爪の先まで神経細やか

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償いの書(31)

2011年03月05日 | 償いの書
償いの書(31)

 朝に目覚めると、そこには裕紀がいて、眠る前にも裕紀の存在を感じている。洗面所には女性用の品が増え、日常的につかう家庭的なものも、例えばお皿やフォークやスプーンなども実用一点張りのものからデザイン優先のものに変わっていったのだと思う。

 ぼくは、10代の後半から別の女性とずっと暮らしていた。大人になってからは一人で過ごした時間はわずかなものだった。それゆえにふたりの女性の生活上における似通った部分や差異な部分を自然と発見した。CDのラックにはぼくの知らないピアニストやオーケストラのものが並び、ぼくはそのジャケットを見るだけで、どのような音が流れるのか知ろうとした。しかし、当然だが、それは何も教えてくれなかった。ぼくが家に帰り、彼女は日常の雑事をしながら、それらの音楽を聴いていた。それで、ぼくは気になれば、そのジャケットを眺めたり、「誰?」と質問をして、その答えられた名前やグループ名を覚えていった。
 朝は大体、いっしょに出勤した。帰りは、あまり時間が合わず、それぞれが連絡を取り合い帰った。都合がつけば外食をしたりもしたが、家にいることの方が多くなった。ある日、その新居に妹と山下を呼んだ。

 妹は小さな子どもを抱き、その子に必要な品物を彼は太い腕で軽々と持ち上げていた。
「素敵な家ですね」と山下が言った。
「そういう仕事をしてるからね」とぼくはこの家を借りられたいきさつを話した。
 裕紀は自分で作った手料理をテーブルに並べ、その後は、それを口に運びもせずに、ずっと子どもを抱っこしたり話しかけたりしていた。それを皆で眺めながら、山下が、

「裕紀さんは、子どもが大好きなんですね」と言ったが、それに応じる時間も惜しいらしく、彼女はちょっと頷いただけだった。ぼくは、その代わりに彼女の子ども好きのエピソードを語り、それにつられて、山下も、「ひろしさんもずっと子どもにサッカーや運動を教えていたじゃないですか。早く、自分たちのができるといいですね」と言葉を述べた。

「そうだといいね」とぼくは曖昧に返事をする。そうなれば、いまのように裕紀は、その子に注目し続け、自分への愛情が軽減するのではないか、という子ども染みた嫉妬心が数パーセントだがあった。だが、実際にそうなればどう変わるかなど誰も分からなかった。

 子どもは、いつの間にか寝息を立て、彼女もあやすのを止めた。そして、テーブルに着き、こちらの話に加わった。といっても、子どもへの質問を相変わらず、妹にし続け、大人通しや自分中心の話にはあまりならなかった。

 少量のお酒がはいり、ぼくら全員は寛いでいった。そうなれば、こころの中に隠そうとしていたものが自然とでてこようと行き場を探しているようだった。山下はいつもの自論である、ぼくが裕紀を見捨てたことを、それなりに分かるように言った。そして、妹はその話を嫌がるような表情をして止めた。結果として、こうなった以上、もう深く掘り下げることを妹は嫌い、山下は肯定的な気持ちであろうが、それぞれの話の展開の仕方が違うだけなのだろう、とぼくもそれを恐れることなく受け入れた。ただ、裕紀はどう思っているかはよく分からない。ただ、自分の人生を疑いもせずに受け入れていくだけなのだろうか? もっと時間が経てばそれぞれの理解の度合いは増え、分かることがあるのかもしれない。それが来るまで、さまざまな問題を自分は放って置こうとした。

 時間も過ぎ、妹たちが帰らなければならない時刻になった。今度は、山下が子どもを軽々と持ち上げ、妹が荷物をもった。ぼくらは一階のエントランスまで行き、そこで彼ら3人を見送った。裕紀はとても名残惜しそうに彼らを見ていて、ぼくはその裕紀の横顔を見ていた。いまにも涙がこぼれ出すのではないかという、その大きな瞳を眺め、彼女が気付くまでずっとそうしていた。

 裕紀はそれから直ぐにシャワーを浴び、メイクを落とした顔ででてきた。ぼくは、その間にテーブルの後片付けをして、お皿やグラスを洗った。窓を少し開けて空気を入れ換え、新鮮なものを取り入れようとした。少しだけ頭痛がして、さらに窓を開けてベランダに出た。ぼくは、そこから見える景色が地元とは違うことを考えている。ぼくは、前のアパートで雪代が出勤する様子を見守ったことを思い出していた。あの頃は、いまよりまだ若く、可能性が限りなくあったようにも感じている。
「何してるの?」と、部屋から声がきこえた。

「地元にいたときの頃を思い出している」
「それで?」
「あっちの景色がなつかしいな、と思ってるよ」
「戻りたい?」
「もう、こっちに生活の基盤ができてしまってるよ」
「残念?」
「そういう訳でもないけど」その言葉はまた部屋に戻ろうとしたときに発した。彼女は髪を拭いている。それで、タオルで隠れた彼女の視線はぼくのことを探せないでいたので、思ったより大声でさらに質問した。
「向こうの会議にでることもあるんでしょう? あ、そこにいたの」

 ぼくは、脱衣所で洋服を脱ぎ、風呂場に入った。熱い湯はさまざまなものを洗い流してくれ、先ほどからの頭痛も軽減したようだった。ぼくは、裕紀が抱いていた妹の男の子と、雪代に抱かされた小さな女の子の重さを考えようとしている自分が洗い流されたたくさんの思いから残っていることに驚いている。
コメント
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