「論語」再説 加地伸行 中公文庫
儒教の宗教性を日本の読者にいち早く知らしめたのは加地氏である。日本の葬式の伝統は仏教のものではなく儒教のものである。日本仏教の儀礼は、年忌という命日や、位牌などといった儒教の祭礼に関する儀礼を盛んに取り入れ日本の中に根付いていったのであると。これまでは儒教といえば、「論語」に代表されるように、死を説くのではなく、現世、それも政治の世界を説くもの、また「礼記」のように日常の礼儀作法を説くものという説明がなされてきた。実はこの考え方は儒教の一断面しかとらえていないのだ。
著者によれば、一、孔子以前の儒(原儒)の土俗宗教性、二、孔子の説く儒教の宗教性・哲学性、三、孔子より数百年後の漢代に始まり、ずっと後まで続く(政治的性格の強い)経学の三者を区別しなければならない。世上よく知られているところの、天下国家を論じる経世致用の儒家とは、実は三の経学を学んだ人々のことである。経学とは、秦の始皇帝がたまたま行った焚書坑儒という伝説的事件をダシにして、秦王朝から漢王朝へと移るときに完成される中央集権的皇帝制の理論に合うよう、新史料をたくさん作り出しては、いずれも焚書以前の古い書物だと吹聴し、一、二の古代儒教を改変して登場したグループを一つの軸とするところの、現実政治理論である。個人に関わる死の問題などは蹴飛ばして、つとめて国家に関わる経世致用を説いた内容であり、この経学が、後の人に儒教として理解されてゆく。しかもそれは、十二世紀の朱熹によって、さらに一層宗教性を薄め、政治性・礼儀性(道徳性)を強くしたためである。その結果、十二世紀以後、道徳的な礼儀秩序中心の政治主義的儒教が一層東北アジア一帯に普及する。そうした朱子学的経学によって儒教を見ている人は、原儒や孔子の儒教における宗教性が見えなくなっているのであると。まことに明快な説明と言わねばならない。
朝鮮儒教の儀礼性はまさに朱子学によってもたらされたものであるし、孔子の伝記を読めば、原儒としての宗教性は明らかだ。今まではこの三点を総合的に見る視点が欠けていたのである。その意味で加地氏が儒教の宗教性を説かれた意味は非常に大きい。本書を導入として氏の「論語」(全訳注 講談社学術文庫)を読まれることを勧めたい。目からウロコの新見解がたくさんあって、飽きさせない。