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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 家康に情報が早く届いた理由の一つ それは水野忠重ではないか

2018-12-08 21:12:03 | 明智光秀
 本能寺の変が発生したすぐ後に、家康にはかなり早くそのほぼ正確の情報が届いていたようで、家康が無事三河に帰る事ができた要因の一つと思われます。
 では家康が普通より正確で早い情報を得ていたのか?
 通説では茶屋四郎次郎が家康の情報提供、及び伊賀越えなどの帰還サポートなどをしていると言う事になっているのですが、確かにこれは間違いではないでしょう。
 ただ所詮は武将でもなかった茶屋四郎次郎がいち早く情報を得られたのは何故か?と言うとこれにはそれなりの理由が有ったからだと考えています。
 その中枢人物が誰が、と言うとそれはどうも水野忠重ではないでしょうか。 本能寺の変の当日、織田信忠と二条新殿にいたのがどうも水野忠重、つまり家康の叔父だったらしいのです。
 水野忠重が本能寺の変の概況を把握する位置に有ったらしい事、そして家康と連携をとっていたらしい事はほぼ確実なはずなのに秀吉が水野忠重を暗殺できるわけでもなく、有る程度は石高を秀吉から与えられるもののやがて奇妙なケンカ(暗殺?)で殺害される、と言う数奇な運命を辿る事となりました。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D

水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。水野家当主。三河刈谷城(刈屋城)および緒川城主、後に伊勢神戸城主。実姉・於大の方は徳川家康の生母で、家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人にも数えられている。 
(中略)
天正10年(1582年)2月、信忠の甲州征伐に従軍。武田滅亡の後に信長が凱旋する途中、三河池鯉鮒[18]にて信長を饗応している[8]。同年6月、本能寺の変が起こると、信忠に従って妙覚寺、二条御新造にいたらしいが、難を逃れて京都に潜伏。脱出して、6月11日に三河国刈谷に戻った[8]。

『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている[8]。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。
(中略)
10月に秀吉は織田信雄の籠もる桑名城を包囲したが、忠重らは堅く守ってこれを退けた[13]。桑名対陣中、嫡男の勝成が、忠重の家臣・富永半兵衛に讒言されて父に罰を受けたといって、これを殺害した。小牧でこの弁明を受けた忠重は許さずに追放したので、勝成は諸国放浪した[21]。

11月15日、信雄が秀吉と単独講和して秀吉の臣下となったので、忠重は陪臣の身分となった。天正13年(1585年)2月、秀吉が雑賀攻めの軍を起こすと、信雄から同月12日に出陣の命令を受けている[8]。
(中略)
時期ははっきりしないが、この頃に忠重は秀吉の直臣となったようである[8]。9月、秀吉に摂津豊島郡内の神田728石の加増を与えらているが[8][6]、『寛政譜』ではこれを勝成への扶助とする[21]。秀吉は桑名対陣での働きや、多年の功績を評価して、石川数正と同じ武者奉行とした[13]。

天正15年(1587年)の九州の役に参加[8]。同年7月29日、従五位下和泉守に叙任されて、豊臣姓を賜った[13][8][22]。

天正18年(1590年)の小田原の役では、250騎を率いた。同年9月4日、伊勢神戸城4万石に移封された[6][23][8]。
(中略)
慶長5年(1600年)、家康の会津征伐には子の勝成が従軍し、三河に留まる。7月19日、三河池鯉鮒[18]において浜松から越前府中の新領に帰る堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、同席した加賀井重望(秀望)と口論になった殺害された[23][8][24]。享年60

引用終了

 本能寺の変ではいち早く情報を家康に届けた可能性は高いのですが、何ともむごたらしい最期でこのあたりの経緯で当時の複雑怪奇な情勢が見てとれます。
 


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