらの「何故?」は一切示さない。
生きる望みを絶たれた人間が、どう生きるかを考えて行動する話だ。良し悪しを考える時間は無いし良し悪しにそもそも意味がない。
死体製造工場と化した収容所。
部品とよばれるユダヤ人たち。
本当の地獄とは狂気がシステム化された世界なのだ。
毎日の点呼。マニュアルでもあるかのように黙々と手順をこなすゾンダーコマンドたち。
その手順とは、ユダヤ人たちをガス室に誘導し終わったら中のモノを決まり通りに処置し、残ったものを手順に従って片付ける。
毎日何百人もの人を殺すことがルーチンワークと化している。
しかもそう遠くないうちに自分も殺されると知りながら。
一方であれほど管理にうるさい収容所ではたして武装蜂起のための武器や爆薬を手に入れることができるのだろうか?
アウシュビッツで実際に反乱があったかは知らない。その辺は映画としての創作かもしれないが、史実通りかそうでないかなどどうでも良い。
反乱は成功するのか?主人公の埋葬は成功するのか?主人公の行動が反乱を妨げないか?といつ殺されるかわからない状況にプラスして二重三重のスリルを重ねていく。
あえて言うが、この映画はとてつもなくスリリングで面白い!
題材的にスピルバーグの「シンドラーのリスト」と色々比較したくなるのは当然だが、カメラが主人公のすぐそばから離れず、主人公が直接見聞きしたものだけで物語が作られているという点では同じスピルバーグでも「宇宙戦争」とよく似た映画かもしれない。
もっとも最後だけカメラは主人公から離れる。
決して人間らしい感情を出さなかった主人公の最後の微笑みをキッカケに。
ありがちなラストではあるが、主人公の微笑みは映画が終わっても心に残像のように残る
『サウルの息子』
監督・脚本:ネメシュ・ラースロー
出演:ルーリグ・ゲーザ
2016年2月24日 新宿シネマカリテにて鑑賞
一昨年、ホドロフスキーやウェス・アンダーソンの映画を観て、映画とはパンフォーカスだ!!と天啓のようなものを感じた(気がした)
自主映画が一眼で撮るのが主流になり、背景がぼけてて登場人物にだけくっきりとピントのあった、ナローフォーカスの美しい映像が自主映画コンペでたくさん見るようになった。一方で要するに背景ぼけてりゃかっこいいだろと勘違いしている(ように思える)映画もたくさん作られていた。
そんな中で、登場人物だけでなく背景もくっきりと写すパンフォーカスの画で2時間描き続けたホドロフスキーやアンダーソンがその時はとってもクールに思えた。
映像内の一点にだけ意識をフォーカスさせるナローフォーカスの画って、実は映像作りから逃げているのではって思ったのだ。
しかしパンフォーカスもナローフォーカスも表現者の手段であり、フォーカスだけで良い悪いは決められないと、「サウルの息子」を観て大いに反省することとなった。
映画の監督の仕事はただ画を作るだけではない。作者の想いを色々な手法でもって表現することなのだ。「サウルの息子」は寄りの画しかない構成と極端に背景をボヤかすことが作者の主張と直結しており表現者としての苦闘が伝わってくる。作者の熱い使命感とそのための表現と繰り広げられる地獄絵図にむなぐらを掴まれぶんぶん揺さぶられるような強い衝撃を受けた。
「サウルの息子」は映像の大部分がナローフォーカスであり、ほとんどが主人公の寄りの画である。背景はほとんどのショットで極端にぼけている。
引きの画など一個もない。
しかしアウシュビッツという想像を超える過酷な環境を描くに当たり、背景をぼけさせることで、観客の意識はフォーカスの当たっていない部分へと向けられる。
背景すべてがピンボケとはいえ、そこには夥しい死体があり、もうすぐ死体となる人たちの恐らく恐怖におののいている顔があるのだ。
そして2時間の間ずっとフォーカスの当たっている主人公は感情を表に出す神経がすでに破壊されているかのように、表情が乏しく、かえって彼の心にあまりに重くのしかかる表現不可能な想いを想像せざるを得ない。
思い出した。
「キツツキと雨」の映評を書いた時に、スクリーンに映っていない画を見せ、スピーカーから発していない音を聴かせるようなところが良い、などと書いた。
「サウルの息子」はまさに映っていないものを見せる映画だ。はっきりしない背景、無表情の向こう側の感情。
オスカー・シンドラーのように「もっと救えたのに!!」などと言って号泣するような大げさな感情表現など一切無く、感情も物語も全てを有耶無耶にするような語らない語り口が心に突き刺さる。
映画はファーストショットで全てを表現すべきと思っているのだが、その点でこの映画のファーストショットはピンボケの森らしき背景から始まり画面の奥から主人公が歩いてきて主人公にピタリとフォーカスの当たる位置で止まるところから始まる。そしてそこから囚人たちがガス室に送り込まれるまでの長回しとなる。
その間背景は徹底的にぼけている。完璧に映画の方向性の全てを示した秀逸なファーストショットだ。
物語には色々疑問がある。悪い意味で無く。
あの子は本当にサウルの息子なのか?
多分違うのだろう。
この映画は起こっている事象だけを描き、それらの「何故?」は一切示さない。
生きる望みを絶たれた人間が、どう生きるかを考えて行動する話だ。良し悪しを考える時間は無いし良し悪しにそもそも意味がない。
死体製造工場と化した収容所。
部品とよばれるユダヤ人たち。
本当の地獄とは狂気がシステム化された世界なのだ。
毎日の点呼。マニュアルでもあるかのように黙々と手順をこなすゾンダーコマンドたち。
その手順とは、ユダヤ人たちをガス室に誘導し終わったら中のモノを決まり通りに処置し、残ったものを手順に従って片付ける。
毎日何百人もの人を殺すことがルーチンワークと化している。
しかもそう遠くないうちに自分も殺されると知りながら。
一方であれほど管理にうるさい収容所ではたして武装蜂起のための武器や爆薬を手に入れることができるのだろうか?
アウシュビッツで実際に反乱があったかは知らない。その辺は映画としての創作かもしれないが、史実通りかそうでないかなどどうでも良い。
反乱は成功するのか?主人公の埋葬は成功するのか?主人公の行動が反乱を妨げないか?といつ殺されるかわからない状況にプラスして二重三重のスリルを重ねていく。
あえて言うが、この映画はとてつもなくスリリングで面白い!
題材的にスピルバーグの「シンドラーのリスト」と色々比較したくなるのは当然だが、カメラが主人公のすぐそばから離れず、主人公が直接見聞きしたものだけで物語が作られているという点では同じスピルバーグでも「宇宙戦争」とよく似た映画かもしれない。
もっとも最後だけカメラは主人公から離れる。
決して人間らしい感情を出さなかった主人公の最後の微笑みをキッカケに。
ありがちなラストではあるが、主人公の微笑みは映画が終わっても心に残像のように残る
『サウルの息子』
監督・脚本:ネメシュ・ラースロー
出演:ルーリグ・ゲーザ
2016年2月24日 新宿シネマカリテにて鑑賞