すこやか歩こう会が所属する目黒ウォーキング協会では最大のイベントである、お鷹狩りウォークの準備が着々と進んでいます。イベントの主催者は目黒区で運営を委託されているのが目黒ウォーキング協会という枠組みになっていますが、お鷹狩りウォーク開催初回より目黒区(当初は目黒区教育委員会)と目黒ウォーキング協会が試行錯誤しながら作ってきたイベントです。
こちらのページから申し込みが出来ます。その内容を一部引用してみましょう。
「健康なまちめぐろ」の実現を目指し、ウォーキングによる健康づくりを進めています。歩く機会の少なくなった現代において、歩く楽しさや、心地よさを区民のみなさんに感じていただくため、今年も「将軍お鷹狩りウォーク」を実施します。ふるってご参加ください!!
ゲームを目的としたイベントへの参加はご遠慮下さい。
第17回めぐろウォーキングマーチ 将軍お鷹狩りウォーク
内容
日時 令和元年11月3日(日曜日・文化の日)。小雨決行です。
対象 医師から運動を制限されていない区内在住・在勤・在学者。なお、小学生以下のかたは保護者同伴です。
定員 9.8キロメートルコース300人、6.4キロメートルコース200人(いずれも先着順となります)
参加費 各コース保険料など700円、小学生以下は無料です。
聴覚障害者で手話通訳をご希望の方は、申し込みの際お申し出ください。
コース紹介
9.8キロメートルコース
東京都立日比谷公園健康広場(集合場所及びスタート地点)、虎ノ門ヒルズ、愛宕神社・出世の石段、都立芝公園(トイレ休憩)、御成門・二天門、増上寺、芝丸山古墳、プリンス芝公園、聖坂、御田小前、高輪皇族邸(仙洞仮御所)、大石良雄外十六人忠烈の跡、高輪区民センター、ゆかしの杜(トイレ休憩)、目黒区三田一丁目(目黒区最東端)、サッポロビール本社(恵比寿ガーデンプレイス)、茶屋坂を通って田道広場公園まで
時間 午前9時30分から午後2時(予定)
集合時間 午前9時
集合場所 都立日比谷公園・健康広場
6.4キロメートルコース
都立芝公園4号地多目的運動広場(集合場所及びスタート地点)、御成門・二天門、増上寺、芝丸山古墳、プリンス芝公園、麻布十番、暗闇坂、一本松坂、有栖川宮記念公園(トイレ休憩)、広尾橋、渋谷区恵比寿社会教育館、サッポロビール本社(恵比寿ガーデンプレイス)、茶屋坂を通って田道広場公園まで
時間 午前9時50分から午後1時20分(予定)
集合時間 午前9時20分
集合場所 都立芝公園4号地・多目的運動広場
お申し込み
お申し込み方法
電話、ファックスまたはハガキ、スポーツ講座申し込みシステム(メールでのお申し込み)で、10月15日(必着)までにスポーツ振興課スポーツ事業係へお申し込みください。お申し込みには次の事項が必要です。
日比谷公園
日比谷見附の石垣とミッドタウン日比谷
私の担当はロングコースで、日比谷公園健康広場スタートです。江戸時代百万都市といわれた江戸の街ですが、明治維新により各大名の屋敷が不要となりそれぞれの領地に帰ってゆきます。人口は五十万まで減少、大名屋敷で働いていた人々は失業者となり不況に見舞われます。丸の内にあった大名屋敷は取り壊されて帝国陸軍の練兵場となり、霞ヶ関界隈には役所が設けられました。地盤が軟弱だった場所にドイツ留学から帰国した本多静六を中心とするメンバーによる設計で現在の日比谷公園が造園されました。
虎ノ門ヒルズ
健康広場をスタート後日比谷公園内の見所を見た後、白山通りを南下します。将軍が目黒筋に鷹狩りに行く際、青山通りのルートともにこちらのルートも使われていたようです。
歴代徳川将軍が鷹狩りをしたものと思っていましたがそんなことはないようです。三代将軍家光の頃盛んにおこなわれました。徳川将軍家の鷹狩りについてWikipediaの「鷹狩」から一部を引用します。
戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名で、単なる鷹好きとか慰めの域を越えて確たる養生法と捉えていた。『中泉古老諸談』によると家康は鷹狩を気分転換の遊芸にとどめず、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られている。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。3代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。5代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、8代将軍・吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている。
鷹は奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は1据10両、中期では20-30両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった。
鷹狩に用いる鷹の繁殖をはかるため、その巣を保護するため、狩猟や入山を禁じた山もあり、それらは巣山や巣鷹山と呼ばれた。
芝公園
愛宕神社出世の石段の前を通り愛宕通りを南下すると芝公園3交差点には歩道橋のみで横断歩道がないため日比谷通りの横断歩道を渡り芝公園に入ります。芝公園の広大な敷地は元は増上寺の敷地でしたが、明治維新後に公園となり敷地が芝公園地1-25号地の計25区画に振り分けられるました。この場所はお鷹狩ショートコースのスタート地点となりお知らせにも「都立芝公園4号地」となっていますが、行政以外に「号地」を使う習慣もないので、場所を説明するのに苦労するところです。
芝公園でトイレ休憩をとった後、増上寺へ向けて出発するとすぐに御成門、二天門があります。現在は東京プリンスの敷地内にあるのでこの二つの門が増上寺の門だった認識はあまりないかもしれません。増上寺には上野寛永寺同様に徳川将軍の霊廟が置かれました。増上寺に将軍がお参りする際に使用されたのが御成門であり、七代将軍霊廟の西の守りが二天門になります。持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)の四天王のうち広目天、多聞天が二天門の左右で邪気を踏みしめ霊廟をお守りしています。実踏の時にはシートで覆われていた二天門ですが、修復が終わり一番きれいな状態で門を見ることが出来ます。
増上寺の築地壁の先に三解脱門を見て二代将軍霊廟の惣門の前を通過し、港区立芝公園では平和の灯を見ることが出来ます。港区のページから引用してみましょう。
平成17年8月15日、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経ちました。これを記念し、区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。
平和の灯デザインは、子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものとなっています。
芝丸山古墳の脇を通りプリンス芝公園を通過します。ここは東京タワーのビュースポットです。赤羽橋から桜田通りを南下し、三田2交差点を直進し次の信号を西に折れて聖坂に入ります。ウォーキングイベントでは坂は避けたいところですが、聖坂は徳川家康が江戸に入った時にとおった由緒正しい道なのでこのコースを採用しました。
桜田通りは国道1号、つまり東海道で第二京浜とも呼ばれます。広重が書いた東海道五十三次はもっと海側を通っているイメージがあると思います。このルートは徳川家康が整備した五街道の東海道で、国道15号第一京浜がそのバイパスにあたり、南側に旧東海道として道が残っています。整理すると第一京浜が江戸時代の東海道のパイパスで、第二京浜は鎌倉時代の東海道のバイパスです。もっとも鎌倉時代往来があったのは鎌倉京都間であり、へき地の江戸へ向かうこの道は単なる田舎道だったのでしょう。高野山で修業した高野聖と呼ばれるお坊さんが寄付を募って整備したので聖坂と呼ばれるようになりました。余談ですが第三京浜は有料道路です。東名高速道路の一部になる予定で整備された有料の私道でしたが、東名高速のルート変更により現在に至ります。第三京浜についてWikipediaから「変遷」を抜粋します。
国道15号第一京浜と国道1号第二京浜に続いての東京と横浜を結ぶ京浜道路として、第三京浜道路が計画された。
元々の計画は、1929年(昭和4年)5月に鎌倉急行電気鉄道が、渋谷駅から藤沢駅を通り鎌倉坂ノ下までの鉄道事業免許を取得し、その後、自動車専用道路に計画を変更したことが始まりである。また、1954年(昭和29年)3月に東京急行電鉄が、渋谷から江ノ島間に東急ターンパイクの計画をしたが、建設省による整備が決まったことにより、代わりとして田園都市線の計画に変更することになる。
1964年(昭和39年)10月6日に一部区間が開通し、1965年(昭和40年)12月19日に全線開通となる。開通当初は、一般都県道東京野川横浜線とされ国道に指定されなかった。これは当時の法令などにより国道指定が困難であったため、都道府県道とされた。しかしながら、道路の長さを伸ばすことが重視されていた時代のなか、破格なまでの幅員で建設され、日本で初めて「6車線の自動車専用道路」となる。更には、自動車専用道路として初めて全線に水銀灯の道路照明灯も設置されることとなった。今日でも交通の流れはスムーズに保たれ、出口付近以外での渋滞も少ないので便益は高い。
高輪皇族邸(仙洞仮御所予定地)
聖坂を上り伊皿子を通過する道は二本榎通りと呼ばれます。旧華頂の宮邸跡亀塚公園の先に御田小学校があり「三田」の原型が「御田」だったことが分かります。目黒六か村の一つである三田村は飛び地で、港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にあります。
地図では「高松宮邸」とも表記される高輪皇族邸も先週の台風15号の被害があったようです。江戸時代この辺りは肥後細川家下屋敷で忠臣蔵の舞台となります。
ゆかしの杜(旧公衆衛生院)
高輪で桜田通りへ戻り、清正公前から目黒通りに入り日吉坂を上ります。台地の上東大医科学研究所となりにある港区の施設「ゆかしの杜」でトイレ休憩をとります。戦前関東大震災復興事業としてロックフェラー財団の寄付により建設された国立公衆衛生院は2018年ゆかしの杜として公開されました。
港区白金台4丁目、品川区上大崎2丁目、渋谷区恵比寿3丁目の三区界で外苑西通りを横断し、品川区上大崎2丁目、渋谷区恵比寿3丁目、目黒区三田1丁目の三区界から区界沿いを歩きガーデンプレイス内恵比寿神社前を通ります。サッポロビール本社前、アメリカ橋、茶屋坂とお馴染みのコースを通り目黒区民センターに到着し実行委員会を行ってコース確認は終了でした。お鷹狩り当日のゴールは田道広場公園となります。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
こちらのページから申し込みが出来ます。その内容を一部引用してみましょう。
「健康なまちめぐろ」の実現を目指し、ウォーキングによる健康づくりを進めています。歩く機会の少なくなった現代において、歩く楽しさや、心地よさを区民のみなさんに感じていただくため、今年も「将軍お鷹狩りウォーク」を実施します。ふるってご参加ください!!
ゲームを目的としたイベントへの参加はご遠慮下さい。
第17回めぐろウォーキングマーチ 将軍お鷹狩りウォーク
内容
日時 令和元年11月3日(日曜日・文化の日)。小雨決行です。
対象 医師から運動を制限されていない区内在住・在勤・在学者。なお、小学生以下のかたは保護者同伴です。
定員 9.8キロメートルコース300人、6.4キロメートルコース200人(いずれも先着順となります)
参加費 各コース保険料など700円、小学生以下は無料です。
聴覚障害者で手話通訳をご希望の方は、申し込みの際お申し出ください。
コース紹介
9.8キロメートルコース
東京都立日比谷公園健康広場(集合場所及びスタート地点)、虎ノ門ヒルズ、愛宕神社・出世の石段、都立芝公園(トイレ休憩)、御成門・二天門、増上寺、芝丸山古墳、プリンス芝公園、聖坂、御田小前、高輪皇族邸(仙洞仮御所)、大石良雄外十六人忠烈の跡、高輪区民センター、ゆかしの杜(トイレ休憩)、目黒区三田一丁目(目黒区最東端)、サッポロビール本社(恵比寿ガーデンプレイス)、茶屋坂を通って田道広場公園まで
時間 午前9時30分から午後2時(予定)
集合時間 午前9時
集合場所 都立日比谷公園・健康広場
6.4キロメートルコース
都立芝公園4号地多目的運動広場(集合場所及びスタート地点)、御成門・二天門、増上寺、芝丸山古墳、プリンス芝公園、麻布十番、暗闇坂、一本松坂、有栖川宮記念公園(トイレ休憩)、広尾橋、渋谷区恵比寿社会教育館、サッポロビール本社(恵比寿ガーデンプレイス)、茶屋坂を通って田道広場公園まで
時間 午前9時50分から午後1時20分(予定)
集合時間 午前9時20分
集合場所 都立芝公園4号地・多目的運動広場
お申し込み
お申し込み方法
電話、ファックスまたはハガキ、スポーツ講座申し込みシステム(メールでのお申し込み)で、10月15日(必着)までにスポーツ振興課スポーツ事業係へお申し込みください。お申し込みには次の事項が必要です。
日比谷公園
日比谷見附の石垣とミッドタウン日比谷
私の担当はロングコースで、日比谷公園健康広場スタートです。江戸時代百万都市といわれた江戸の街ですが、明治維新により各大名の屋敷が不要となりそれぞれの領地に帰ってゆきます。人口は五十万まで減少、大名屋敷で働いていた人々は失業者となり不況に見舞われます。丸の内にあった大名屋敷は取り壊されて帝国陸軍の練兵場となり、霞ヶ関界隈には役所が設けられました。地盤が軟弱だった場所にドイツ留学から帰国した本多静六を中心とするメンバーによる設計で現在の日比谷公園が造園されました。
虎ノ門ヒルズ
健康広場をスタート後日比谷公園内の見所を見た後、白山通りを南下します。将軍が目黒筋に鷹狩りに行く際、青山通りのルートともにこちらのルートも使われていたようです。
歴代徳川将軍が鷹狩りをしたものと思っていましたがそんなことはないようです。三代将軍家光の頃盛んにおこなわれました。徳川将軍家の鷹狩りについてWikipediaの「鷹狩」から一部を引用します。
戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名で、単なる鷹好きとか慰めの域を越えて確たる養生法と捉えていた。『中泉古老諸談』によると家康は鷹狩を気分転換の遊芸にとどめず、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られている。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。3代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。5代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、8代将軍・吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている。
鷹は奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は1据10両、中期では20-30両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった。
鷹狩に用いる鷹の繁殖をはかるため、その巣を保護するため、狩猟や入山を禁じた山もあり、それらは巣山や巣鷹山と呼ばれた。
芝公園
愛宕神社出世の石段の前を通り愛宕通りを南下すると芝公園3交差点には歩道橋のみで横断歩道がないため日比谷通りの横断歩道を渡り芝公園に入ります。芝公園の広大な敷地は元は増上寺の敷地でしたが、明治維新後に公園となり敷地が芝公園地1-25号地の計25区画に振り分けられるました。この場所はお鷹狩ショートコースのスタート地点となりお知らせにも「都立芝公園4号地」となっていますが、行政以外に「号地」を使う習慣もないので、場所を説明するのに苦労するところです。
芝公園でトイレ休憩をとった後、増上寺へ向けて出発するとすぐに御成門、二天門があります。現在は東京プリンスの敷地内にあるのでこの二つの門が増上寺の門だった認識はあまりないかもしれません。増上寺には上野寛永寺同様に徳川将軍の霊廟が置かれました。増上寺に将軍がお参りする際に使用されたのが御成門であり、七代将軍霊廟の西の守りが二天門になります。持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)の四天王のうち広目天、多聞天が二天門の左右で邪気を踏みしめ霊廟をお守りしています。実踏の時にはシートで覆われていた二天門ですが、修復が終わり一番きれいな状態で門を見ることが出来ます。
増上寺の築地壁の先に三解脱門を見て二代将軍霊廟の惣門の前を通過し、港区立芝公園では平和の灯を見ることが出来ます。港区のページから引用してみましょう。
平成17年8月15日、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経ちました。これを記念し、区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。
平和の灯デザインは、子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものとなっています。
芝丸山古墳の脇を通りプリンス芝公園を通過します。ここは東京タワーのビュースポットです。赤羽橋から桜田通りを南下し、三田2交差点を直進し次の信号を西に折れて聖坂に入ります。ウォーキングイベントでは坂は避けたいところですが、聖坂は徳川家康が江戸に入った時にとおった由緒正しい道なのでこのコースを採用しました。
桜田通りは国道1号、つまり東海道で第二京浜とも呼ばれます。広重が書いた東海道五十三次はもっと海側を通っているイメージがあると思います。このルートは徳川家康が整備した五街道の東海道で、国道15号第一京浜がそのバイパスにあたり、南側に旧東海道として道が残っています。整理すると第一京浜が江戸時代の東海道のパイパスで、第二京浜は鎌倉時代の東海道のバイパスです。もっとも鎌倉時代往来があったのは鎌倉京都間であり、へき地の江戸へ向かうこの道は単なる田舎道だったのでしょう。高野山で修業した高野聖と呼ばれるお坊さんが寄付を募って整備したので聖坂と呼ばれるようになりました。余談ですが第三京浜は有料道路です。東名高速道路の一部になる予定で整備された有料の私道でしたが、東名高速のルート変更により現在に至ります。第三京浜についてWikipediaから「変遷」を抜粋します。
国道15号第一京浜と国道1号第二京浜に続いての東京と横浜を結ぶ京浜道路として、第三京浜道路が計画された。
元々の計画は、1929年(昭和4年)5月に鎌倉急行電気鉄道が、渋谷駅から藤沢駅を通り鎌倉坂ノ下までの鉄道事業免許を取得し、その後、自動車専用道路に計画を変更したことが始まりである。また、1954年(昭和29年)3月に東京急行電鉄が、渋谷から江ノ島間に東急ターンパイクの計画をしたが、建設省による整備が決まったことにより、代わりとして田園都市線の計画に変更することになる。
1964年(昭和39年)10月6日に一部区間が開通し、1965年(昭和40年)12月19日に全線開通となる。開通当初は、一般都県道東京野川横浜線とされ国道に指定されなかった。これは当時の法令などにより国道指定が困難であったため、都道府県道とされた。しかしながら、道路の長さを伸ばすことが重視されていた時代のなか、破格なまでの幅員で建設され、日本で初めて「6車線の自動車専用道路」となる。更には、自動車専用道路として初めて全線に水銀灯の道路照明灯も設置されることとなった。今日でも交通の流れはスムーズに保たれ、出口付近以外での渋滞も少ないので便益は高い。
高輪皇族邸(仙洞仮御所予定地)
聖坂を上り伊皿子を通過する道は二本榎通りと呼ばれます。旧華頂の宮邸跡亀塚公園の先に御田小学校があり「三田」の原型が「御田」だったことが分かります。目黒六か村の一つである三田村は飛び地で、港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にあります。
地図では「高松宮邸」とも表記される高輪皇族邸も先週の台風15号の被害があったようです。江戸時代この辺りは肥後細川家下屋敷で忠臣蔵の舞台となります。
ゆかしの杜(旧公衆衛生院)
高輪で桜田通りへ戻り、清正公前から目黒通りに入り日吉坂を上ります。台地の上東大医科学研究所となりにある港区の施設「ゆかしの杜」でトイレ休憩をとります。戦前関東大震災復興事業としてロックフェラー財団の寄付により建設された国立公衆衛生院は2018年ゆかしの杜として公開されました。
港区白金台4丁目、品川区上大崎2丁目、渋谷区恵比寿3丁目の三区界で外苑西通りを横断し、品川区上大崎2丁目、渋谷区恵比寿3丁目、目黒区三田1丁目の三区界から区界沿いを歩きガーデンプレイス内恵比寿神社前を通ります。サッポロビール本社前、アメリカ橋、茶屋坂とお馴染みのコースを通り目黒区民センターに到着し実行委員会を行ってコース確認は終了でした。お鷹狩り当日のゴールは田道広場公園となります。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール