読書日記

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追跡・アメリカの思想家たち 会田弘継 新潮選書

2009-05-24 08:38:00 | Weblog

追跡・アメリカの思想家たち 会田弘継 新潮選書



 アメリカに思想家はいないと最近まで思い込んでいたが、そうではないことが本書を読んでわかった。アメリカの思想は基本的にリベラリズムという言葉でまとめられてしまう側面があり、基本的には自由主義の養護という一点に収斂されてしまうつまらなさを感じていたというのが正直なところである。
 取り上げられている思想家は、ラッセル・カーク、レオ・シュトラウス、ジョン・ロールズ、ウイリアム・バックリーら11人である。フランシス・フクヤマも最後のつけたしで入っている。全体の力点は保守の側にあり、アメリカの保守思想の諸相という内容になっている。その保守思想とは、近代の合理主義に対する懐疑である。即ち、自由主義、個人主義、功利主義、プラグマチズム、資本主義に対する懐疑だ。これを説いたのがラッセル・カークで、戦後保守思想の源流と著者は定義している。キリスト教原理主義、南部農本主義、共同体主義にも、近代に対する懐疑が濃厚に備わっている。
 その中で、共同体主義のロバート・ニスベットの思想は現代のアメリカの抱える問題を理解する鍵となるような気がする。彼の代表作『共同体の探究』(1953)で、西洋近代の歴史は、「中世社会の家族の絆が根こそぎにされ、村が崩壊し、手工業職人らが行き場を失い古くからある社会保障の絆がずたずたにされて」きた過程に他ならないが、「合理主義の使徒たちは、それを『進歩』の不可避のコストだという」と批判する。
 ニスベットは、家族や小さな共同体、あるいは教会を中心とした信仰者の集まりなどを国家(社会)と個人の間の「中間社会(結合)」と呼ぶ。それらが、「遠い昔から」担ってきた心理的役割とともに消えつつあることこそが、現代社会の危機の根源だと主張した。人が働き、愛し、祈り、善と悪や罪と清浄を実態として感じ取り、自由と秩序を守ろうとするかどうかは、この中間社会の帰趨にかかっている。共同体の無いところに真の自由はない、という。
 ニスベットはこの原因をルソーやホッブスの近代啓蒙思想にあると見た。彼らの「個人と国家」の社会契約という理論が中間社会の問題を抜かしてしまい、「砂粒のようにばらばらになった」個人とそうした砂粒の個人を支配する強い政治力を持った国家という関係に導いたと考えたのだ。フランス革命とその後に現われた社会こそが、まさにそれであるとニスベットは考えた。平等主義の専制は、一方でロシア革命を引き起こし、他方でナチズム、フアシズムへと至り、砂粒のようにばらばらになって孤立する個人の上に、巨大な「合理的で科学的」な国家が立ち上がる。全体主義国家の誕生だ。これが彼の近代史観だ。
 全体主義の誕生の説明は普遍性を持っているのではないか。ばらばらになった個人の上に強い国家、為政者が出現する時のメカニズムはまさにこの通りだ。自由主義国家アメリカは、強大な軍事力と経済力を持つという意味で「帝国」だ。共産主義国家の中国も「帝国」と言える。アメリカは自身が全体主義国家の様相を呈していることを感じなければならない時期に来ているのではないか。