中村勘三郎が半年ぶりに舞台へ帰ってきた。
それも大阪・新歌舞伎座が上本町に移転。新開場として一周年の記念公演だというのも、まるで平灰を合わせたようだ。
勘三郎復帰の演目は、昼の部に「人情噺文七元結」、夜の部に半世紀前に父君がこれも再起の舞台で踊った「お祭り」。
どちらも、とりわけ意味深い舞台であった。
あわせて、息子たち(←勘太郎、七之助)で「一本刀土俵入」が切狂言にある。
「一本刀」を見るのは今年だけでも二回目。
今回は父勘三郎の復帰に、勘太郎と七之助は熱の入った演技で花を添えてましたよ。
● 江戸情緒溢れる清元の舞踊「お祭り」
「お祭り」は江戸の鳶頭の粋と色気、その味わいで見せる踊りです。
父君つまり十七代目勘三郎が、難病に倒れて、やはり半年あまり休演。
その再起の舞台が「お祭り」だった。
この記念すべき舞台を私は東京・歌舞伎座の三階席で見ている。
客席から「待ってました!!」とワンさの声がかかる。
それに合わせるように勘三郎が「待っていたとはありがたい」と受ける。
この舞台が、半世紀余り経った今も、語り草になっている。
10数分しかない、いまの勘三郎の「お祭り」を見て、父君と同じだなぁと思った。
先に“意味深い舞台”といったのは、そこなんです。
その芸質、愛嬌、色っぽさ、体の芯からにじんでくる情。
「そっくりさん」ではない、もっと根の深いところの芸の域である。
歌舞伎座の大舞台ほどではないが、間尺に合った舞台で、イナセな大人の芸を堪能させてくれた。
おかめ、ひょっとこのお面を使うのも、うまい手順がついてあざやかである。
芸者衆や手古舞が登場しないのがいささか物足りないが、勘三郎の芸の大きさがそれを補ってくれた。
わずか十数分の舞台に、清元延寿太夫が”いい喉”で付き合っている。
高音を多用する清元は、叙情的で艶っぽい。
● アンサンブルの素晴らしさ 「一本刀土俵入」
「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛は今回で2度目の勘太郎(←画像/左)である。
前回初演は3年前の新春浅草歌舞伎(←詳しくはコチラ)であった。
前回の初役の後半の演技が破調で失望した。しかし今度は見違えるようにいい。
格段の進歩である。
今度は相手役のお蔦が弟の七之助であり、勘太郎もやりやすかったのかも(←前回のお蔦は亀治郎)。
序幕「安孫子屋」の店先での2人の息が合っている。
しかも三谷幸喜の舞台など、他流試合が多い勘太郎だが、それだけ演技に幅が出てきた。
野球でいえば、ストライクゾーンが広くなった気がする。
大詰、お蔦の「思い出した!!」で戸口の外へ出て戸を閉め、地面にピタッと座るところなど、見ていて目頭が熱くなった。
さらに「桜の樹の下で」腕組みをして向こうを見る姿が、一幅の絵になっていた。
お馴染みの名セリフも上出来。
声柄がお父さんそっくりであり、父十八代目に劣らぬ出来である。
ひたむきに生きてきたであろう10年の歳月が哀感たっぷりに伝わってきた。
辰三郎の松也(←画像/右)も今回が2度目。
前回新春浅草歌舞伎より辰三郎という「ダメ男」をグレードアップしたつもりと自身のブログに書き込んでいたが、あまり進歩がない。
相変わらず娘お君に対して愛情が感じられない。
「布施の川」の幕切れで、イカサマ賽をポイと捨て、花道七三でキマルところも、浅草より低調。
松也という役者は、阪神のマートン選手に良く似ている。顔かたちではなく、好不調の落差が著しいのである。
● 哀切の「おはら節」
七之助のお蔦初役が抜群の出来。
序幕取手の宿の「安孫子屋」で、二階の障子を開ける”出”がいい。
酔っぱらったあばずれの”ダルマ”に見える。だるまとは、金さえ払えば誰とでも寝る酌婦のことである。
「おはら節」も高い声で初役とは思えない手馴れたうまさである。
自身への境遇へのやるせなさを、節回しに乗せて、しみじみと聴かせた。
それに、二階の手すりに凭れた“うしろ姿”が色っぽく、清方が描いた美人画を見るようである。
誰もが一度は抱いてみたい“おんな”になっている。
難をいえば、テンポはけっしてわるくないが、、もう少しセリフに緩急がほしい。
それと手もちぶたさなのか、コップ酒の飲みすぎが気になる。
ほかに勘之丞の老船頭が傑作である。
剛健そうで手強く、いかにも利根川に歳月を経た船頭に見える。
幕切れの船唄も哀切。
そして長谷川伸のトーンをうまく引き出したすぐれた演出だった。
順序が前後するが、最初が義太夫狂言の名作「引窓」。
歌舞伎を初めて見る人にもわかりやすく、まとまった一幕。
これも祖父鴈冶郎当たり役の南方十次郎を扇雀が引き継いでいる。
お早は七之助、姑のお幸に歌女之丞、濡髪には橋之助。
(2011年9月15日 新歌舞伎座夜の部所見)
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