テレビで見たのか会長が「かがまないと通れないガードを、ウォーキングで行こう!」とおっしゃるので、下見をしてきました。山手線の新駅が出来るときに、このガードが無くなってしまうのではないかという話もあり、行くなら今のうちです。
高輪橋架道橋、通称高輪ガードは泉岳寺の近くにあり、セットとしてここに寄らないわけにはゆかないのですが、ルート設定に苦労しました。このあたり急坂が多いんですよね。
写真:新浜公園
写真:芝離宮恩賜庭園
写真:小便小僧
新コース下見の前に、お鷹狩ロングコースで気になっていた新浜公園の石像の確認に行ったのですが、説明書きはありません。港区に問い合わせてみます。
浜松町駅のすぐ隣にある芝離宮庭園。駅の通路から眺められる構造になっていました。この通路は初めて通ったので、こんな景色があるとは知りませんでした。窓越しですが写真に撮ってみました。駅構内を見渡したけれど小便小僧は見当たらず。レリーフだけ写真に撮ってきました。
写真:新芝運河
田町駅まで移動し、下見開始です。新芝運河脇の遊歩道を南へ向かいます。
写真:防災船着場
芝浦地区ならではですね。
写真:フウセントウワタ
この名前は初めて聞きました。「風船唐綿/ガガイモ科/フウセントウワタ属」だそうです。
写真:高浜公園
新芝運河の誘導、南端は高浜公園で終わりになります。そしてここが、高輪橋架道橋の入り口です。
写真:高輪橋架道橋
通称高輪ガードです。Wikipediaから引用します。
敷地内の芝浦四丁目と港南一丁目の境界を区道(東行き一方通行)が通っている。これをまたぐガードの高輪橋架道橋(たかなわきょうかどうきょう)は高さ制限が1.5mという極端な低さである。(中略) 東京無線など都内を走るタクシーには、天井の社名灯が通行の支障となるため、社名灯の頂上部を数cm削ったいわゆる「高輪橋架道橋特別仕様」が存在する。また、車高の高い自動車がカーナビでこちらに誘導されたり、また、自車の車高を把握してない一般ドライバーが誤って進入したために自車の屋根を損傷させたり、そこまで至らぬもののガード直前で通れないとわかってバックで戻ったりする光景が時々見られる。
元々この道路は運河へと続く水路だったが、大正時代にこれを埋め立てて道路が作られた。その際、当時の日本人男性の平均身長が165cm程度だったため、高さをそれに合わせ、現代人から見れば低く見える架道橋ができたとされる。
鉄道開業時このあたりには敷地が無く、海上に盛土をし鉄道を通しました。もともと水運を営んでいた人への配慮で、鉄道の下を通る水路が作られ、時代とともに水路がガードへと変身しました。ガードを囲む石壁は明治時代のものかもしれません。
写真:稲荷神社
写真:泉岳寺
泉岳寺から伊皿子方面へ歩いてゆくのは常識的なコース設定なのですが、坂がきついので別ルートを考えました。下見では第一京浜を歩き、品川駅構内を通って港南口に出たのですが、ウォーキングとしては面白みがありません。本番のウォーキングでは高輪橋架道橋を再びくぐって、徹底的に運河沿いを歩くことにしました。
写真:高浜運河
写真:T.Y.HARBOR
T.Y.HARBORは醸造所を併設し、クラフトビールを売りにしたアメリカンスタイルのレストランだそうです。パーティーにいいかもしれませんね。
写真:目黒川水門
埋め立てが進み運河になってしまっているのでわからなくなっていますが、ここが目黒川の河口だった場所のようです。午前中は雨が降ってウォーキングが中止になってしまいましたが、午後から晴れてお月様が見えるいい天気になりました。
写真:浦高札場
写真:鎮守橋
写真:鎮守橋から品川宿を望む
写真:荏川橋
このあたりは江戸時代の品川宿の跡なので高札場があったのでしょう。荏原神社へ向かう赤い橋が鎮守橋。古代の字名が「武蔵国荏原郡」なので、荏原というのは由緒正しい地名なのです。明治維新後目黒区を含むこの辺りは品川県を経て、東京府に編入されます。上目黒についていえば1889年に4村が合併して荏原郡目黒村。1922年に荏原郡目黒町。1932年に碑衾町と合併し東京市目黒区になり、千年以上続いた字名の荏原郡がなくなりました。荏原の由来は荏胡麻の原という説があり、荏川橋には荏胡麻の絵が描かれています。
写真:ザクロ
このコースのゴールは大崎駅に設定しますが、下見はここで終了です。いつの間にかザクロの実も赤くなり、久しぶりの下見で秋を感じる一日となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
高輪橋架道橋、通称高輪ガードは泉岳寺の近くにあり、セットとしてここに寄らないわけにはゆかないのですが、ルート設定に苦労しました。このあたり急坂が多いんですよね。
写真:新浜公園
写真:芝離宮恩賜庭園
写真:小便小僧
新コース下見の前に、お鷹狩ロングコースで気になっていた新浜公園の石像の確認に行ったのですが、説明書きはありません。港区に問い合わせてみます。
浜松町駅のすぐ隣にある芝離宮庭園。駅の通路から眺められる構造になっていました。この通路は初めて通ったので、こんな景色があるとは知りませんでした。窓越しですが写真に撮ってみました。駅構内を見渡したけれど小便小僧は見当たらず。レリーフだけ写真に撮ってきました。
写真:新芝運河
田町駅まで移動し、下見開始です。新芝運河脇の遊歩道を南へ向かいます。
写真:防災船着場
芝浦地区ならではですね。
写真:フウセントウワタ
この名前は初めて聞きました。「風船唐綿/ガガイモ科/フウセントウワタ属」だそうです。
写真:高浜公園
新芝運河の誘導、南端は高浜公園で終わりになります。そしてここが、高輪橋架道橋の入り口です。
写真:高輪橋架道橋
通称高輪ガードです。Wikipediaから引用します。
敷地内の芝浦四丁目と港南一丁目の境界を区道(東行き一方通行)が通っている。これをまたぐガードの高輪橋架道橋(たかなわきょうかどうきょう)は高さ制限が1.5mという極端な低さである。(中略) 東京無線など都内を走るタクシーには、天井の社名灯が通行の支障となるため、社名灯の頂上部を数cm削ったいわゆる「高輪橋架道橋特別仕様」が存在する。また、車高の高い自動車がカーナビでこちらに誘導されたり、また、自車の車高を把握してない一般ドライバーが誤って進入したために自車の屋根を損傷させたり、そこまで至らぬもののガード直前で通れないとわかってバックで戻ったりする光景が時々見られる。
元々この道路は運河へと続く水路だったが、大正時代にこれを埋め立てて道路が作られた。その際、当時の日本人男性の平均身長が165cm程度だったため、高さをそれに合わせ、現代人から見れば低く見える架道橋ができたとされる。
鉄道開業時このあたりには敷地が無く、海上に盛土をし鉄道を通しました。もともと水運を営んでいた人への配慮で、鉄道の下を通る水路が作られ、時代とともに水路がガードへと変身しました。ガードを囲む石壁は明治時代のものかもしれません。
写真:稲荷神社
写真:泉岳寺
泉岳寺から伊皿子方面へ歩いてゆくのは常識的なコース設定なのですが、坂がきついので別ルートを考えました。下見では第一京浜を歩き、品川駅構内を通って港南口に出たのですが、ウォーキングとしては面白みがありません。本番のウォーキングでは高輪橋架道橋を再びくぐって、徹底的に運河沿いを歩くことにしました。
写真:高浜運河
写真:T.Y.HARBOR
T.Y.HARBORは醸造所を併設し、クラフトビールを売りにしたアメリカンスタイルのレストランだそうです。パーティーにいいかもしれませんね。
写真:目黒川水門
埋め立てが進み運河になってしまっているのでわからなくなっていますが、ここが目黒川の河口だった場所のようです。午前中は雨が降ってウォーキングが中止になってしまいましたが、午後から晴れてお月様が見えるいい天気になりました。
写真:浦高札場
写真:鎮守橋
写真:鎮守橋から品川宿を望む
写真:荏川橋
このあたりは江戸時代の品川宿の跡なので高札場があったのでしょう。荏原神社へ向かう赤い橋が鎮守橋。古代の字名が「武蔵国荏原郡」なので、荏原というのは由緒正しい地名なのです。明治維新後目黒区を含むこの辺りは品川県を経て、東京府に編入されます。上目黒についていえば1889年に4村が合併して荏原郡目黒村。1922年に荏原郡目黒町。1932年に碑衾町と合併し東京市目黒区になり、千年以上続いた字名の荏原郡がなくなりました。荏原の由来は荏胡麻の原という説があり、荏川橋には荏胡麻の絵が描かれています。
写真:ザクロ
このコースのゴールは大崎駅に設定しますが、下見はここで終了です。いつの間にかザクロの実も赤くなり、久しぶりの下見で秋を感じる一日となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール