読書日記

いろいろな本のレビュー

オウム真理教の精神史  大田俊寛  春秋社

2011-05-14 17:08:52 | Weblog
 「最終解脱者」麻原彰晃を教祖とし、超人類によるユートピア国家の樹立を目論み、ハルマゲドン誘発のため生物化学兵器テロに踏み切ったオウム真理教。その幻想は何処に由来し、何故にリアルなものになりえたのかをロマン主義、全体主義、原理主義の三点から分析したものである。高が邪教集団を学問的な三点主義で分析とは「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用ゐんや」の感無きにしもあらずだが、三つの主義の説明はそれだけで十分読み応えがありよくまとまっている。中でも全体主義をこのカルト集団の説明に援用したところは興味深かった。著者曰く、全体主義的な政治体制が成立するために、その必須の前提条件となるのは、近代的な群衆社会が形成されるということである。(中略)近代の社会システムが深く浸透するようになると、人々は故郷を離れて大都市へ参集し、その多くは会社や工場で働く労働者となった。こうした環境において、群衆のなかに芽生えてくるのは、眼に見えるものによっては世界を十分に理解できないという感覚である。しかし自らを包み込んでくれる不可視の統一体系を提示されると、いとも簡単にその実在を信じ込んでしまう。そして政治家は、群衆のこうした傾向を巧みに利用する。政治家は群衆に個々人がそこに自らの生の基盤があることを実感し、自我を没入させることができるような「世界観」を提示しようとする。全体主義とは一言で言えば、孤立化した個々の群衆を特定の世界観の中にすべて融解させてしまおうとする運動なのであると。アーレントの『全体主義の起源』を引きながらナチスの台頭を例にとって説明している。規模は違うがメンタリティーは同じだという気はする。麻原はヒトラーに擬せられている。ヒトラーも苦笑しているだろう。
 また原理主義はアメリカのキリスト教原理主義を例にとって説明しているが、佐々木中は近著『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)で原理主義に触れて、次のように言っている、「原理主義という言葉自体が、なんでも投げ込んでおける屑かごのような曖昧な概念になり果てしまっています。悪しき原理主義と定義すべきものは何か。それは、自分とテクストの区別がつかなくなっている者、そしてその病んだ状態ということに他なりません。多くの暴力的な原理主義は、いわば無原理主義であって、依拠していると称するテクストにまったく根拠を置いていない。(中略)オウム真理教だってそうです。仏教だのキリスト教だの我儘勝手に過去の聖典を引いていますが、実はまともに聖典を読んでいない。今さら、ブッダは修行を否定している、なんて言わなくてはいけないんですか。あのブッダですら最終的な解脱、すなわち涅槃(ニルヴァーナ)に達したのは死んだ時ですよ。生きているうちに最終解脱なんてことはあり得ない。麻原のように、生きているうちに「最終解脱者」を名乗るなどというのは沙汰の外です。まったくの論外ですよ」とにべもない。高が邪教集団に学問的分析はいかがなものかという私の疑念はまんざら間違いではなかったようだ。因みにこの佐々木氏の本は「読むこと」の意味を説いたもので、非常に刺激的だ。
 結論的にはオウム真理教には「精神史」というたいそうなものはなかったが、この教団の人をだまして入信させる手口は全体主義が群衆をだまくらかすやり方と同じということである。孤独な社会は理性的なものを抑圧して爆発的な感情に走る危険性を孕んでいる。要注意だ。