沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 佐野眞一 集英社
沖縄は太平洋戦争末期の激戦地、ここでは現地住民を巻き込んだ悲劇が星の数ほど生まれた。戦後はアメリカの管理下に置かれ、本土の経済発展から取り残された。1972年5月15日に本土復帰を果たすが、戦後史の影の部分を担ってきた感がある。沖縄については夥しい数の本が書かれてきたが、著者によると、ほとんどが《被害者意識》に隈取られた《大文字》言葉で書かれており、それに対しては、目の前の現実との激しい落差に強い違和感を覚えるとの事。さらに続けて、沖縄本を覆う違和感とは大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさを持つ善良な日本人だと宣言し一人悦に入っているという小林よしのりの批判に同感し、沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと述べる。そこで、読者がこれまで見たことも聞いたこともない「小文字」の物語だけを書こうというのである。
平和学習で沖縄に修学旅行に行くというのはまさに上記の発想によるものである。沖縄に学ぶという姿勢は戦後一貫して保持されてきた。最近も集団自決は軍の強制があった、無かったということが裁判になったが、もと軍人から批判されたのが大江健三郎の『沖縄ノート』であった。裁判所の判決は強制はあったということで終わったが、思うにあった地域と無かった地域があったということであろう。いわばコインの両面を議論しているに過ぎない。最近は沖縄返還交渉で密約があったかなかったかということで話題になっている。アメリカ側には密約があったという証拠の文書が残されているにもかかわらず、日本政府は無いの一点張りだ。毎日新聞の西山太一元記者は密約があったという記事を書いて罪に問われたが、最高裁で有罪の判決を受け、未だに名誉回復されていない。この件で山崎豊子が小説を書いている。このように沖縄に関する話題は尽きない。
著者は沖縄県警、やくざ、怪人、猛女、パワーエリート、歌手などを取材し未知の沖縄を我々に提示してくれる。沖縄も人間の世界、聖人君主の集まりではないことが今更ながらに理解できる。なかでも沖縄人の奄美大島出身者に対する差別は尋常でないことが、驚きだった。本土から差別される沖縄が、奄美大島を差別する。差別の重層化だ。この一点をとっても沖縄を神聖視することの愚がわかろうというものだ。沖縄かぶれのインテリに奉げた書という意味で、存在感はある。