ハーシェルの横顔が、後悔の表情から、一度見たあの“今にも泣き出しそうな”顔つきに、みるみる変わっていった。私はまるで恋人にでも話しかけるように、彼の耳元に優しく囁いた。
「俺は、前から考えていたんだ。学校を出たら、ナチスの高官か医者になって、“体内からどのくらい血液を失うと人が死ぬか”、生体実験をしてみたい、ってな。ちょうど良かった。おまえの体でやってみるか。マウスなんかより正確なデータが出るだろうからな。」
「ばっ、ばかな。そんなこと、・・・本当にできると思ってるのか。」
そう返事を返すことが、彼にとって精一杯の抵抗であった。
「・・・できないと、思っているのか?」
そう言いながら、私は彼のポケットにいつも入っているナイフを取り出した。そう、あの時のナイフだ。
「このナイフは、一度、人の血を吸っている。おまえのような腰抜けの手には負えないよ。ケガするだけだ。」
彼の顔の前を、ナイフの刃先に反射した光がちらちらと動いた。
「こいつは、俺の血だけでは物足りないらしい。・・・ハーシェル、恨むんなら俺でなく、血の味を覚えたナイフをいつまでも手元に置いていた自分を恨めよ。」
しかし、今ここで、はっきりと言っておくが、私は、この間中、一瞬たりとも、彼を本当に殺してしまおうと思ってはいなかったのだ。そこまでする必要が無かったから、・・・というよりも、そこまでする価値の無い奴を相手にしていたからだ。つまり彼は、私のハッタリを以ってすれば、簡単に落とせる人間だったのである。当時は、彼も私もまだ子供だった。本当に彼を殺そうという考えが、子供のケンカには、端から必要無いものだったということもあったのだろう。しかしだ、今、右左の分別も分かる年になったゲシュタポが、私に何かしらの理由で戦いを仕掛けてきた場合、どちらが勝つか、つまり別の言い方をすれば、どちらが死ぬか、ということを真っ先に念頭に置かなければならないだろう。
「頚動脈血管が、外傷により一部損傷した場合、人が死に至るまで、どの程度の時間を要するか。おれが知りたいのは、そういうことだ。なんでも、今あるデータだと、10秒ほどらしいがな。」
もちろん、これもデタラメである。
「じゅっ、10秒っ・・・。」
「そうだ。その10秒の間に、眠るように楽に死ねるんだ。」
「やっ、やめろっ。やめてくれっ。俺が悪かった。お願いだ!助けてくれ!」
「手遅れだ。」
私は静かにそういうと、彼の返事を待たずに行動に移った。ナイフの背を、彼の首筋に強く擦り付けた。そして素早く、そのナイフを彼の首から引き離した。
「ほーら、どんどん血が出てきたぞ。首が熱くなってきただろう。」
私は、血が噴き出している右手の傷口を彼の首筋に当て、その血が彼の首から溢れ出ているかのように暗示をかけた。
「おまえは、あと10秒の命だ。」
彼は、顔面蒼白になって今にも気を失いそうだった。
「・・・9、8、7、・・・。」
首を絞める私の腕にしがみついていた彼の指が、ゆっくりと離れていく。
「・・・6、5、4、3、・・・。」
彼の体が、だんだん冷たくなってきた。
「・・・2、1!」
ガクン!と、急に彼の膝がバランスを崩した。彼は完全に気を失い、だらりと私に寄り掛かった。
「ハーシェル!」
「死ぬんじゃないぞ!!」
彼の仲間が、今まで何も手を出せなかった自分の勇気の無さを棚に上げて、今になって急に声を発した。
「今ごろ叫んでも遅いんだよ。」
ハーシェルの体を静かに横に倒し、私は、気を失っているだけの彼に向かって、胸で十字を切った。
「ハーシェル!」
私が早まったことをするはずがないと信じていた私の友人たちまでもが、私の手にしているナイフが血だらけなのを見て、心配そうに彼の名前を呼んでいた。
(つづく)
「俺は、前から考えていたんだ。学校を出たら、ナチスの高官か医者になって、“体内からどのくらい血液を失うと人が死ぬか”、生体実験をしてみたい、ってな。ちょうど良かった。おまえの体でやってみるか。マウスなんかより正確なデータが出るだろうからな。」
「ばっ、ばかな。そんなこと、・・・本当にできると思ってるのか。」
そう返事を返すことが、彼にとって精一杯の抵抗であった。
「・・・できないと、思っているのか?」
そう言いながら、私は彼のポケットにいつも入っているナイフを取り出した。そう、あの時のナイフだ。
「このナイフは、一度、人の血を吸っている。おまえのような腰抜けの手には負えないよ。ケガするだけだ。」
彼の顔の前を、ナイフの刃先に反射した光がちらちらと動いた。
「こいつは、俺の血だけでは物足りないらしい。・・・ハーシェル、恨むんなら俺でなく、血の味を覚えたナイフをいつまでも手元に置いていた自分を恨めよ。」
しかし、今ここで、はっきりと言っておくが、私は、この間中、一瞬たりとも、彼を本当に殺してしまおうと思ってはいなかったのだ。そこまでする必要が無かったから、・・・というよりも、そこまでする価値の無い奴を相手にしていたからだ。つまり彼は、私のハッタリを以ってすれば、簡単に落とせる人間だったのである。当時は、彼も私もまだ子供だった。本当に彼を殺そうという考えが、子供のケンカには、端から必要無いものだったということもあったのだろう。しかしだ、今、右左の分別も分かる年になったゲシュタポが、私に何かしらの理由で戦いを仕掛けてきた場合、どちらが勝つか、つまり別の言い方をすれば、どちらが死ぬか、ということを真っ先に念頭に置かなければならないだろう。
「頚動脈血管が、外傷により一部損傷した場合、人が死に至るまで、どの程度の時間を要するか。おれが知りたいのは、そういうことだ。なんでも、今あるデータだと、10秒ほどらしいがな。」
もちろん、これもデタラメである。
「じゅっ、10秒っ・・・。」
「そうだ。その10秒の間に、眠るように楽に死ねるんだ。」
「やっ、やめろっ。やめてくれっ。俺が悪かった。お願いだ!助けてくれ!」
「手遅れだ。」
私は静かにそういうと、彼の返事を待たずに行動に移った。ナイフの背を、彼の首筋に強く擦り付けた。そして素早く、そのナイフを彼の首から引き離した。
「ほーら、どんどん血が出てきたぞ。首が熱くなってきただろう。」
私は、血が噴き出している右手の傷口を彼の首筋に当て、その血が彼の首から溢れ出ているかのように暗示をかけた。
「おまえは、あと10秒の命だ。」
彼は、顔面蒼白になって今にも気を失いそうだった。
「・・・9、8、7、・・・。」
首を絞める私の腕にしがみついていた彼の指が、ゆっくりと離れていく。
「・・・6、5、4、3、・・・。」
彼の体が、だんだん冷たくなってきた。
「・・・2、1!」
ガクン!と、急に彼の膝がバランスを崩した。彼は完全に気を失い、だらりと私に寄り掛かった。
「ハーシェル!」
「死ぬんじゃないぞ!!」
彼の仲間が、今まで何も手を出せなかった自分の勇気の無さを棚に上げて、今になって急に声を発した。
「今ごろ叫んでも遅いんだよ。」
ハーシェルの体を静かに横に倒し、私は、気を失っているだけの彼に向かって、胸で十字を切った。
「ハーシェル!」
私が早まったことをするはずがないと信じていた私の友人たちまでもが、私の手にしているナイフが血だらけなのを見て、心配そうに彼の名前を呼んでいた。
(つづく)