以前の記事で書いた通りで、(個人的にと言う程度ですが)年齢的に無理がないように見ると天海は明智光秀の代理人だったのではないか、そして更に少なくとも一部の期間は明智光秀の嫡男である明智十五郎(明智光慶)であったであろうと見ています。
天海に関してはこれを裏付ける数字が存在するので次に引用します。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師()。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
(中略)
前半生
龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。[要出典]元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。[要出典]その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。[要出典]
喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。
豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている[3]。この年、権僧正に任ぜられた。
また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる[4]。
後半生
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。
引用終了
秀吉が没したのは1598年9月でそのすぐ後、まるでそれを確認してからのように天海が北院の住職となり、「その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う」と有ります。
「慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている[3]。この年、権僧正に任ぜられた。」と言う点は、この時に明智光秀の嫡男である明智十五郎(明智光慶)が既に天海に成り代わっていた後ではないかと考えられなくも有りません。
数字としては秀吉が没し、関ヶ原の戦いで東軍が勝ってそろそろ豊臣氏も滅亡できる目途がたって来た期間でもあるので明智光慶を表に出して来たのかと言う見方もできます。
その後、1614年には「大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わ」り、1616年には大坂の陣で豊臣氏は滅亡します。
その後には崇伝の主張を制して、家康の遺体を久能山から(明智平の近くである)日光山に改葬する事を決定させました。
秀吉が没した直後、そして豊臣氏が滅亡した直後に天海には何故かステップアップが有りその力が増して行ったのは事実です。
土岐一族の流れを汲む明智氏が徐々に再興、と言う側面に見えなくも有りません。
そして偶然なのかどうかは判りませんが、数字が妙に同じなのが気になるこのデータです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80
春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)[1][2]、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。
引用終了
何と天海が没したのは同じ1643年と言うだけでなく日数の差が僅か1ヶ月も有りませんでした。
あまり意味の無い数字なのか? それとも「天海、春日局と言う2強によって強力な力を維持していた時代の終焉」を意味していたのか?
明確な事はわかりません。
ただ徳川家光の嫡男、家綱には嫡子が出来なかったものの斉藤氏と明智氏がもし連携していたらその力は続いていた考えられ、その後に経緯は次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。
3代将軍・徳川家光の四男として正保3年(1646年)1月8日、江戸城に生まれる。幼名は徳松(とくまつ)。
(中略)
延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、その養子になれたであろう三兄の綱重も既に亡くなっていたため、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が40歳で死去したために内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下を受ける。
家綱時代の大老・酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後、忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局は忠清の弟忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。
(中略)
しかし貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。
引用終了
綱吉は家光の四男であり三河西郷氏と言う土岐一族の血流は途絶えず、家光を擁立していた春日局と天海の力は没した後も存続したようです。
ただその後の経緯を見ていると、春日局(斉藤利三の流れ)と天海(明智光秀の流れ)の力はどうも17世紀末頃に全盛期を終了したようにも見えます。
天海に関してはこれを裏付ける数字が存在するので次に引用します。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師()。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
(中略)
前半生
龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。[要出典]元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。[要出典]その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。[要出典]
喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。
豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている[3]。この年、権僧正に任ぜられた。
また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる[4]。
後半生
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。
引用終了
秀吉が没したのは1598年9月でそのすぐ後、まるでそれを確認してからのように天海が北院の住職となり、「その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う」と有ります。
「慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている[3]。この年、権僧正に任ぜられた。」と言う点は、この時に明智光秀の嫡男である明智十五郎(明智光慶)が既に天海に成り代わっていた後ではないかと考えられなくも有りません。
数字としては秀吉が没し、関ヶ原の戦いで東軍が勝ってそろそろ豊臣氏も滅亡できる目途がたって来た期間でもあるので明智光慶を表に出して来たのかと言う見方もできます。
その後、1614年には「大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わ」り、1616年には大坂の陣で豊臣氏は滅亡します。
その後には崇伝の主張を制して、家康の遺体を久能山から(明智平の近くである)日光山に改葬する事を決定させました。
秀吉が没した直後、そして豊臣氏が滅亡した直後に天海には何故かステップアップが有りその力が増して行ったのは事実です。
土岐一族の流れを汲む明智氏が徐々に再興、と言う側面に見えなくも有りません。
そして偶然なのかどうかは判りませんが、数字が妙に同じなのが気になるこのデータです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80
春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)[1][2]、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。
引用終了
何と天海が没したのは同じ1643年と言うだけでなく日数の差が僅か1ヶ月も有りませんでした。
あまり意味の無い数字なのか? それとも「天海、春日局と言う2強によって強力な力を維持していた時代の終焉」を意味していたのか?
明確な事はわかりません。
ただ徳川家光の嫡男、家綱には嫡子が出来なかったものの斉藤氏と明智氏がもし連携していたらその力は続いていた考えられ、その後に経緯は次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。
3代将軍・徳川家光の四男として正保3年(1646年)1月8日、江戸城に生まれる。幼名は徳松(とくまつ)。
(中略)
延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、その養子になれたであろう三兄の綱重も既に亡くなっていたため、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が40歳で死去したために内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下を受ける。
家綱時代の大老・酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後、忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局は忠清の弟忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。
(中略)
しかし貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。
引用終了
綱吉は家光の四男であり三河西郷氏と言う土岐一族の血流は途絶えず、家光を擁立していた春日局と天海の力は没した後も存続したようです。
ただその後の経緯を見ていると、春日局(斉藤利三の流れ)と天海(明智光秀の流れ)の力はどうも17世紀末頃に全盛期を終了したようにも見えます。