今日は元気です。
「今日は」というのは、最近体調があまり絶好調とはいかなくて、4日か3日に1回「調子のいい日」があって、それ以外の日はあまり何かをしようという気が起こりません。
軽い躁鬱症かなあとも思います。
今までそんなことなかったんですけどね。会社を辞めた時期から、調子悪いなあ、と自覚した時から急激にこういうサイクルに入りました。
「調子のいい日」は、1日中、何かしら「すること」が出来て、いわゆる僕の思ってきた、「普通」の状態であります。
たぶん今日はそういう日。
毎日これならなー 源氏物語も読み終えることが出来るだろうし、書いてる小説の執筆も進む。部屋も掃除・整理整頓できる。色々と充実するのだが…
「調子の悪い日」。こういう日はボーとテレビを観て、飯を食って、寝てるので精一杯。
なぜだろう、なにか生産的な事を行う気力が湧いてこない。
おんなじ人間なのに、日によってなんでこれほどにも違うんかなあ。
全然活動できないんだよな。
だって毎日何かを成し遂げていったならば、初めて毎日って充実するのでは? 違う考え方があるのもわかるし、そういう考え方も僕の中にはあって、逆にそれがないと僕は成り立っていかないんだけれども、やっぱりせっかくなんだから密度の濃い日々を送りたい。
それが今の願い。
いま、今日の微かな望み。
今日は調子がいいんだけれど、いつもの――今まで何度かあった――調子のいい日とは、少し感じが違うような気もする。
いつもより、「気が張ってる」感じが少ない。
それは単に今までの「調子のいい日」の、睡眠時間が少なかったせいだけかもしれない。今日はいつもの調子いい日よりは寝ている。
でも、少しは、希望を持ちたい。
昨日よりも今日の方が、明日よりも明後日の方が、明るくなっていると。良い日になっていると。
今日調子が良いのが、気が張っているのに起因しているならば、必ずリバウンドがくる。すなわち、明日は、「調子が悪い日」になる。
普通の状態で調子が良ければ、ぶり返しはこない。今はそう考えている。別に主治医にそう言われたわけではない。今までの経験から類推する、勘である。
ついでなので母のことも書く。
母は現在全く外には出れない。家で養生している。
大部分ベッドの上で寝ているが、洗濯や、掃除などの簡単な家事は、全く動かないと本当に身体がなまってしまうということもあり、やっている。
炊事は父と僕がやっている。夕飯は弁当を僕が買ってくるか、店屋物をとるか、時間が間に合えば、父が料理したものを食べている。
ちなみに、父は毎日のように野菜炒めを作る。「こんな美味いもんはないよ」と言う。不味くはないし、飽きもしないので僕も毎日のように食べているが、なんだかなー、とも少し思う。父には悪いが。
毎週水曜日に、母を車椅子に乗せ、近所の整形のお医者へ行く。
痛み止めの注射を打ってもらう為だ。
そういう日は、たいてい帰りに商店街に寄り、魚屋で刺身を買い、夕食とする。
その短い買い物の時間が楽しい。
けれど、前回の水曜日は僕の身体の調子が悪くて、結局母を医者に連れて行けなかった。少し落ち込んだ。
母は、これは以前に書いたことがあるかもしれないが、腰の骨を圧迫骨折している。それまで約10年間飲んできた、プレドニン、という薬の副作用だ。
医術は万能ではないのだな、と思う。
あちらを治す為に施してきた結果が、こちらに悪く出る。それも致命的に、だ。
医者から見れば、大きな視点で見れば、致命的というのは言い過ぎなのかもしれない。けれども今の母の状態を見ていれば、誰もが「致命的」という言葉を使いたくなるのではないだろうか。それほど母は常にひどく痛がっているし、それに対して、僕らは対処のしようがない。
唯一、痛み止めの薬を処方することで、母は少し救われるようだ。けれども、それにも回数の限度がある。
最近、母はクロレラという商品を通販で買ったようだ。
健康食品。そういうものにも、救いを求めずにはいられない。
でも現実、少しでもそれが良い結果を及ぼすのならば、それは歓迎すべきこと。有り難く思わなくてはならない。
まー少し高い買い物だったようだが。
そんな毎日。
3人家族……2人の病人に囲まれた父が可哀相に思える。
でも父はそんなことに関係なく、毎日楽しそうである。今日も鮎釣りに出掛けた。朝5時前起床。よくやる。
兎に角、やるだけの事はやってみる。
やってみて、駄目だったら次の手を考えるし、有効だったらそれに乗じてまたそれ以上になんとかする。
なんとかなるかー?
「今日は」というのは、最近体調があまり絶好調とはいかなくて、4日か3日に1回「調子のいい日」があって、それ以外の日はあまり何かをしようという気が起こりません。
軽い躁鬱症かなあとも思います。
今までそんなことなかったんですけどね。会社を辞めた時期から、調子悪いなあ、と自覚した時から急激にこういうサイクルに入りました。
「調子のいい日」は、1日中、何かしら「すること」が出来て、いわゆる僕の思ってきた、「普通」の状態であります。
たぶん今日はそういう日。
毎日これならなー 源氏物語も読み終えることが出来るだろうし、書いてる小説の執筆も進む。部屋も掃除・整理整頓できる。色々と充実するのだが…
「調子の悪い日」。こういう日はボーとテレビを観て、飯を食って、寝てるので精一杯。
なぜだろう、なにか生産的な事を行う気力が湧いてこない。
おんなじ人間なのに、日によってなんでこれほどにも違うんかなあ。
全然活動できないんだよな。
だって毎日何かを成し遂げていったならば、初めて毎日って充実するのでは? 違う考え方があるのもわかるし、そういう考え方も僕の中にはあって、逆にそれがないと僕は成り立っていかないんだけれども、やっぱりせっかくなんだから密度の濃い日々を送りたい。
それが今の願い。
いま、今日の微かな望み。
今日は調子がいいんだけれど、いつもの――今まで何度かあった――調子のいい日とは、少し感じが違うような気もする。
いつもより、「気が張ってる」感じが少ない。
それは単に今までの「調子のいい日」の、睡眠時間が少なかったせいだけかもしれない。今日はいつもの調子いい日よりは寝ている。
でも、少しは、希望を持ちたい。
昨日よりも今日の方が、明日よりも明後日の方が、明るくなっていると。良い日になっていると。
今日調子が良いのが、気が張っているのに起因しているならば、必ずリバウンドがくる。すなわち、明日は、「調子が悪い日」になる。
普通の状態で調子が良ければ、ぶり返しはこない。今はそう考えている。別に主治医にそう言われたわけではない。今までの経験から類推する、勘である。
ついでなので母のことも書く。
母は現在全く外には出れない。家で養生している。
大部分ベッドの上で寝ているが、洗濯や、掃除などの簡単な家事は、全く動かないと本当に身体がなまってしまうということもあり、やっている。
炊事は父と僕がやっている。夕飯は弁当を僕が買ってくるか、店屋物をとるか、時間が間に合えば、父が料理したものを食べている。
ちなみに、父は毎日のように野菜炒めを作る。「こんな美味いもんはないよ」と言う。不味くはないし、飽きもしないので僕も毎日のように食べているが、なんだかなー、とも少し思う。父には悪いが。
毎週水曜日に、母を車椅子に乗せ、近所の整形のお医者へ行く。
痛み止めの注射を打ってもらう為だ。
そういう日は、たいてい帰りに商店街に寄り、魚屋で刺身を買い、夕食とする。
その短い買い物の時間が楽しい。
けれど、前回の水曜日は僕の身体の調子が悪くて、結局母を医者に連れて行けなかった。少し落ち込んだ。
母は、これは以前に書いたことがあるかもしれないが、腰の骨を圧迫骨折している。それまで約10年間飲んできた、プレドニン、という薬の副作用だ。
医術は万能ではないのだな、と思う。
あちらを治す為に施してきた結果が、こちらに悪く出る。それも致命的に、だ。
医者から見れば、大きな視点で見れば、致命的というのは言い過ぎなのかもしれない。けれども今の母の状態を見ていれば、誰もが「致命的」という言葉を使いたくなるのではないだろうか。それほど母は常にひどく痛がっているし、それに対して、僕らは対処のしようがない。
唯一、痛み止めの薬を処方することで、母は少し救われるようだ。けれども、それにも回数の限度がある。
最近、母はクロレラという商品を通販で買ったようだ。
健康食品。そういうものにも、救いを求めずにはいられない。
でも現実、少しでもそれが良い結果を及ぼすのならば、それは歓迎すべきこと。有り難く思わなくてはならない。
まー少し高い買い物だったようだが。
そんな毎日。
3人家族……2人の病人に囲まれた父が可哀相に思える。
でも父はそんなことに関係なく、毎日楽しそうである。今日も鮎釣りに出掛けた。朝5時前起床。よくやる。
兎に角、やるだけの事はやってみる。
やってみて、駄目だったら次の手を考えるし、有効だったらそれに乗じてまたそれ以上になんとかする。
なんとかなるかー?
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