目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】第18回目黒ウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク

2019-05-23 16:50:37 | ウォーキング
11月3日、目黒ウォーキング協会がかかわる一年で最も重要なイベントです。現在コースの選定を行っており、気になる場所を歩いて確認してきました。伊皿子坂あたりからにしようと思ったのですが、芝公園で一か所気になっている部分があり御成門へ向かいました。


御成門
駅名としてはおなじみでしたが、門が残っているとは知りませんでした。港区のページから引用します。(以下引用元がないものは港区のページからの引用です)
増上寺の裏門としてつくられましたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので「御成門」と呼ばれるようになりました。初めこの門は現在の御成門交差点にありましたが、明治25年の東京市区改正計画で、内幸町増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築されました。
増上寺三門や庫裡門・徳川家墓地の惣門・二天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から何を逃れて今日に及んでいます。



二天門(改修中)
増上寺にある有章院霊廟二天門は重要文化財です。門の左右には神がいます。向かって右が北方を守る多聞天・左が西方を守る広目点です。仏教の護法神。


増上寺築地塀

増上寺
浄土宗大本山。上野寛永寺と並ぶ徳川将軍家の廟所で、6名の将軍、和宮(静寛院宮)、将軍生母らが埋葬されています。



台徳院霊廟惣門
寛永9(1632)年造営の2代将軍徳川秀忠の廟所です。昭和20(1945)年の東京大空襲で、幾つかの門だけが罹災を免れ保存されました。


港区立芝公園のバラ

平和の灯
平成17年8月15日、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経ちました。これを記念し、区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。



港区立芝公園から見た東京タワー

芝丸山古墳
5世紀後半の築造と推定される都内最大級の前方後円墳。古墳の麓には縄文後期の裏鬼門に位置し、山中鎮守の重要な地を占める円山稲荷や伊能忠敬側地遺功表があり、自由に登れます。


伊能忠敬側地遺功表
明治22年、東京地学協会が日本地図を作った測量の先駆者・伊能忠敬の功績を顕彰して建てたもの。当時の物は戦災で失われたため、現在の遺功表は昭和40年に再建されました。丸山古墳の頂上にあります。



プリンス芝公園から見た東京タワー

赤羽橋欄干
国道1号で三田から東京タワーへと向かう途中の古川にかけられている赤羽橋。延宝3(1675)年、川を深くし 際に造られました。赤羽の語源は赤埴(あかはに)。埴とは粘土の意味で、付近で赤い粘土がとれたことからこの名前がつけらたといいます。
当時、橋の西側には久留米藩有馬氏の上屋敷が広がり、屋敷内には“江戸一”と称された火の見やぐらが立てられていました。橋の周りには芝浦で捕れた魚の朝市が並び、漁師たちが一寸(ちょっと)商いをすることから、「ちょろ河岸」とも呼ばれていたそうです。
幕末には歴史の舞台にも登場。新撰組結成のきっかけをつくった尊皇攘夷志士の清河八郎は赤羽橋辺りで暗殺されました。
現在の橋は昭和49(1974)年に造られたもの。たもとには、明治、大正期のものと思われる重厚な欄干(らんかん)が残されています。



桜田通りから見た東京タワー

聖坂
古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。


「蟻鱒鳶ル」(ありますとんびる)

亀塚公園
「亀塚公園」という名のとおり、園内には「亀塚」が保存されています。その名にちなんだ亀のスプリング遊具や園名板なども設置されています。
平成19年に斜面地に階段を整備し、園内を通って三田三丁目と四丁目を行き来することが可能になりました。
また、園内には都心では珍しくなったカントウタンポポを保全しており、毎年4月から5月の開花時期に合わせ、開放しています。1年にこの時期のみ開放しておりますので、みなさまぜひ見に来てください。




幽霊坂
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。


御田小学校
港区の三田はもともと「御田」で、天皇家の領地で田圃があったと言われており、目黒区三田もその飛び地だったということです。目黒の地名から引用します。
目黒の地名 三田(みた)
更新日:2014年2月3日

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 三田
「三田」は、区内で一、二を争う古い歴史をもつ地名。その由来は、遠く大化の改新以前にまでさかのぼるといわれている。
十世紀初めに編さんされた「倭名類聚抄」によると、古代、武蔵国荏原郡に「御田郷」と呼ばれる土地があり、その名は、大化の改新以前の天皇の直轄領地「屯田(みた)」に由来するものというのが定説。明治半ばまで旧目黒六か村の一つであった三田村の地は、古くは、港区の三田とともに、この「御田郷」に属していたと推定され、その後、十五世紀ごろまでに、港区三田に当たる地域が「三田村」、目黒区三田一帯が「銀(しろがね)三田郷」と、二つの地域に分かれ、さらに江戸時代以降、「銀三田郷」が港区の白金村と目黒区の三田村とに分かれていったものとみられている。
なお、こうした経緯から、港区三田と目黒の三田は、ともに今日まで、現在港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にある。
しかし、江戸時代以降の両者の発展には大きな相違がみられる。港区の三田から白金辺りまでは町奉行支配地となって開けた一方、目黒の三田村は、その大半が幕領や大名・旗本の別邸などで占められたこともあるが、文化・文政の江戸繁盛期でさえ戸数十戸余り。三田用水から引いた滝が落ちる名園など、景勝の地としてのみ知られてきた。
明治以降、山手線の敷設やビール工場の建設など、開発の波に見舞われながらも、鉄道が掘割の中を通り、地勢が急なことから、近年まで、なお昔の面影を残してきた。しかし、平成6年10月に恵比寿ガーデンプレイスが開業し、この地域も大きく様変りした。




高輪皇族邸
Wikipediaから引用します。
高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)とは、東京都港区高輪にある宮内庁管轄の施設。大正時代に東宮御所が置かれ、戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年(昭和6年)から2004年(平成16年)まで高松宮宣仁親王(1987年薨去)と宣仁親王妃喜久子の住まいだった。

中略

2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位し上皇となる事に伴い、仙洞御所(従来の東宮御所を新天皇の赤坂御所として使用した後に、改修の上で改められる予定)が整備されるまでの間、仙洞御所の假寓「仙洞仮御所」として、当地が使用される。仙洞御所の整備が終わってからは、これまで赤坂東邸が担ってきた皇族共用の邸宅として使用される方針としている。






大石良雄ほか16人忠烈の跡
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 都内には忠臣蔵で有名な赤穂事件にまつわる旧跡がいくつかありますが、この旧跡もその中の一つです。赤穂浪士の中で、大石内蔵助良雄を含む17名が切腹をした場所と伝えられています。
 元禄14年(1701)の江戸城松之廊下の刃傷事件に端を発した赤穂事件は、翌15年12月、吉良邸討ち入りという事件に発展します。吉良上野介を討ち取った大石内蔵助一行46名(四十七士のひとり寺坂吉衛門は、途中で姿を消しています。)は、泉岳寺にある主君浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えた後、幕府の命により細川家を含む4家にそれぞれ預けられました。大石内蔵助ら17名を預かった細川家は、高輪の下屋敷にて彼らを丁重に扱ったと記録に残されています。元禄16年(1703)2月4日、幕府の命が下り、同日中に全員が預けられた先で切腹をしました。切腹の後、46人の遺骸は主君と同じ泉岳寺に送られ、埋葬されました。
 大石内蔵助らが切腹をしたかつての広大な細川家高輪下屋敷の敷地は、現在、高松中学校などになっていますが、細川家の屋敷跡の一部が塀に囲まれて残されており、往時をしのばせます。




旧細川邸のシイ
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 かつて熊本藩細川家の下屋敷があった港区高輪地区総合支所裏手の高台に、スダジイの老木があります。主幹は高さ10mあたりで切断され、下部の空洞は樹脂で埋められていますが、幹囲が8m以上ある巨木です。
 スダジイはブナ科に属する常緑広葉樹で、福島県・新潟県以南の山野に自生しています。葉は長さ5~10cm、幅2~3cmで先端は急に細くなり、しっぽ状に突き出ています。初夏に花が咲き、翌年秋には先の尖った卵形の堅果どんぐりが熟します。
 このスダジイは、歴史上の様々な出来事、江戸~東京の街が度重なる火災や震災、戦災を乗り越えて発展を続けてきた姿を、静かに見つめ続けてきたことでしょう。



高輪コミュニティプラザ


絶江坂
承応2年(1654),坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転して来た。初代和尚絶江が名僧で 付近の地名となり 坂名に変った。


白金一丁目
一昨年のお鷹狩りロングコースで歩いたところですが、再開発で道がなくなっていました。




高輪消防署二本榎出張所
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 昭和8年(1933)12月8日に完成した消防署庁舎です。海抜25mの尾根道の交差点にそびえ建つ、鉄筋コンクリート造3階建ての建造物で、建築当時は周囲に高い建物がなく、東京湾を眼下に眺望できたそうです。
 1階と2階は街路に沿ったL字型の平面です。その角の玄関を、8本の円柱で囲んだ円形平面にして3階まで立ち上げ、さらに望楼をのせます。伸びやかで魅力的な造形は、警視庁総監会計営繕係(担当者は越智操)の設計、間組の施工によるものです。
 外観全体をタイルで覆い、窓の連続窓台や屋上パラペットで水平線を強調して引き締めます。また、開口部の(擬石)洗出し仕上げも外観上のアクセントとなっています。
 交差点に面した玄関を入り、滑らかな砥ぎ出し仕上げの階段を上ると、柱頂部や天井廻りに繊細なモールディング(蛇腹)が施 されていることに気付きます。3階は広い円形講堂で、外同の8本の円柱から梁が放射状に飛ばされ中心で集まる、力強く躍動感のある意匠が特徴です。講堂の柱には現庁舎が落成した時に設置されたガス燈が、当時のまま保存されています。
 
ひと休み <~二本榎の由来~>
 江戸時代、この辺りにあった寺の門前に榎の木が2本あり、旅人のよき目標になっていたそうです。榎が枯れた後も「二本榎」は地名として残りました。
 現在、地名は変わりましたが、その歴史を残す「二本榎の碑」が、承教寺に建てられています。



明治学院インブリー館
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 日本で最初の本格的な和英辞典『和英語林集成』の編纂とヘボン式ローマ字表記法の考案で知られるヘボン博士は、安政6年(1859)に来日した米国人宣教医師で、無償の施療事業、和英辞典の編纂、聖書の翻訳の傍かたわら、文久3年(1863)に夫人と共に英学教育のための「ヘボン塾」を開設しました。明治学院は、この「ヘボン塾」を起源とする、白金の地に明治20 年(1887)に開設された私立学院です。構内には校舎や寄宿舎、宣教師館が設置され、今でも明治22年(1889)頃竣工の宣教師館(インブリー館)1棟、明治23年(1890)竣工の神学部教室兼図書館(記念館)が現存しています。
 旧宣教師館は、住人のうち最も永く住んでいたW.インブリーにちなみインブリー館と命名されました。この建物は、19世紀後半に流行したアメリカ建築様式のひとつ(ゴシックリバイバル)を多く取り入れた本格的洋風住宅建築であり、都内に現存する最古の宣教師館として極めて貴重なものです。壁の外装は、妻壁つまかべの鋸歯模様のシングル葺きと外壁胴部の鱗状シングル葺きが特徴です。内装には、ホールを中心とする開放的な平面計画と各部屋で異なる床の寄木張り、木部のワニス塗りなど、それまでの日本建築にはなかったものが見られます。また、日本人大工の施工を裏付ける手板等が見つかっています。
 宣教師館としての役割を終えた後も様々な用途に供され、昭和39年(1964)に国道1号線の拡幅のため現在地に曳屋されました。平成7年(1995)から2年間かけて行った保存修理工事で、ほぼ創建当初の姿を取り戻しています。




桑原坂
今里村の地名のひとつである。その起源について特別の説は残っていない。






ゆかしの杜(旧公衆衛生院)
平成21年に国から取得した、昭和13年に竣工した公衆衛生院(内田祥三(うちだよしかず)設計)を、耐震補強やバリアフリー化し、歴史的な建物を保存しながら活用するための改修工事を行いました。

内田祥三プロフィル
麻布笄町に在住していた港区ゆかりの人物。
明治18(1885)年2月23日生まれ。東京大学大講堂(通称安田講堂:国の登録文化財)をはじめとした東京大学本郷キャンパス等を設計し、東京大学総長も務めた。






東京大学医科学研究所付属病院
東京大学のページから引用します。
白金の高台にある東京大学医科学研究所のキャンパスは目黒通りと外苑西通りに囲まれている。目黒通りに面する正門から入ってくると、緑に囲まれた公園と赤茶色のレンガつくりの近代医科学記念館がまず目に留まる。緩く曲がっている道を進むと、木々の間から時計台のある3階建てのゴシック様式風の本館が見えてくる。関東大震災のすぐあと、のちに総長となる内田祥三が耐震・耐火建築研究の実績にたって設計したものである。本館の奥には、8階建ての真新しい病院棟と研究棟が並び、その左右には基礎研究と臨床研究のための建物が密集している。ここまで来ると緑がすくなくなっている。約7万平方メートルのこの敷地に、1000人近くの教職員、研究員、ポストドクトラルフェロー、大学院学生らが、医科学研究と先端医療に励んでいる。

東京大学医科学研究所の大きな特徴は、附属病院を持つわが国最大規模の生命科学の研究所であることである。100余年前に北里柴三郎が創立した私立衛生会附属伝染病研究所を前身とし、当初から病院を有し、ベンチからベッドへの精神のもと、伝染病に苦しむ人々の治療に向けた研究と医療が進められた。40~50年前に社会の衛生状態が改善されると、研究所では伝染病のための研究だけでなく、がんや免疫疾患についての研究も行われるようになってきた。現在では、がん、感染症やその他の難治疾患を対象にした最先端の研究と医療が進められている。




日東坂
日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝える。大正初年に開かれた坂と推定される。





恵比寿ビール本社

シモツケ
港区、渋谷区、品川区の三区界、目黒区、渋谷区、品川区の三区界を歩いて恵比寿ガーデンプレイスで下見を修了しました。今回港区を中心に下見をしましたが、目黒区と港区は微妙に接しておらず区界はありません。
旧東海道である聖坂を通るコースは久しぶりで、採用できればよいコースとなりそうです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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