JFKへの道
11
博美の小さな良心が、大きな罪悪感を抱き始めている。胸の奥に隠されている正義のこころが、悲鳴を上げ始めていた。
博美の部屋にいた。雨の季節になり、その日も来る前は、肌に湿気を感じていた。だが、部屋の中は、静かに空調が働き、不快感とは程遠かった。彼女の選択で、ゴダールの白黒映画を見た後だった。彼女は、紅茶を飲んでいた。ぼくは、ゆっくりできるので冷えたビールを口にしていた。何もしたくない気だるい空気が流れていたときだ。彼女は、自分の過去の恋愛の話を洗いざらい語り出した。その恋愛が現在、座礁に乗り上げていることも、正直に言った。自分は、そのような真面目な話を聞く準備は出来ていなかったが、こころのどこかでいずれ近いうちに当面することは知っていたかもしれない。そして、彼女は、その先が見えない関係を清算しようとしていた。ぼくにも異存はなかった。
話して、彼女はちょっと安心したようだ。そして、ほっとしていた。その微笑を浮かべた表情は、とてもきれいだったと認めなければならない。誰にも請求はされていないが。だが、彼女は少し泣いた。ぼくは、ハンカチを出して、それから軽く抱いた。
部屋を出るときは、大雨に変わっていた。傘も役に立たないほどの量だった。急いで車に乗り、そこから逃げ出した。ワイパー越しに東京が見える。陳腐だが、光の洪水という感想を抱いた。そして、幻影のように、彼女の先刻の様子を思い出す。彼女は、ついに決心した。そして、前の彼氏に会いに出掛けて、きちんと話すそうだ。上手くいくのだろうか? その男性は、未練を感じるのだろうか。その天秤の一端を、自分が担っていることには抵抗があった。だが、そんなに女性の過去を考えることもなく、付き合うことなど不可能だ。大人の姿で急に生まれてくることも出来ない限り。
家に着いた。こういう感情を持っているときは、深い音のするテナー・サックスがこころを落ち着けることが分かっている。そして、一人で飲みなおし、ベッドに横になった。だが、あっという間に朝を迎えた。土曜の昨日を終え、日曜の朝がやってきた。
また、博美に会いに行く。彼女は、今日、その男性に会いに行く。自分は、どう言葉をかけてよいかも分からず、とにかく頑張れよ、と言って送り出した。彼女の車が遠去かる。その丸い車の輪郭が、小さくなっていくまで目で追った。
その日は、学生時代からの友人に久し振りに遭い、夕方から飲みだした。その前にスポーツジムで多少身体を動かしたので、冷たい飲料がうまかった。この友人は、銀行にいる。まだ30前では、融通がきかない部分が多いので、自分の境遇を羨ましがった。しかし、自分も彼の実力だけで、世の中を渡っている姿を、羨望する。こつこつ力をつけて行き、妥当なプレッシャーとストレスを感じ、また、そこそこの達成感をつかめる彼の未来を、またともないほど美しくすら感じた。
飲みながら、今夜はとても楽しく酔えたなと思っているが、こころのどこかに博美の一日を、同じように体験している自分が、宙ぶらりんの形でひっかかっていた。それを取り除くこともできなかった。
もう少しだけ飲みたい気分だったが、電話がなった。深刻な顔になったのか、友人は明日も早いという理由で切り上げた。地下から、蒸す表に出て、彼女の声を真剣に聞いた。
「やっと、終わったよ」
「どうだった? 危ないことはなかった?」
「全然。とても優しかったし、紳士だった」
「そう。じゃあ安心だよ。ゆっくり帰っておいで」
電話の声が、途切れた。それから、彼女の激しく泣く声が聞こえた。どうやっても、それを止めることなど無理に違いなかった。自分も、電話のこちら側で感情を共有した。だが、自分は手応えもなく彼女との関係を流れるままにしていたが、もうその流れを断ち切ることも、勢いを消すことも出来ないことは知っていた。もし可能ならば、昨日の彼女の話を聞く前の自分になり、まだ自由の感覚を持ち続けていたいような気もしたが、すべてがその暑い六月の夜の思い出に溶け込む。
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博美の小さな良心が、大きな罪悪感を抱き始めている。胸の奥に隠されている正義のこころが、悲鳴を上げ始めていた。
博美の部屋にいた。雨の季節になり、その日も来る前は、肌に湿気を感じていた。だが、部屋の中は、静かに空調が働き、不快感とは程遠かった。彼女の選択で、ゴダールの白黒映画を見た後だった。彼女は、紅茶を飲んでいた。ぼくは、ゆっくりできるので冷えたビールを口にしていた。何もしたくない気だるい空気が流れていたときだ。彼女は、自分の過去の恋愛の話を洗いざらい語り出した。その恋愛が現在、座礁に乗り上げていることも、正直に言った。自分は、そのような真面目な話を聞く準備は出来ていなかったが、こころのどこかでいずれ近いうちに当面することは知っていたかもしれない。そして、彼女は、その先が見えない関係を清算しようとしていた。ぼくにも異存はなかった。
話して、彼女はちょっと安心したようだ。そして、ほっとしていた。その微笑を浮かべた表情は、とてもきれいだったと認めなければならない。誰にも請求はされていないが。だが、彼女は少し泣いた。ぼくは、ハンカチを出して、それから軽く抱いた。
部屋を出るときは、大雨に変わっていた。傘も役に立たないほどの量だった。急いで車に乗り、そこから逃げ出した。ワイパー越しに東京が見える。陳腐だが、光の洪水という感想を抱いた。そして、幻影のように、彼女の先刻の様子を思い出す。彼女は、ついに決心した。そして、前の彼氏に会いに出掛けて、きちんと話すそうだ。上手くいくのだろうか? その男性は、未練を感じるのだろうか。その天秤の一端を、自分が担っていることには抵抗があった。だが、そんなに女性の過去を考えることもなく、付き合うことなど不可能だ。大人の姿で急に生まれてくることも出来ない限り。
家に着いた。こういう感情を持っているときは、深い音のするテナー・サックスがこころを落ち着けることが分かっている。そして、一人で飲みなおし、ベッドに横になった。だが、あっという間に朝を迎えた。土曜の昨日を終え、日曜の朝がやってきた。
また、博美に会いに行く。彼女は、今日、その男性に会いに行く。自分は、どう言葉をかけてよいかも分からず、とにかく頑張れよ、と言って送り出した。彼女の車が遠去かる。その丸い車の輪郭が、小さくなっていくまで目で追った。
その日は、学生時代からの友人に久し振りに遭い、夕方から飲みだした。その前にスポーツジムで多少身体を動かしたので、冷たい飲料がうまかった。この友人は、銀行にいる。まだ30前では、融通がきかない部分が多いので、自分の境遇を羨ましがった。しかし、自分も彼の実力だけで、世の中を渡っている姿を、羨望する。こつこつ力をつけて行き、妥当なプレッシャーとストレスを感じ、また、そこそこの達成感をつかめる彼の未来を、またともないほど美しくすら感じた。
飲みながら、今夜はとても楽しく酔えたなと思っているが、こころのどこかに博美の一日を、同じように体験している自分が、宙ぶらりんの形でひっかかっていた。それを取り除くこともできなかった。
もう少しだけ飲みたい気分だったが、電話がなった。深刻な顔になったのか、友人は明日も早いという理由で切り上げた。地下から、蒸す表に出て、彼女の声を真剣に聞いた。
「やっと、終わったよ」
「どうだった? 危ないことはなかった?」
「全然。とても優しかったし、紳士だった」
「そう。じゃあ安心だよ。ゆっくり帰っておいで」
電話の声が、途切れた。それから、彼女の激しく泣く声が聞こえた。どうやっても、それを止めることなど無理に違いなかった。自分も、電話のこちら側で感情を共有した。だが、自分は手応えもなく彼女との関係を流れるままにしていたが、もうその流れを断ち切ることも、勢いを消すことも出来ないことは知っていた。もし可能ならば、昨日の彼女の話を聞く前の自分になり、まだ自由の感覚を持ち続けていたいような気もしたが、すべてがその暑い六月の夜の思い出に溶け込む。