文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

トゥナイトと、小沢遼子足蹴り事件

2010年10月12日 16時04分11秒 | 日記

トゥナイト

テレビ朝日の番組『トゥナイト』は、山本晋也カントクと田原総一朗の直撃コーナーを二枚看板としていた。この番組でレポーターが小室の家を訪問リポートした。四畳半アパートである。ほぼ寝起きのような極端にラフな格好で小室は応対した。

 

部屋自体が狭いので、訪問レポートそのものはすぐに終わりそうであった。しかし、レポーターが部屋の片隅に積まれているビニ本を見つけ(小室が当時独身であることは広く知られていた)、「先生はこういうのを見ておられるんですか…」と発言すると、小室は毅然となりこう答えた。「これ(エロ本)さえあれば女はいらんのですよ! エロ本は飯食わない!」。

 

いっぽうで小室は週刊誌の企画でソープランドに行き、ソープ嬢とのキスの写真を撮らせたりもしていた。小室自身はこう語っている「人間なんて、命賭ける理想と同時に、下賤な部分だって持っている。その両方を公平に見て欲しいな」(雑誌『ビッグ・トゥモロウ』19844月号のインタビューに答えて)。

 

 小沢遼子足蹴り事件

1983126日、ロッキード事件被告田中角栄への求刑公判の日、テレビ朝日の番組「こんにちは2時」の生放送に出演した。番組のテーマはもちろん角栄の裁判であり、小沢遼子ら反角栄側2人と小室による討論を行った。

 

ところが冒頭、突然立ち上がってこぶしをふり上げ、「田中がこんなになったのは検察が悪いからだ。検事をぶっ殺してやりたい。検察官は死刑だ。」とわめき出し、田中批判を繰り広げた小沢遼子を足蹴にして退場させられた。

 

ところが、翌日朝、同局は小室を「モーニングショー」に生出演させた。その際さらにパワーアップしてカメラの面前で「政治家は賄賂を取ってもよいし、汚職をしてもよい。それで国民が豊かになればよい。政治家の道義と小市民的な道義はちがう。政治家に小市民的な道義を求めることは間違いだ。以下略」などと叫び、そのまま放送された。

 

これをもってテレビ出演はほとんどなくなり、以後、奇人と評された。

 

テレビでの小室の発言は新聞や雑誌などで取り上げられ、新聞の投書欄にも一般の人から意見が寄せられた。それらの多くは小室を奇矯な発言をする人物として非難していた。しかし反対にこの事件をきっかけに興味を持って小室の本を読みはじめた者もいた。


評論活動とエピソード。

2010年10月12日 15時52分28秒 | 日記

 評論活動

『ソビエト帝国の崩壊』で、ソ連崩壊とその過程を10年以上も前から予言していた。後の『ソビエト帝国の最期』(1984)には富永の推薦文があり、小室を天才だと評し、「しばらくしたら再びアカデミズムの世界に戻ってくるように」とまで書いている。『ソビエト帝国の崩壊』の出版から、十数年間にわたって光文社のカッパビジネス、カッパブックスより刊行された27冊の著作群は、多くの人に愛読された。その他多数の著作がある。

 

著作数は、小室一人の著作で、内容が同じか、ほぼ同じである再出版の本をカウントしない場合、約60冊になり、共著のものは10数冊、また、再出版されたものが10冊程度存在する(19762008)

 

ロッキード事件では渡部昇一らと共に田中角栄の無罪を主張した。その論拠は、刑事免責を付与して得られた嘱託証人尋問調書は、反対尋問権を保障した憲法に反するという点にあった。

 

後に最高裁は、この論点には触れず、刑事免責に関する立法の欠如を理由に、嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定したが、その点を考慮しても他の関係証拠によって犯罪事実は認定できるとした。

 

なお、この最高裁判決には、反対尋問の機会を一切否定する嘱託証人尋問調書は、刑事訴訟法1条の精神に反し証拠能力が否定されるとする補足意見がある。

 

著書は独特の饒舌な文体で書かれ、各分野の深い教養と、漢籍に基づく表現、一方で「二つ木魚のアホダラ経」「言うだけ谷保の天神様」といった駄洒落がちりばめられており、小室特有の文章世界を形成し、社会学・経済学の要点を分かりやすく、正確に説明している。

 

 エピソード

  会津にいた頃から秀才の誉れ高く、福島県立会津高等学校時代、数学、物理などの学力は高校教師を凌ぐほどであり 、後に政治家となる渡部恒三、弁護士の渡部喬一(第二東京弁護士会所属)と知り合う

 

 大学の経済学部の教育について、「中身が無い。自分だったら3日でやれることを1年がかりでやっている。大学で勉強するなら数学、物理など演習のあるものをやった方がいいですよ」と答えていた。

 

  他の研究者が驚くほどの読書力を持っているようで、本人の話では日本語、英語のふつうの本ならば、一時間で読んでしまうとのことで、また重要と思われる本は、最低10回は読むとのことで、学生にもテキストの徹底した精読をアドバイスしている。

 

  ベストセラーを書くまでの主な収入は家庭教師で、受験生のほか、大学の研究者(教授など)まで教えたことがあったとのことである

 

  『ソビエト帝国の崩壊』を書くきっかけは、病気で入院した際の費用の捻出に困ったためと言われていて(たとえば渡部喬一『商法の読み方』(祥伝社)など参照)、小室の才能を知る友人(渡部喬一弁護士、山本七平など)がサポートをしたとされている。


小室直樹の学説・思想。

2010年10月12日 15時38分39秒 | 日記
小室は、その行動から奇人と評されることが多いが、その思想・学説は全て原理、原則に基づくもので、小室自身も学生や一般読者に向けて「正当な学問」を学ぶことの重要性を説いている。

小室は、典型的な軍国少年で、日本の敗戦の知らせを聞いたときの悔しさが学問を志す原体験となっており、高校在学中に湯川秀樹博士のノーベル賞受賞を聞くと、日本がアメリカ合衆国を打ち倒し、世界から尊敬を受けることができるようになる国になるための研究ができると思い、京大理学部を志望した。

ところが、小室が京大に入学したころは既に湯川が研究の第一線を退いていたため、小室は、失意の日々を送っていたが、ジョン・ヒックスの『価値と資本』の解説を書いていた市村真一の論文を読んで、まるで理論物理学のようなエレガントさに魅了されて、学問の枠を超えて、理論経済学に興味を持ち、当時高田保馬が森嶋通夫 、安井琢磨、二階堂副包ら日本のトップレベルの経済学者を大阪大学社会経済研究所に集め、阪大ゴールデン時代とまで呼ばれた大阪大学大学院経済学研究科に進学し、「正当な学問」を身につける。

このような経緯から、経済学が小室の思想の出発点となったのである。小室は、レオン・ワルラスの一般均衡理論によって初めて経済学が単なる思想ではなく、科学として成立したとした上で、この「正当な学問」としての経済学を日本に正しく紹介したのは高田保馬であるとする。

高田の「私が一生かかっても十分に理解できない学者が二人いる。ケインズとヴェーバーだ」との言を聞いた小室は、いつか両学者の研究をすることを決意する。

小室は、市村真一の期待を一身に受け、経済学の本場アメリカに留学することになるが、研究を進めるに連れて、ヒックス、サミュエルソン、アローなどにより理論経済学の研究は完成されてしまったと考え、社会学と政治学の理論化を研究しようと決意する。そのためには、当時実証科学の条件を満たしていた心理学を学ぶことが社会学や政治学の理論化に有益であると考え、スキナーの下で行動主義心理学を学び、学問の分野を超えて最先端の「正当な学問」を身につけて帰国するが、経済学から転向することを告げると市村から破門された。

その後、小室は、様々な分野の学問の研究を続けていたが、高田保馬の『社会学概論』(岩波書店)の解説を書いた富永健一から社会学を学ぶようになったことがきっかけで、社会学の雑誌に立て続けに一連の論文を発表し、行動主義心理学を社会学に応用したパーソンズの構造機能分析を日本で他に先駆けて整理して論じた。

後掲「社会動学の一般理論構築の試み」を発表すると、この論文が川島武宜の目に止まり、川島編集の後掲『法社会学講座』の編集協力・執筆に冨永と共に加わることとなった。

『法社会学講座』は、当時著名な教授・助教授が執筆者として名を連ねているが、当時無名であった小室の経歴だけが「京大卒」とのみ書かれているほど異例の大抜てきであった。

その論文の内容は、理論経済学を社会学に応用しようとする、ホマンズの社会行動論を踏まえながら、ワルラスの一般均衡理論を構造機能分析を利用して法社会学に応用し、自身が提唱した「規範動学モデル」によって、日本とは全く社会的な条件が異なる西欧社会の法体系を日本に導入した場合、全く同じ条文でも、母法の国と継受国では全く異なる機能を果たすことがある現象の分析が可能になるとするものである。

これにより小室の学説の一般理論は一通り完成するが、その特徴は、スキナー、ホマンズ、パーソンズらから学んだ「正当な学問」を、分野を超えて統合した点にあるといえ、以後その一般理論によって現実の社会現象を分析し、これを予測するという応用の研究を始める。『ソビエト帝国の崩壊』は、正にその構造機能分析を応用し、予言を的中させたものであるとされる。

小室は、人類学の研究を進めていくにつれ、その研究対象が様々な未開社会の親族構造の研究にとどまっていることに不満を持ち、近代資本主義の解明のためには、ヴェーバーを学ぶ必要があると考えるようになり、大塚久雄から直接指導を受ける。

そして、西欧において近代資本主義が発達したのは、宗教革命によって西欧社会のエートスが変化し、プロテスタントが禁欲的労働というエートスを得たからであり、このことから社会における「構造」が絶対不変のものではなく、変化し得るとのアイデアを得る。そして、このアイデアを構造機能分析に応用して、日本において資本主義が定着していったのは、西欧と日本は同じ禁欲的労働というエートスをもっているからであり、その日本における象徴が二宮尊徳であるとする。

その後、小室は、西欧における近代資本主義と日本の資本主義の違いについて研究するため、山本七平の知遇を得て、日本独自の宗教ともいうべき「日本教」、天皇制の研究を始め、これが西欧の古典だけでなく、中国や韓国の古典、儒教、官僚制の研究に繋がっていく。

小室は、自身の応用研究を更に深め、近代資本主義が成立するためには絶対性と抽象性を特徴とする近代的所有権が制度として確立されていることが必要であるとの川島武宜の学説を承継した上で、これを経済学の研究と結びつけてセイの法則が機能を停止し、自由放任が資源の最適分配を行い得なくなった現代社会では近代的所有権の概念は修正されざるを得ないとして発展させた。

小室は、大塚久雄から「川島先生には正当な後継者がいない。川島先生の理論を完成させることができるのは小室さんだけだ。完成させてよ」との遺言を預かるが、遂げられなかった。

*文中黒字は芥川に依る。

小室直樹の来歴。

2010年10月12日 15時31分38秒 | 日記

来歴

1932年、東京都世田谷区生まれ。1937年、5歳の時に同盟通信の記者であった父が死去し、母の故郷である福島県会津若松市に転居する

1951年、福島県立会津高等学校卒業し、京都大学理学部数学科入学。位相幾何学を専攻する。


1955
年、京大を卒業し、大阪大学大学院経済学研究科に進学。市村真一を指導教官とし、市村の家に泊まり指導を受け、高田保馬、森嶋通夫 、安井琢磨、二階堂副包らの下で 理論経済学の研究を始める。


1958
年、阪大大学院博士課程に進学し、森嶋から、小室ともう一人の特別優秀な院生だけが選ばれ、域的安定性の収束過程について特別の指導を受けるなどした。

1959年、阪大大学院を中退したが、市村の推薦で、第2回フルブライト留学生としてアメリカのミシガン大学大学院に留学しダニエル・スーツから計量経済学を1年の間学び、更に奨学金を得て研究を続けることになった。

 

1960年、マサチューセッツ工科大学大学院で、ポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ハーバード大学大学院ではケネス・アロー、チャリング・クープマンスら名だたる人物から経済学を1年の間学ぶ。

 

1961年、再びハーバード大で、バラス・スキナー博士から心理学、タルコット・パーソンズ博士から社会学、ジョージ・ホーマンズ教授から社会心理学を1年の間学んだ。フルブライト留学生の限度が3年だったため、1962年、帰国。

 

1963年、東京大学大学院法学政治学研究科に進学。丸山眞男が指導教官となり政治学を学ぶが、小室が心理学ばかり勉強しているので、丸山の弟子の京極純一に預けられた。その他にも、東大のゼミナールを渡り歩き、中根千枝から社会人類学を、篠原一から計量政治学を、川島武宜から法社会学をそれぞれ学んでいる。

1965年、富永健一から社会学を学ぶようになる。

 

1967年から、ボランティアで所属・年齢・専攻を問わない自主ゼミ(小室ゼミ)を開講し、経済学を筆頭に、法社会学、比較宗教学、線型代数学、統計学、抽象代数学、解析学などを幅広く無償で教授していた。小室ゼミ出身者には橋爪大三郎・宮台真司・副島隆彦らがいる。

 

1970年、大塚久雄の近所に引越し、直接マックス・ヴェーバーについて学びながら、宗教についての研究を始める。後掲「社会科学における行動理論の展開」で城戸賞受賞。

 

1972年、東京大学から「衆議院選挙区の特性分析」で法学博士の学位を取得し、東京大学非常勤講師に就任。

1980年、山本七平の紹介で、光文社から初の一般向け著作である『ソビエト帝国の崩壊』が刊行されベストセラーになり、評論家として認知されるようになる。


2006
年秋、副センター長を務める弟子・橋爪大三郎に招聘されて、東京工業大学世界文明センター特任教授に着任。4年余りであったが終生の仕事とする。

 

201094日に心不全のため東京大学医学部附属病院で死去。満77歳没。99日に葬儀を終えたが公式に発表されず、翌910日、 副島隆彦が自らの公式ウェブサイトの掲示板に投稿し、すでに葬儀を終えたとする小室の訃報を同投稿の前日の9日に受けた旨の記述を行った。928日になり東京工業大学が死去を発表し、これを受け広く報道された。

*文中黒字強調は芥川に依る。


いつもの昼食を食べに行って帰社。

2010年10月12日 12時28分50秒 | 日記

この間から、気になっていた事を弊社専務に尋ねた…この間の小室直樹、どこに在ったか覚えてる…出してくれないかな…。

 

政治家は云々の発言…朝日新聞の論説委員やアエラの三橋氏の論説よりも、小室直樹の、この日以来テレビには出られなくなったという発言の方に、遥かに真実が在ると感じていたからだ。

 

それがウィキペディアであることを知り、驚いた…先般は、そこの部分だけを、ちらっと見たのですね。

 

さて、このウィキペディアである…この20年のマスコミが立花隆を知の巨人等と称したのが、どんなに笑止千万なことかは、一目了然ではないか。

 

更に、彼が、唱えた学説の中に、芥川が此処で書いた事と全く一緒のものが在った事も同時にお伝えします。

 

それでは、この20年、忘れ去られていた人物の凄さを、読者の皆さま方も再発見して下さい。


ゴルフ・フリークだった頃。

2010年10月12日 10時36分08秒 | 日記

これも20年以上前の話だが、当時の僕は、ゴルフ・フリークでもあった…練習嫌いの…打ちっぱなしで黙々と打つのが嫌だったのですね…運動神経に、物を言わせた、下手の横好き…芥川は運動万能だったのです。

 

当時親しくしていたJTBの課長が「芥川さん、カウアイ島に出来たウエスティン・マウイは素晴らしいですよ。おまけにジャック・ニクラウス設計の素晴らしいゴルフ場を併設してる」…早速、行ってみたら、ゴルフ場は建設中だったが。

 

ジャック・ニクラウスに設計させたゴルフ場付きの、海辺のリゾートを創るとしたら、何処が良いだろう…ハワイは、もう十分だろう…ホスピタリティの素晴らしい国…メキシコは遠すぎる…イタリアもしかり…。

 

タイランドしかないな…東南アジアで殆ど反日感情のない国であるだけではなしに…当時、バンコクの「ジ・オリエンタル」は世界中の記者投票で10年連続世界一を続けていた…微笑みの国…ホスピタリティの帝王。

 

当時の顧問弁護士の顧客に、タイの陸軍NO2の娘が経営している会社が在った…三菱商事等にアスパラガスなどの農産物を納入している会社…彼女の会社の中に、弊社の支店を作る事と成り、弁護士と一緒にタイに向かった。

 

大変な強行軍で、タイの南半分に在った候補地を全部見て回った…海は良いのだが、土地が予想より遥かに高かった…タイは王国で、大半の土地は王様の所有…これではペイしないぞ。

 

最後に、プーケットに飛んだ…候補地は、後に、現地財閥と三菱商事出身者が共同出資して作った素晴らしいゴルフ場である、ブルー・キャニオン…

 

何故、芥川が、此処に、ゴーサインを出さなかったかと言うと、海辺ではなかった事と…タイは、ゴルフをするには暑すぎると感じた上に…途中に在ったゴルフ場で日本人がゴルフをしていたのが車中から見えた…一人のプレイヤーに56人のキャディーが付いていた…なんじゃらほい、これはゴルフとは違うものだなと思ったのだ。

 

ハワイに行くのだけが楽しみだったのだが、年々、オーバーナイトのフライトが、体に応えて来ていた…あの便に乗るのが、年々苦痛に成り出していたのと…平成2年から始まった日本の大停滞=不景気…に弊社も苦しみだしていた時、プーケットが頭に浮かんだ…その物価の安さと一緒に。

 

立て続けに、行っていた頃、ブルー・キャニオンに宿泊してゴルフをした時の事…僕は一人で廻るのも大好きなので、一人で廻っていた…僕の二組ほど後に一人で廻っていた日本人が居た…日野暉正だった…彼も死ぬほどゴルフが好きなんだな…彼のゴルフが、キチンと教わったゴルフであることは遠目にも分かった。

 

このゴルフ場のレストランで、スペイン人・ビジネスマンと一緒に食事をした。

…総量規制がもたらした日本の大停滞に話が及んだ…このままだと、弊社も、苦しくなるばかりだ…彼は言った…スペインにおいでよ…ゴルフ代は、わずか数百円、立派な家も日本のワンルームマンション並みで借りれる…買っても安い。

 

帰国して、確認してみたが、彼の言うとおりだった…仕事ばっかりして居ずに、…前章の機会を逃さずにいて、別嬪さんと結婚でもしていたら、今頃は、スペインで暮らしていたかも、と思いもする…この20年の事を考えれば、どちらが幸せだったかは言うまでも無いでしょう。


ついでですが富樫雅彦の生涯をウィキペディアから。

2010年10月12日 09時40分31秒 | 日記
バイオリニストの父の影響を受けてバイオリンを始め、10歳の頃には小野アンナに師事するが、13歳の頃よりドラマーの道を目指し始める。翌年にあたる1954年(14歳)で既に、チャーリー石黒率いる東京パンチョスや松岡直也トリオのドラマーの座を得る。その後も10代のうちに八木正生トリオ、秋吉敏子コージー・カルテット、渡辺貞夫コージー・カルテットなど複数のグループでドラマーとして活躍する。

1961年にジャズ・アカデミー[1]を結成し、以後フリー・ジャズに傾倒する。1965年に日本初のフリー・ジャズ・グループと言われる富樫雅彦カルテットを結成[2]。この頃には、唐十郎(俳優、劇作家)や足立正生(映画監督)と共に「新宿の三大天才」と呼ばれた]。1969年に実験的音響空間集団ESSG[4]を結成。この年、富樫は後世に語り継がれることになるアルバムを連続して生み出す。1月には鈴木弘との双頭コンボで「ヴァリエーション」を録音。3月と7月には佐藤允彦とのトリオで「パラジウム」、「トランスフォーメイション」、「デフォメイション」を録音。4月と6月には宮沢昭と「フォー・ユニッツ」、「いわな」を録音。5月と11月には自身のカルテットで「ウィ・ナウ・クリエイト」、「スピード・アンド・スペイス」を録音。そして12月には映画『略称・連続射殺魔』(監督:足立正生)のためのサウンドトラックとして、高木元輝と「アイソレーション」を録音した。これは富樫が両手両足でドラムを演奏した最後のアルバムとなる。

1970年1月、不慮の事故で脊髄を損傷し下半身不随となるが、5月にはスイングジャーナル誌において読者人気投票ドラマー部門第1位に輝く。約3年半後の1973年7月7日には、「インスピレーション&パワー14 フリージャズ祭」において佐藤允彦とのデュオで復帰する。独自のドラムセットを考案し、両手のみで演奏するパーカッショニストとして、不屈の闘志で活動を再開。1975年には『スピリチュアル・ネイチャー』がスイングジャーナル誌ジャズディスク大賞「日本ジャズ賞」を受賞。その後も「日本ジャズ賞」を繰り返し受賞。受賞回数は日本人ミュージシャン最多。他にも「芸術選奨新人賞」なども受賞している。

海外のミュージシャンとの演奏も多く、ドン・チェリー、スティーブ・レイシー、チャーリー・ヘイデン、セシル・テイラー、マル・ウォルドロン、ゲイリー・ピーコック、リッチー・バイラーク、ポール・ブレイなどと共演している。海外ミュージシャンの中には、日本に行ったら富樫と共演したいと願うミュージシャンも多かった。
負傷後は4ビートのスタイルからは離れていたが、1991年JJスピリッツを佐藤允彦らと結成し、ハイハットとベースドラムなしでも4ビートでスイングできることを示した。

2002年7月27日、日野皓正とのデュオ演奏中に貧血を起こして中止、その後11月に予定されていた演奏も体調悪化のため中止し、演奏家活動を引退。以後は作曲、絵画制作に専念する。
2007年8月22日、心不全のため神奈川県内の自宅で死去。67歳没。これは、富樫が最も尊敬するドラマーマックス・ローチの死去6日後のことであった。

彼の楽曲は、盟友の佐藤允彦、山下洋輔らのミュージシャンによってアルバム化されている。

仕事とは難儀なもの…

2010年10月12日 08時01分12秒 | 日記

前章の事のあと、暫くして、既述の電通社員から電話が有った…彼は、誰でも知っている宝飾会社の御曹司と昵懇だった…横浜ミナト未来博で、この御曹司、彼、そして芥川の3人で、屋形船を手配してある…奇麗どころ3人も一緒です。

 

沖合からレーザービームを眺め、日野皓正のトランペット、富樫雅彦のパーカッションを楽しみませんか…良いね、流石だね…勿論、喜んで…何が何でも行きますよ。

 

この時も、お客さんの事で、行けなくなってしまったのでした。

 

芥川の人生は、つくづく、別嬪に見放されたものだったと思わずに居られませんし、神様の試練は、酷すぎた(笑)


芥川と芸能界の遭遇。

2010年10月12日 07時22分59秒 | 日記

これもまた20年ほど前の話なのですが…当時「お嫁にしたい女優NO1」だった人が所属していた事務所の老女性社長に仕事で出会った…商談が終わり、駅まで車で送った時…車に乗り込んで来た彼女が言ったこと…大阪に、こんな素敵な人が居たとは思いもしなかった…若い時の○○さん…当時、或るTV番組の刑事役で大人気だった…に似ているけれど、○○さんより、知的で、ずっと良い…これもまた、自慢話の類ではありませんので、ご了解下さい。

 

以来、とても親しくさせて頂いた…或る時…渋谷に在った弊社東京支店に居た時の事…芥川さんて、演劇は好きですか…好きもなにも大好きですよ…うちの○○が池袋サンシャイン劇場で、三島由紀夫の○○に出ているんだけど、良かったら一緒に行きませんか…。

 

僕は、当時、とても親しくしていた電通社員に電話を入れた…芥川さん、その女優は、僕が大学生の頃からの憧れの人ですよ…ならば一緒に行きましょう。

 

当然ながら、一番良い席で、「娘道成寺」他2本を堪能したのでしたが…この女優さんは、舞台女優としては天下一品、その声の通りの良さも含めて…最初に、楽屋に一緒に行った時に…初めての経験だった事と、サウナで前夜の酒を抜いたりして、アタフタして到着したので…花束の一つも持たずだったのは、今思い出しても情けない。

 

さて、そんなドジの後、暫くして、彼女から電話が…うちの○○が、明治座で座長公演をしている…その千秋楽に、芥川さんに会いたいと言っているのだけど、どうですか…喜んで、どんな事があっても時間を作ります…。

 

ところが、既述したように、不動産売買仲介業と言うのは99%が、労働者層がお客様…不動産は人生最大の買い物ですから…或る仕事で、どうしても行けなくなってしまった…これは今でも残念に思う。

 

何故かは言うまでも無いでしょう…その看板女優さんと、お会い出来ていたら…芋づる式に、芸能界の別嬪さん達に会えたじゃありませんか…幾ら、神様の試練とは言え、独身で居る苦しみは無かっただろうし、例え、独身で居たとしても、遥かに華やかで幸せな独身生活だったはずですから。

 

仕事とは難儀なものです。


芥川とテレビ局の遭遇。

2010年10月12日 06時46分13秒 | 日記
 

20年ほど前、TBSのディレクターが弊社を2日間、訪問した事がありました。…「時事放談」がマンネリ化を通り越し、新たな番組を始める…ついてはゲストコメンテーターとして出てくれないか…今まで、様々な経営者に会ったが、貴方のような発想の人には会った事がない…として。

 

当時の僕は、既述したように、馬車馬のように働いていた時分で…お客さんや取引先との約束は、必ず、ずれて行く…親友たちは仕方がない事として…遅れるのが当然の芥川として、容赦してくれていたほどに。

 

二日目…彼は、長い事、弊社事務所に居たのですが…社長が本当に忙しいのが、良く分りました…社長室にカメラを持ち込みますから、出てくれませんか…一瞬、心が動いたのですが。

 

高橋和己か、ル・クレジオなのですが…体系としての思索をもった人間…

雑踏の中に居る孤独…それを失いたくなかったので、固辞したのでした。


その後、某大企業で部長をしていた女性が探していた家を仲介した際に、この時の話をしたら…彼女は両手でカメラのフレームを作り、芥川を見た…社長さん、勿体ない、出れば良かったのに…日本中の女性の
8割は貴方のファンになったわよ…これは自慢話等の類ではありません事をご了解ください。

 

神様が、そうした通りに、僕は、いまだ独身なのですが…この時に、イエスと言ったら、一つだけ良い事は確かに在ったでしょう…別嬪に出会う確率は山ほど在っただろうと言う事だけですが


歌。

2010年10月12日 06時20分15秒 | 日記

僕が、日本が生んだ戦後最高のディーバについて、ここで、殆ど言及してこなかったのは、今の、特にTVの有り様の中で、彼女は、変に有名になってはいけない…それは下手をすると、命取りになるからです。

 

僕は、連日TVに登場する芸人のなかでは、当然ながらタモリは認めているのですが…かつて、クレージー・キャッツ全盛時代「日本一の無責任男」等、無責任男シリーズは、子供なのに映画館に見に行ったものでしたが、Mr.タモリは、本人も自認するように「日本一の好い加減男」(笑)だから、日本の音楽番組の司会が平気で出来る訳でして、また、彼が司会だから、音楽とは呼べないものも、それらしく見えているのでしょう。彼は、なかなかの音楽=音の響き、凝り男ですから。

 

今の東京にいたら、この稀代のディーバ…芥川は言っておきますが、このディーバは、このまま成長を続けますと、日本の宝物として愈々素晴らしいものになります…彼女は、日本がマシな国に戻った時に、NHKに、必ず居るはずの、映像と音楽について、本物の誰かが…近年、井上陽水について、特集を組み続けていた様に…暫く後に取り上げるまで、今は、全く登場しない方が良いのです。


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2010年10月12日 05時37分36秒 | 日記

おはようございます。

昨夜は、折れた心を何とか回復し、いつもより、かなり早い時間に就寝。
当然ながら早く起きた訳ですが、1年に1度しか会えない愛しの人(涙)に、まともに会えなかった芥川が、
朝一番にしたことは、「追記」を、アエラのHPで、三橋氏に全文メール…何と空しく、哀しい人生でしょうか。