信長が長宗我部氏と毛利氏を同時総攻撃しようとした事については、当初は何故同時2者攻撃と言う愚行をしたのか謎だったのですが、その後に考えて見ると確かに長宗我部氏と毛利氏が連携し出すとかなり厄介になる可能性が有りそれを阻止する為にも両者を同時にせめる方法を採ったのか、とも思えて来ました。
この点は以前に記事にした通りですが、それにしても東では上杉氏にも攻撃を加えていたのであり、いくら何でも3者同時に攻撃、しかも北条氏は一応は織田方と同盟関係ではあったものの強い縁とかで結びついているわけでもなくいつ上杉方に寝返るかはわからなかったはずです。
実際に本能寺の変が起きた後には北条氏が織田勢に反旗を翻しました。
長宗我部氏と毛利氏を同時総攻撃した場合、畿内には殆んど兵力が残らないわけで、これが何を意味するかと言うと「上杉勢が北条勢(或いは徳川勢も?)と同盟を結んで反撃に転じた場合に織田方は後詰めの兵を送れない」、と言う事でもあるわけです。
信長が家康を安土や京都などに接待を名目で呼んだのは実は上杉方へ寝返らないように人質として家康や重臣らを畿内に釘付けにする意図も一部は有ったのかも知れません。
ならば本当は北条氏からも人質になり得るような人物を接待名目で呼んでも良いはずなのですが、これは史実に残っていません。
個人的な考え方に過ぎませんが、もしかすると本当は北条氏も呼んだのに北条氏はそれに応じなかった、と言う事が或いは有ったのではないか、思っています。
信長はこの状況で「四国の長宗我部攻めはとりあえず暫く見合わせるか、或いは長宗我部氏からの恭順案を受け入れて和睦する方向に戦略を変更した」のではないでしょうか。
こうすると、仮に上杉勢が北条氏や或いは旧武田方国人らと連携するなどで反撃攻勢に出た場合にも四国へ向かうはずだった部隊を織田勢から後詰めの大部隊を送れます。
また一部は毛利攻めに増員もできるわけで、この方が楽に着実に勝てるわけです。
恭順の意を示した長宗我部氏を攻めるのはとりあえず見合わせておき、和睦まではせずに毛利氏を殲滅してから後にゆっくり料理すれば良い、と言う位は信長は考えたはずだとも思えるのです。
長宗我部元親から斉藤利三へ宛てた書状の書かれた日付けは5月21日。
これが妨害されずに届いたとすればと言う仮定の場合に過ぎませんが、それは5月26日までに信長へ届いていたはずだと考えられます。
しかしその直後と思われる5月27日に信長は斉藤利三へ切腹命令を下したと言われているので、通説では「長宗我部氏が信長へ恭順する意向など届いて信長はそれを跳ね除けて長宗我部討伐の為に四国進軍準備を進めた」と言う解釈されているようです。
しかし一方では堺から四国へ向かおうとした信孝、丹羽長秀の大部隊が堺へ入る予定だったのが、、堺の南北荘民から迷惑との声があり、堺の代官 松井友閑が仲介して陣取りできなくなった、と言う事態が発生していた事が「宇野主水日記」に書かれています。
堺には大船団は来ていたのに織田方の大部隊が堺へ入れない、と言う状況にもかかわらず、無防備な商人らを相手に織田勢は武力で強行進軍しようとはしなかった、と言うのは何を意味するのでしょうか?
その一つの理由は当時の堺商人は鉄砲、火薬の調達ルートを握っており例え信長と言えども堺商人らを刺激する事は避けたと言う事なのでしょうが、それが意味する事とは信長は「長宗我部討伐は堺商人らの好むところではないようなので取り合えず見合わせておこうか。何も無理せず余った兵を毛利攻めか上杉攻めに配分すれば良い。その方が楽に勝てる。長宗我部元親は織田方へ恭順の意思を示している以上、裏で毛利方と連携する事はないだろう。長宗我部氏をどう料理するかは毛利氏と上杉氏を制圧した後で決めれば良い」と考えた可能性が高いと筆者なりに考えるようになりました。
それで家康を急遽、ハードなスケジュールにもかかわらず堺に向かわせて堺の商人と会せ、信長の妥協案を伝えた可能性もゼロではない、とも思えますがここまでは関連があるかどうかは判りません。
ただ堺で行われた茶会には杉原家次も同席していた事が記録に残っていて、この杉原家次と言うのは秀吉の叔父でありつまりは秀吉のスパイでもあったはずです。
だとすれは信長が四国の長宗我部討伐を見合わせる話がそこで出ていれば、杉原家次に筒抜けだった事になり、これは毛利氏には大変な危機となり、そして秀吉が仮に毛利氏と癒着、共謀関係に有ったのならば秀吉にとっても重大危機でもあったはずとなり、この茶会の翌日である6月2日に本能寺の変は起きています。
この杉原家次は秀吉と毛利氏が和睦した直後に備中高松城に留守居として赴いた言う事なのですが、中国おお返しで秀吉勢が畿内に戻るのと反対に短時間に堺から備中高松城にまでわざわざ行っているのです。
杉原家次が堺での茶会に同席していた事を隠す為に秀吉がアリバイ工作をしたのか?
或いは毛利方への人質と同等の意味で備中高松城に留守居としていたのか?
それともどちかは替え玉なのか?
仮に秀吉のアリバイ工作だったとすればこの杉原家次が信長襲撃の司令塔グループの一人でもあった可能性がゼロではない事になります。
そしてこの杉原家次は本能寺の変の後に大出世をしたのですが、二年後に狂死したと言われているようです。
ここまで来ると流石に気味が悪くなってきますね。
この点は以前に記事にした通りですが、それにしても東では上杉氏にも攻撃を加えていたのであり、いくら何でも3者同時に攻撃、しかも北条氏は一応は織田方と同盟関係ではあったものの強い縁とかで結びついているわけでもなくいつ上杉方に寝返るかはわからなかったはずです。
実際に本能寺の変が起きた後には北条氏が織田勢に反旗を翻しました。
長宗我部氏と毛利氏を同時総攻撃した場合、畿内には殆んど兵力が残らないわけで、これが何を意味するかと言うと「上杉勢が北条勢(或いは徳川勢も?)と同盟を結んで反撃に転じた場合に織田方は後詰めの兵を送れない」、と言う事でもあるわけです。
信長が家康を安土や京都などに接待を名目で呼んだのは実は上杉方へ寝返らないように人質として家康や重臣らを畿内に釘付けにする意図も一部は有ったのかも知れません。
ならば本当は北条氏からも人質になり得るような人物を接待名目で呼んでも良いはずなのですが、これは史実に残っていません。
個人的な考え方に過ぎませんが、もしかすると本当は北条氏も呼んだのに北条氏はそれに応じなかった、と言う事が或いは有ったのではないか、思っています。
信長はこの状況で「四国の長宗我部攻めはとりあえず暫く見合わせるか、或いは長宗我部氏からの恭順案を受け入れて和睦する方向に戦略を変更した」のではないでしょうか。
こうすると、仮に上杉勢が北条氏や或いは旧武田方国人らと連携するなどで反撃攻勢に出た場合にも四国へ向かうはずだった部隊を織田勢から後詰めの大部隊を送れます。
また一部は毛利攻めに増員もできるわけで、この方が楽に着実に勝てるわけです。
恭順の意を示した長宗我部氏を攻めるのはとりあえず見合わせておき、和睦まではせずに毛利氏を殲滅してから後にゆっくり料理すれば良い、と言う位は信長は考えたはずだとも思えるのです。
長宗我部元親から斉藤利三へ宛てた書状の書かれた日付けは5月21日。
これが妨害されずに届いたとすればと言う仮定の場合に過ぎませんが、それは5月26日までに信長へ届いていたはずだと考えられます。
しかしその直後と思われる5月27日に信長は斉藤利三へ切腹命令を下したと言われているので、通説では「長宗我部氏が信長へ恭順する意向など届いて信長はそれを跳ね除けて長宗我部討伐の為に四国進軍準備を進めた」と言う解釈されているようです。
しかし一方では堺から四国へ向かおうとした信孝、丹羽長秀の大部隊が堺へ入る予定だったのが、、堺の南北荘民から迷惑との声があり、堺の代官 松井友閑が仲介して陣取りできなくなった、と言う事態が発生していた事が「宇野主水日記」に書かれています。
堺には大船団は来ていたのに織田方の大部隊が堺へ入れない、と言う状況にもかかわらず、無防備な商人らを相手に織田勢は武力で強行進軍しようとはしなかった、と言うのは何を意味するのでしょうか?
その一つの理由は当時の堺商人は鉄砲、火薬の調達ルートを握っており例え信長と言えども堺商人らを刺激する事は避けたと言う事なのでしょうが、それが意味する事とは信長は「長宗我部討伐は堺商人らの好むところではないようなので取り合えず見合わせておこうか。何も無理せず余った兵を毛利攻めか上杉攻めに配分すれば良い。その方が楽に勝てる。長宗我部元親は織田方へ恭順の意思を示している以上、裏で毛利方と連携する事はないだろう。長宗我部氏をどう料理するかは毛利氏と上杉氏を制圧した後で決めれば良い」と考えた可能性が高いと筆者なりに考えるようになりました。
それで家康を急遽、ハードなスケジュールにもかかわらず堺に向かわせて堺の商人と会せ、信長の妥協案を伝えた可能性もゼロではない、とも思えますがここまでは関連があるかどうかは判りません。
ただ堺で行われた茶会には杉原家次も同席していた事が記録に残っていて、この杉原家次と言うのは秀吉の叔父でありつまりは秀吉のスパイでもあったはずです。
だとすれは信長が四国の長宗我部討伐を見合わせる話がそこで出ていれば、杉原家次に筒抜けだった事になり、これは毛利氏には大変な危機となり、そして秀吉が仮に毛利氏と癒着、共謀関係に有ったのならば秀吉にとっても重大危機でもあったはずとなり、この茶会の翌日である6月2日に本能寺の変は起きています。
この杉原家次は秀吉と毛利氏が和睦した直後に備中高松城に留守居として赴いた言う事なのですが、中国おお返しで秀吉勢が畿内に戻るのと反対に短時間に堺から備中高松城にまでわざわざ行っているのです。
杉原家次が堺での茶会に同席していた事を隠す為に秀吉がアリバイ工作をしたのか?
或いは毛利方への人質と同等の意味で備中高松城に留守居としていたのか?
それともどちかは替え玉なのか?
仮に秀吉のアリバイ工作だったとすればこの杉原家次が信長襲撃の司令塔グループの一人でもあった可能性がゼロではない事になります。
そしてこの杉原家次は本能寺の変の後に大出世をしたのですが、二年後に狂死したと言われているようです。
ここまで来ると流石に気味が悪くなってきますね。