さて、ようやく続きであります。
そもそも、どうして僕がこんな内容の記事を書こうと考えたのか?
そのことについて少し。
僕は、『ブックマーク』にも入ってますが声優の国府田マリ子さんのファンです。(以前は林原めぐみさんのファンとも言った憶えがありますが、気持ちの内容は違いますが僕はどちらのファンでもあります)
昨年ファンクラブにも入りました。毎日彼女のブログも覗いています。
そのことをまず前提として憶えておいていただいて、また別の話になります。
今YouTubeを検索してきました。
何を捜していたのか?
僕がこの前の記事、『ヲタクにモノ申す(1)』を書く直前に見つけた音声ファイルをもう一度聞いておきたいと思い、それを検索していたのです。
それはどんな内容のものだったかというと、とあるラジオの男性ナビゲーター(ごめんなさい、名前忘れてしまった……)が、今のいわゆる「声優アイドル」たちがそれぞれ持っているラジオ番組に対する、彼女たちの「取り組み方」というか、「心構え?」みたいなものに意見している、という内容でした。
それを今までずっと捜していたのですが、見つからないのです。
もうネット上から削除されてしまったのかもしれない。
僕のように、聴いた方々からの反響(クレーム)があったのかもしれません。
そういうわけで、この記事を書く前に出発点であったその音声を確認しておこうという目論見は、崩れました。
これからは、仕方なく記憶だけを頼りにこの記事を書こうと思います。
その男性ラジオナビゲーターの意見はこういったものです(あくまで僕の受け取り方に過ぎませんが)。
「林原めぐみや、国府田マリ子、小森まなみといった声優たちがラジオ番組を持っているが、彼女たちが、吹き替えの、アニメ声のままでラジオの番組を進行していることに、自分は嫌悪感を持つ」
まあこれは、個人の好みであるし、この男性はラジオのパーソナリティーとして活躍されている方なわけで、この職業に対する考え方も深く強いものがあると推察されます。
だから、理解できるのです。
彼女たちは本当にアニメの声のままでパーソナリティー業を行っているのか?という点については少し問題が残るとは思いますが。
まあそれは個人の見方、感じ方です。
これはよいとしましょう。
僕が興味を持ったのは、彼がその後ぼそっと述べた言葉でした。
「彼らは、人生の、一部分しか見ようとしない」
こんなことをおっしゃったのです。
ごめんなさい、先に謝っておきます。
この言葉は彼が述べた言葉を正確に写したものではありません。
正確なものとして再確認する為に僕は冒頭の通り1度聞いたこの音声ファイルをネット上で捜し回りました。もう1度聞きたかったのです。
しかしそれは見つかりませんでした。
だから、語弊がある可能性があります。
僕はこれ以降の文章で、彼が何を言いたかったのか、それを考察していきます。
しかしそれはあくまで僕なりのものです。
僕が彼の言葉から受け取った感覚を、僕なりに消化した結果をここに記します。
そういった今回の僕の文章に対する理解を、筆者から読者の皆さまに、よろしくお願いいたします。
さて、
「人間が生きる上での一部分しか見ようとしない」
そんなことを彼はチラリと漏らしたわけなんですが、このことに関して、みなさんはどうお考えですか?
「人が、自分の人生を生きる間、見たくないものからは目を逸らして、生活する」
もしくは、
「楽しいことしか、見ない」
こういった生き方をする人々、確かに存在するといわれています。
特に彼の言い方からは、いわゆる(やっとここで出てきた!)『ヲタク』、と呼ばれる方々にそういった人間が多い、ということが感じ取れる。
そして、彼以外にもそんな捉え方をされている方は数多く存在すると、僕は考えます。
しかし、そんな生き方って本当に可能でしょうか。そう僕は思いました。
嫌なことに目をつむる。
そんな経験は、多かれ少なかれ人間にはあることでしょう。
苦しい経験過ぎて、とても直視できない。
それも同じです。
しかし、僕らはその時、本当に嫌なことから逃げているのか。
『嫌なことの本質を理解することを、さぼっている』
そんな言い方がいちばん妥当であるかもしれません。
そう思います。
僕らは時どき、「真摯に向き合う」ことを面倒に思うところがあります。
なににってあらゆることに。
向き合うことを面倒がってしないでいるとどうなるか。
いつか、また同質の壁にぶち当たることになります。
同じ道をぐるぐる回って先に進めないということがあります。
そうなります。
別にそんな生き方も悪くないと思うんです。
誰も責められない種類の事だと思うんです。
人は苦しみを背負って生きてゆきます。
別にそのことに酔っているわけでもなく、それは事実です。
ただし同じように喜びや、幸せも、同じように背負って生きてるのだと思います。
どれが重いということはない。それらは本来同じ重さなのです。
しかし人によって、それぞれの重さを全く感じなかったり、逆にその重さに潰れてしまいそうになる方もいる。
これは何故なんでしょうか。
もって生まれた性分なのでしょうか。
話が逸れました。戻します。
* * *
……と、いうところで話が長くなってきたので以降は次回に持ち越し~
とします。
ではでは。
そもそも、どうして僕がこんな内容の記事を書こうと考えたのか?
そのことについて少し。
僕は、『ブックマーク』にも入ってますが声優の国府田マリ子さんのファンです。(以前は林原めぐみさんのファンとも言った憶えがありますが、気持ちの内容は違いますが僕はどちらのファンでもあります)
昨年ファンクラブにも入りました。毎日彼女のブログも覗いています。
そのことをまず前提として憶えておいていただいて、また別の話になります。
今YouTubeを検索してきました。
何を捜していたのか?
僕がこの前の記事、『ヲタクにモノ申す(1)』を書く直前に見つけた音声ファイルをもう一度聞いておきたいと思い、それを検索していたのです。
それはどんな内容のものだったかというと、とあるラジオの男性ナビゲーター(ごめんなさい、名前忘れてしまった……)が、今のいわゆる「声優アイドル」たちがそれぞれ持っているラジオ番組に対する、彼女たちの「取り組み方」というか、「心構え?」みたいなものに意見している、という内容でした。
それを今までずっと捜していたのですが、見つからないのです。
もうネット上から削除されてしまったのかもしれない。
僕のように、聴いた方々からの反響(クレーム)があったのかもしれません。
そういうわけで、この記事を書く前に出発点であったその音声を確認しておこうという目論見は、崩れました。
これからは、仕方なく記憶だけを頼りにこの記事を書こうと思います。
その男性ラジオナビゲーターの意見はこういったものです(あくまで僕の受け取り方に過ぎませんが)。
「林原めぐみや、国府田マリ子、小森まなみといった声優たちがラジオ番組を持っているが、彼女たちが、吹き替えの、アニメ声のままでラジオの番組を進行していることに、自分は嫌悪感を持つ」
まあこれは、個人の好みであるし、この男性はラジオのパーソナリティーとして活躍されている方なわけで、この職業に対する考え方も深く強いものがあると推察されます。
だから、理解できるのです。
彼女たちは本当にアニメの声のままでパーソナリティー業を行っているのか?という点については少し問題が残るとは思いますが。
まあそれは個人の見方、感じ方です。
これはよいとしましょう。
僕が興味を持ったのは、彼がその後ぼそっと述べた言葉でした。
「彼らは、人生の、一部分しか見ようとしない」
こんなことをおっしゃったのです。
ごめんなさい、先に謝っておきます。
この言葉は彼が述べた言葉を正確に写したものではありません。
正確なものとして再確認する為に僕は冒頭の通り1度聞いたこの音声ファイルをネット上で捜し回りました。もう1度聞きたかったのです。
しかしそれは見つかりませんでした。
だから、語弊がある可能性があります。
僕はこれ以降の文章で、彼が何を言いたかったのか、それを考察していきます。
しかしそれはあくまで僕なりのものです。
僕が彼の言葉から受け取った感覚を、僕なりに消化した結果をここに記します。
そういった今回の僕の文章に対する理解を、筆者から読者の皆さまに、よろしくお願いいたします。
さて、
「人間が生きる上での一部分しか見ようとしない」
そんなことを彼はチラリと漏らしたわけなんですが、このことに関して、みなさんはどうお考えですか?
「人が、自分の人生を生きる間、見たくないものからは目を逸らして、生活する」
もしくは、
「楽しいことしか、見ない」
こういった生き方をする人々、確かに存在するといわれています。
特に彼の言い方からは、いわゆる(やっとここで出てきた!)『ヲタク』、と呼ばれる方々にそういった人間が多い、ということが感じ取れる。
そして、彼以外にもそんな捉え方をされている方は数多く存在すると、僕は考えます。
しかし、そんな生き方って本当に可能でしょうか。そう僕は思いました。
嫌なことに目をつむる。
そんな経験は、多かれ少なかれ人間にはあることでしょう。
苦しい経験過ぎて、とても直視できない。
それも同じです。
しかし、僕らはその時、本当に嫌なことから逃げているのか。
『嫌なことの本質を理解することを、さぼっている』
そんな言い方がいちばん妥当であるかもしれません。
そう思います。
僕らは時どき、「真摯に向き合う」ことを面倒に思うところがあります。
なににってあらゆることに。
向き合うことを面倒がってしないでいるとどうなるか。
いつか、また同質の壁にぶち当たることになります。
同じ道をぐるぐる回って先に進めないということがあります。
そうなります。
別にそんな生き方も悪くないと思うんです。
誰も責められない種類の事だと思うんです。
人は苦しみを背負って生きてゆきます。
別にそのことに酔っているわけでもなく、それは事実です。
ただし同じように喜びや、幸せも、同じように背負って生きてるのだと思います。
どれが重いということはない。それらは本来同じ重さなのです。
しかし人によって、それぞれの重さを全く感じなかったり、逆にその重さに潰れてしまいそうになる方もいる。
これは何故なんでしょうか。
もって生まれた性分なのでしょうか。
話が逸れました。戻します。
* * *
……と、いうところで話が長くなってきたので以降は次回に持ち越し~
とします。
ではでは。
でもそれじゃあ逆にモテないんだな、と……いや正確に言うと、本当のパートナーは得られないんだな、と最近……本当にごく最近、気付きましたね。
「モテる」生き方をすれば女の子は確かに寄ってくるし、それなりにいい思いもできるんですが、それだけなんですよ。
実のある経験、良い経験って、やっぱり自分を持ってないとできないんですね。
僕ってまだまだです。
みなさんには頭が下がってしまいます。
これからもいろいろ意見ぶつけ合いましょう!
ありがとうございます!
すごくもっともなことを、よっぱさんはおっしゃってますよ!
だから言葉だけとると、変なことになるんでしょうね。
行間というか、その言葉が生まれた状況を汲み取るというか、「その人の気持ちになる」想像力を持つというか。
余裕を持ってやっていくってことでしょうか。
カツンカツンだと、ちょっとのことでどうしてもぶつかっちゃう。
わあ、すごく今、いい勉強の時間をいただいています。これは贅沢な時間かもしれない。
ありがとうございます!
>実際、ラクチンでのんびりなもんなんですね。
この言葉にハッとさせられました。
確かに、
>ただ、周りの人たちの生き方に流されてるだけなんです。
その通りな気がします。
僕も(無茶苦茶さかのぼるんですが)小学生の頃はもっと自分独自の生き方ってものを持っていた気がします(マジで)。
中学生になったあたりから、周りに合わせ始めて、生きにくくなったような……
>価値観は自分で作るもんだと、ボクは思うんです。
うーん、その通りですね。
僕ももっと自分を見つけよう。
自分の好きなように価値観を作ればいいんだな。
もっとラクチンでのんびり生きられるように工夫すればいいのかな。
「自分らしく生きる」
って言っても、そのイメージのほとんどは他人から与えられたもの、という気がしますね。
自分ってなんだろう。
勉強になります!
ありがとうございますっ!
「感じ」で生きているようにみえて、じつはカッコとした生き方・考えがあったなんて、どうだろうと思います。女の子にモテるかなあと思います。
かといって愉しいことだけに目を向けて生きていくのもまた無理な事じゃないかなぁ…
「彼らは、人生の一部しか見ようとしない」と公の場で言い放った彼もまた、彼女達や彼らの人生のほんのごく一部しか見ようとしていないのではないだろうか…
でも、僕はそれを悪いとは思いません。多分みんな人を判断する時には目の前に見えているその人のホンの一部分だけを見ているのだから…
なんだか、訳わからないでしょ… ごめんなさい。
「人の一生は重き荷を背負うて遠き旅路を行くが如し」
って言っているので、そもそも人間はいつも苦痛が付き物だなんていうひとがいますけど、それは徳川家康の「遺訓」をちゃんと読んでないから起こる誤読なんですね。
で、そういう誤読が紹介されて、それをそのまんま応用してしまって、人生なんて重荷を背負ってるんだから・・・・・・なんて言うようになっちゃって、自分の気分もそうなることがあるんですが、実は、人生はそんなに辛いものじゃないんです。
気持の持ちようとかじゃなくて、
実際、ラクチンでのんびりなもんなんですね。
ただ、周りの人たちの生き方に流されてるだけなんです。
ちなみに、徳川家康の「遺訓」には、続きがあって、「急ぐべからず」って書いてあるんです。
でも、大抵は、その部分がカットされちゃうんですね。
つまり、「急ぐべからず」をカットすることによって、人生は大変だって勘違いさせるんです。
でも、家康が言いたかったことは
「まあ、焦らずにゆっくりやろうや」
ってことを言いたかったわけです。
>人間が生きる上での一部分しか見ようとしない
ってのは、ラクな方ていうより、
周りに影響を受けている部分だけしか見ていないってことかっもしれませんね。
価値観は自分で作るもんだと、ボクは思うんです。
なんつって。