書店でこの本を見たとき、題名と表紙の装丁がいいなぁと思って買った。あとがきによると表紙の少女の肖像画は堀江栞氏の「輪郭#17」からで、陰鬱な視線が独特の雰囲気を醸し出している。腰巻には「三世代の記憶を紡ぐ初めての自伝的エッセイ集」「三世代による食と風土の記憶」とある。著者は1958年倉敷市生まれで63歳。夙に随筆家として有名だそうだが、今まで読んだことがなかった。一読して家族と故郷に対する愛情が感じられる好著である。因みに第73回読売文学賞を受賞した。
本書は「亡き父に捧げる」とあり、「父のビスコ」という題はその関係でつけられた。この一篇は、養護施設に入っていた父が最後に「ビスコ」を食べたいと言って、著者はそれを買いに行く。その時の描写、「私はあの赤い箱を買いに走った。お父さんはビスコが食べたい。病院から帰りたい、食べて生きたい。その数日後から病状は日ごとに坂を下り、点滴になった。最期に父が自分の意志で食べたのは、だからビスコなのだ。立て続けに三個、皺の目立つ指でわしづかみにしてぼりぼり齧る高らかな音が、父の歯のあいだで元気よく鳴っていた」。臨終間際の父が懐かしい「ビスコ」を元気よく齧る姿は、人間の根源的な欲望である「食欲」を具現化したもので、素晴らしい表現だ。また父に対する愛情もあふれており、そこに郷愁も込められている。かつて子供時代の著者に買い与えたビスコ、それを最後に所望したのはビスコを巡る様々の思い出が巡ったからであろう。
しかし父との関係は著者の学生時代から「お互いに一定の距離を保ちながら当たり障りのない関係を保ってきた。だから、父の胸中にあるはずの感情のざらつきに触れることもなかったし、父の屈託を知ろうとはしてこなかった」が、「お互いに縮めてこなかった隔たりをいやおうなしに取り崩したのが、晩年の介護施設での生活だった」ことで、あの「ビスコ」の場面に繋がっていくのである。和解の象徴である「ビスコ」は1950年代に生まれた人間ならば誰でもしっているがゆえにその郷愁は一般性を帯びる。あの貧しかった時代に少しの贅沢の象徴としての「ビスコ」はそれぞれの家庭のありようを思い出させてくれる。
本書は24篇のエッセイで構成されているが、最も印象的なものは「ミノムシ 蓑虫」だ。子供の頃、蓑虫が好きでよく観察していたが、二十代になって、清少納言『枕草子』を読んで、「ミノムシの子は蓑を着せられたまま、ひたすら親を待ち続ける。風の音が聞こえてくると、ミノムシは、父よ、父よと盛んに鳴きながら父を慕う」とあるのに著者は感動した。そのあとに小学生4年生時代にF君という同級生が、給食費を払えなくて昼食時になるとどこかへ行ってしまう。私は学校を休んだF君の家に宿題のプリントや学級通信を届けに行くのだが、その時の描写、「F君の家はがさがさに錆びたトタン屋根が今にも崩れ落ちそうだった。家というより、小屋に近い。木の引き戸を開けると、たまにF君のお父さんが胡坐をかいて煙草を吸っていた。裸にランニングシャツ、半ズボン、大きな酒瓶。『これF君に渡してください』おっかなびっくり言う、『お』ひと言だけ返ってきた。鋭い気配を浴びながら、学校を休んだF君はどこにいるんだろうと訝しんだ。土間のひんやりした空気のなかに浮き上がっていたランニングシャツや煙草の赤い光を、私はいまもくっきりと思い出すことができる。昭和四十年代に入ってすぐの頃の話だ」。貧しくて給食費が払えないF君と日雇い労務者と思われる父の姿。母はいないのだろう。F君はどこにいるのか。アルバイトさせられているのか。作者の境遇とは正反対の境遇のF君。果たしてミノムシのように父を慕っているのだろうか。
この貧しさに耐えて生きる人々の姿も一つの郷愁になっている。いい思い出ばかりではない。著者はさりげなく時代の毒を盛り込んでいる。それがこの作品に幅を持たせていることは確かだ。
本書は「亡き父に捧げる」とあり、「父のビスコ」という題はその関係でつけられた。この一篇は、養護施設に入っていた父が最後に「ビスコ」を食べたいと言って、著者はそれを買いに行く。その時の描写、「私はあの赤い箱を買いに走った。お父さんはビスコが食べたい。病院から帰りたい、食べて生きたい。その数日後から病状は日ごとに坂を下り、点滴になった。最期に父が自分の意志で食べたのは、だからビスコなのだ。立て続けに三個、皺の目立つ指でわしづかみにしてぼりぼり齧る高らかな音が、父の歯のあいだで元気よく鳴っていた」。臨終間際の父が懐かしい「ビスコ」を元気よく齧る姿は、人間の根源的な欲望である「食欲」を具現化したもので、素晴らしい表現だ。また父に対する愛情もあふれており、そこに郷愁も込められている。かつて子供時代の著者に買い与えたビスコ、それを最後に所望したのはビスコを巡る様々の思い出が巡ったからであろう。
しかし父との関係は著者の学生時代から「お互いに一定の距離を保ちながら当たり障りのない関係を保ってきた。だから、父の胸中にあるはずの感情のざらつきに触れることもなかったし、父の屈託を知ろうとはしてこなかった」が、「お互いに縮めてこなかった隔たりをいやおうなしに取り崩したのが、晩年の介護施設での生活だった」ことで、あの「ビスコ」の場面に繋がっていくのである。和解の象徴である「ビスコ」は1950年代に生まれた人間ならば誰でもしっているがゆえにその郷愁は一般性を帯びる。あの貧しかった時代に少しの贅沢の象徴としての「ビスコ」はそれぞれの家庭のありようを思い出させてくれる。
本書は24篇のエッセイで構成されているが、最も印象的なものは「ミノムシ 蓑虫」だ。子供の頃、蓑虫が好きでよく観察していたが、二十代になって、清少納言『枕草子』を読んで、「ミノムシの子は蓑を着せられたまま、ひたすら親を待ち続ける。風の音が聞こえてくると、ミノムシは、父よ、父よと盛んに鳴きながら父を慕う」とあるのに著者は感動した。そのあとに小学生4年生時代にF君という同級生が、給食費を払えなくて昼食時になるとどこかへ行ってしまう。私は学校を休んだF君の家に宿題のプリントや学級通信を届けに行くのだが、その時の描写、「F君の家はがさがさに錆びたトタン屋根が今にも崩れ落ちそうだった。家というより、小屋に近い。木の引き戸を開けると、たまにF君のお父さんが胡坐をかいて煙草を吸っていた。裸にランニングシャツ、半ズボン、大きな酒瓶。『これF君に渡してください』おっかなびっくり言う、『お』ひと言だけ返ってきた。鋭い気配を浴びながら、学校を休んだF君はどこにいるんだろうと訝しんだ。土間のひんやりした空気のなかに浮き上がっていたランニングシャツや煙草の赤い光を、私はいまもくっきりと思い出すことができる。昭和四十年代に入ってすぐの頃の話だ」。貧しくて給食費が払えないF君と日雇い労務者と思われる父の姿。母はいないのだろう。F君はどこにいるのか。アルバイトさせられているのか。作者の境遇とは正反対の境遇のF君。果たしてミノムシのように父を慕っているのだろうか。
この貧しさに耐えて生きる人々の姿も一つの郷愁になっている。いい思い出ばかりではない。著者はさりげなく時代の毒を盛り込んでいる。それがこの作品に幅を持たせていることは確かだ。