もう、週刊朝日は売っていないでしょうし…買わなかった方も沢山いることでしょうから、先日、掲載した、嵐山光三郎氏が久々に冴え渡った…久々になんて言ったら怒られるか(笑)…さわりの部分からの続きを贈ります。
そりゃ小沢氏に関してはグレーな部分があり、市民感覚で納得できないところがあるかもしれない。悪人づらで無愛想で、口べたで選挙に強く、民主党党内に子分が多い小沢氏を嫌うという気分はあるだろう。疑惑は、土地取得が04年だったのに05年の報告書に書いた「期ずれ」で、修正申告ですむ問題である。
それを、ドシロートを誘導して、小沢有罪を印象づける議決を出させた。
メディアは小沢嫌いが多いから、この議決を「市民感覚」の勝利としてほめたたえた。こんな事態がまかり通れば市民感覚によって国の運命がきまり、冤罪が生まれる。
同じことは裁判員制度にもいえ、市民感覚で裁判に参加し、冤罪をひきおこす。判決に対して、誘導された市民感覚が入りこむのを衆愚政治という。
検察に起訴されれば、それだけで「有罪だ」とみなされる。厚労省の村木厚子元局長が大阪地検から起訴されたときは、新聞やテレビニュースの報道で顔を見て「とんでもない女だ」と思った。日本中がそう思ったが、裁判の結果、無罪であることがわかった。
冤罪とはいえ、裁判で判決が出る前は、おおかたの人が犯人扱いしていたのである。あとで無罪とわかって、「なんてひどいことをされたのか」と世間は同情したけれども、一時的に市民感覚は村木元局長を有罪と思った。
大阪地検特捜部の脅迫的取り調べが悪いにしても、一時的に「村木元局長が悪い」と思った自分はどうなのか。
検察審の11人はおそらく20代が多く、日当8000円で「正義の人」になりすまして、さぞかし気分がいいだろう。
しかし逆のケースはどうなるのか。身に覚えのない容疑で、検察審で「不起訴不当」とされた冤罪事件がある。検察審の議決により殺人容疑で再逮捕され、21年後に無罪となった「甲山事件」がその一例だ。園児を殺害したという冤罪は検察審の責任である。
くじで選定された審査員は、6ヵ月の任期がくればそれで終わるが、責任は問われない。検察審のメンバーは名前も顔もわからず、アヤシイと思った人物を起訴できる。
起訴しても小沢氏が無罪になるのはほぼ確実で、市民は小沢氏をオモチャにしているわけですよ。人民裁判ここにきわまれりで、コワモテの強者をいたぶってひきずりおろすゲーム。
小沢氏は悪役キャラで、いくら叩いてもくたばらないから、血祭りにあげて日ごろのうっぷんをはらす、といったところ。
この世で一番怖ろしいのは市民感覚という妖怪で、市民と名のつくものはすべてうさんくさい。
市民団体、市民会議、市民運動、市民集会、市民ケーン、と市民がつけば偉そうになる。
市民を名乗りたがるのは利にさといインテリで、なにごとにも意見を持ち、連帯を求めつつ自己中心的、名誉欲が強く、お祭りには寄附せず、討論を好み、市役所にケチをつけ、雨ニモ負ケズ市長ニモ負ケズ、環境を愛して隣人を憎み、警察を嫌いつつ交番に頼り、密告を好んで自分の秘密は守る。
市民はフランス語のブルジョアで、所詮輸入ものである。日本には町衆という町民はいたが、もともと市民なんていなかった。
市民を気どらず町民に戻り、町民団体、町民会議、町民運動、町民集会、町民…とすればいい。
町民運動は町内草取り会、校庭のモグラ退治、朝顔品評会、町内名物夫婦、町内野良猫研究会、餅つき会、線香花火競べ、蚊の駆除、ゴミ拾い散歩、芋掘り、雨樋修理、民謡合戦、古池のゴミとり、と、あまりぱっとしないな。
だけどー市民より町民のほうが力が出そうで、無駄をはぶいて、気楽にいったほうがいい。市民感覚ではなく町民感覚なら、小沢一郎氏を起訴なんて暴走をしなかったと思われる。
検察審は密室で行われ、非公開である。裁判員制度が裁判への市民参加を口実に強行されたのと同じく、検察審は市民感覚を金科玉条にしており、つぎは市民参加という名目の秘密警察が登場するかもしれない。
愚かなる市民、煽動される市民、感覚で判断する市民が、モンスターとなって暴れまわる。