意味もよく定まらないまま、使っております。
【対義語】:「希望の食物連鎖」
人と人は引かれあったり、反発しあったりしながら、社会の中を生きていきます。
大きな夢を抱く人は、人をひきつけます。唐突ですが、今が戦国時代の世の中なら、「野望」という言い方でもよいかも知れません。織田信長、豊臣秀吉、大きな事を成し遂げた人物は、多くの人をひきつけた人物は、大きな野望をその身にたくさん抱えていました。
適用する言葉はどうでもよいのですが、社会に対する何かしらの強い「思い」を持つことは、その人が活動するエネルギー源になります。
もちろんそれが、よこしまな「思い」であれば、それは何らかの形でその人に戻ってきます。行為に移さなくとも、強く「思う」ことは、その人の次の姿に強い影響を与えます。いわゆる仏教で言うところの、「因果応報」にあたる話です。
私は、いきなり私の個人的な考えになりますが、なるべく「透明」でありたいと思っています。透明という言葉だけでは分かりにくいでしょう。「無我」と言いますか、私利私欲を挟まない、必要以上のそれを必要と思わない、もちろん表にも出さない、いわゆる「自然体」な自分。それが私の目指す、自分の姿です。
その姿は、私の持つ「夢」と大きな関連があります。それは私の身には余る、大きな夢です。それを果たすには、私の言うところの「透明」な自分を形成する必要があります。
なぜ「透明」であらねばならぬのか。それは、自分の意識外でも、社会を自分の理想に近付いていって欲しいと願っているからです。その唯一の「正しい」方法が、「透明」な自分を形成することでした。
これに関しては、今の世を生きる人たちなら、似たようなことを思っている方々も多いのではないかと考えます。
「無我」と自分を「殺す」ことは異なります。全く違う行為、思考です。自分を殺すことは、自分の存在を消そうとすることです。いるのに、いないふりをすることです。それは苦しい行為です。
人の為と思って、それをする人がいます。あなたがそこにいるのに、他人に迷惑を掛けないようにと、あなたはいないのと同じようにと、そういう結果になるようにと、自分を殺すのです。それは繰り返しますが、辛い行為です。
あなたは、わたしは、確かにここにいるのです。それを否定してはいけません。そこにいるだけで、私には、貴方には生きる権利が生じているのです。豊かな生を営む権利がそこに生きているのです。だれかれと同様に、豊かに生きてよいのです。私はそれを意識するだけで、元気になります。あなたはどうですか。
誰かが、私たちを正しく「楽」な方向に引っ張っていってくれたらいいのに、と夢想します。それは救世主なのでしょうか。それほど末法の世とは言い切れない今の世、それを敢えて救おうなんて、そんな面倒なことを引き受けてくれる人はいるのでしょうか。
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今、料理を勉強しようと思っています。オレンジページ、という料理雑誌があります。それに、「忙しい人のための作り置き」という特集があって、この記事をうまく活用できないかと、策を練ろうとしております。
明日は日曜日。買い出しをして、料理の作り置きの、練習と実践を、やってみようかな、と。