読書日記

いろいろな本のレビュー

文明の敵・民主主義  西部 邁  時事通信社

2011-12-17 14:57:06 | Weblog
 現代日本の政治的混迷は国民生活のいろんな面に影響を及ぼしており、閉塞感が非常に強い状況だ。折しも大阪の知事・市長選で大阪維新の会が圧勝し、党首橋下徹氏は大阪都実現のために動き出した。大阪を変えなければ生活はじり貧になるという強いメッセージに、批判能力のない若者や老人がなびいてかくも驚くべき結果となった。制度を変えれば幸せになれるなんて誰が考えてもおかしいのに、まさに三百代言に乗せられたかたちだ。これが現代日本の民主主義の現実である。
 本書で西部氏は日本の混迷を{民主主義という名の「無敵の無知」}がもたらしたとして、民主主義をめぐるさまざまの問題を考察している。氏は言う、「莫迦は死んでも治らない」の見本、それが現代の、とりわけ我が国の、世論となりつつあります。文明にとっての最大の必要条件であるはずのデモクラシーに対して、「民主主義は文明の敵である」という命題を突きつけねばなりません。それは真正のデモクラシーを探す営みであり、デモクラシー(民衆政治)とデモクラティズム(民主主義)とを截然と区別する作業なのですと。
そしてこの議論は次のように展開する。曰く、デモクラシー(民衆政治あるいは民衆支配)は飽くまで「多数参加と多数決」という政治の「制度」として捉えるべきです。その制度が価値として肯定されるについては、民衆が庶民の常識を手放していない、という条件がなければなりません。その条件があれば、経験知・実践知という人間にとって最も質の高い精神の働きにおいて、民衆はいわばアリストス(貴族つまり最優等の者たち)になります。しかし、自分らは主権者だ、だから主権を政治の「主義」(イデオロギー)とするのは当たり前だ、と言い募ることそれ自体が、すでに常軌を逸脱しております。それは、民衆が自らをオムニッシエント(全知)と捉えるという意味で、アロガンス(傲慢)の咎に当たります。アリストクラシーつまり貴族政治が失敗したのも、高々「財産と地位」を持っているだけのことで、自分らを「アリストス」(最優等)と見なす「カキストス」(最劣等)の振る舞いをしたからです。「財産と地位」をすら持たない民衆が最優等者を自称するのは、まさに烏滸の沙汰という以外に表現が見当たりません。そういう愚行をなすことをデモクラティズム(民主主義)と名づけ、デモクラシー(民衆政治)と一線を画すべきだと思われますと。
 引用が長くなったが、民衆政治に関する制度論がデモクラティズムという価値論になってしまえば、最劣等の政治がもたらされるかもしれない危惧を大変うまく説明している。さらに英語をふんだんに盛り込んだ記述は英単語の練習帳かと見まがうばかり。石原慎太郎も真っ青という感じだ。通読すると確実に英単語力が増進する。これだけでも本書の存在意義はあるが、もうひとつ、次の文章が素晴らしいので紹介したい。氏曰く、公務員をパブリック・サーヴァント(公僕)と呼ぶのには注意を要します。彼らが進んでサーヴィチュード(従僕)の地位に身を置くのは、国家の貫くべき道理に対してであって、国民の欲望や意見への従属ということではないのです。極端な場合、現在の国民の世論に反してでも、過去の国民の示した道理に、さらに未来の国民がしめすであろうと予想される道理に従う、それが公僕の勤めだということになりますと。
 どうです素晴らしいでしょう。公務員は首長の言いなりになれと言って、さらにう民意の意味を取り違えている御仁に贈りたい気がします。