読書日記

いろいろな本のレビュー

完本 信長私記 花村萬月 講談社

2016-04-04 08:51:46 | Weblog
 「信長私記」とは太田牛一の「信長公記」に対して付けれられた題だと思うが、「私記」は個人の記録という意味で「公記」に対応させたものだろう。ところが「公記」という言葉はあまり使わないものである。「信長公記」の公は様の言い換えで、「信長様の記録」という意味だ。まあどうでもいいと言えばどうでもいいことなのだが、少し気になった。また「完本」という言葉も気になった。目次を見ると、「信長私記」と、「続信長私記」の二部構成になっている。一部は弟信行を殺す場面で終わっている。なぜわざわざここで切ったのか、これも気になる。
 全編信長の独白で書かれており、まあ日記を読んでいる感じだ。冷血漢信長のいろいろの殺戮に関しての彼の考え方が記されている。彼の冷酷さの由来を著者は実の母に愛されなかったことに求めている感じがする。一部の終わりが、弟信行の暗殺で終わっているが、信行は母に愛されており、その恨みが弟殺しに繋がっているという描き方だ。母の前で弟を惨殺し、母はその血で汚れた手で信長を抱こうとするが、信長が拒否する場面は印象的だ。母の愛に飢えた独裁者が後に比叡山の焼き討ちや長嶋本願寺の大虐殺をはじめ大量虐殺を実行する。してみると、古今東西の冷酷な独裁者のメンタリティーとして、母の愛の不足があるのかも知れない。
 悪を実行することについて、信長は言う、『悪』を否定する者は、己の拠って立つ場所を斥けるという愚を犯しているのだ。多分己だけは死なぬと心のどこかで楽観しているのであろう。死はともかく、地獄極楽といった死後の世界など知ったことではない。死後の世界を思い煩うのは単なる弱さだ。食うことのできぬ物の美味さや不味さを論ずるのは無意味なばかりか間抜けの所行だ。もちろん善悪を超越するつもりではある。だが、さしあたり、当面、当分、いつまで続かは判然とせぬが、戦や調略といった破壊を為さねばならぬわけで、これすなわち善人には為せぬことであると。
 天下を狙うためには人の命など、虫けらのごとく思わなければ駄目なのだということだろう。しかし、それが仇となって明智光秀にされてしまったのは皮肉だ。その時の信長の独白を聞きたかったが、残念ながら書かれていない。