読書日記

いろいろな本のレビュー

大坂落城 戦国終焉の舞台 渡邊大門 角川選書

2012-11-18 10:42:01 | Weblog
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦から慶長二十年(1615)の豊臣家滅亡までの歴史を、徳川家康と豊臣家という対立の構図の中で描いたもの。特に大坂の陣の定説として語られる「家康謀略史観」についての疑義を表明して、それを打ち消しているところが本書の特徴である。
 著者によれば、関ヶ原合戦以降、家康の目的は秀頼をいかにして、ほかの大名と同様に配下に収めるかにあった。従来は家康が豊臣家の滅亡を企図して着々と準備を進めたとされる。そのことは方広寺鐘銘事件での老獪な手法で秀頼を翻弄したことで、より鮮明に印象付けられている。しかし、徳川方は豊臣家を大坂冬の陣で潰すことなく、和睦によって解決を図ろうとした。潰そうとすれば、潰せたにも関わらずである。
 大坂の陣で家康が提示した条件は次の通り、
 ①淀殿を江戸へ人質として送ること、②秀頼が大坂から他の場所へ移ること、③大坂城に籠城した浪人衆を追い出すこと、の3点に集約できる。家康からすれば、豊臣家が指示に従い、言うことを聞けば、むやみに争う気はなかった。しかし、結果は①と②は家康は譲歩して、③の徹底を求めたが、豊臣側にこれを確約する姿勢がなく、やむを得ず滅ぼさざるを得なかった。豊臣家が臣従を潔しとしなかったことが滅亡につながった。これが本書の結論である。
 まあ、位人臣を極めた豊臣家にはそれなりのプライドがあり、かつての家臣に従属する屈辱を味わうよりは滅んだほうがましという美学が働いたことは理解できる。これを機に戦国時代の終焉と定義する所以は、徳川方から排除された浪人衆、彼らは戦場で活躍したが、これで終わりにを迎えた。また、多くの信者を獲得したキリシタンも家康の迫害にあって終わりを迎えた。以後は徳川幕府の強力な治世によって、長い「平和」な時代が続く。
 それにしても徳川家康という人物の我慢強さ、執着心には驚きを禁じ得ない。本書で詳細に紹介されている方広寺鐘銘事件での豊臣家に対する揺さぶりは、彼の人となりを彷彿させて興味が尽きない。古今東西の独裁者の系譜に十分入る資質を備えている。