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償いの書(35)

2011年03月13日 | 償いの書
償いの書(35)

 ぼくらは忘れる生き物であり、大切なものであろうと海の砂粒のように流され、ひとつひとつを区別することもできなくなっていく。しかし、忘れることに必死に抵抗するなら、ぼくは雪代の美しさが永続して、もっともっとリアルに迫り、振り払えないと考えていたのかもしれない。それに直面するとなれば、数年は経っていたはずなのに無抵抗だったので、忘れることなど不可能だったはずだ。だが、それも少しは忘れるようになっている。良い方向に働くひとつの結果なのだ。

 裕紀のことは、また別だ。ぼくは彼女の一挙手一投足を覚える覚悟をしている。だが、ぼくは仕事の間は、当然彼女に会えず、その思い出を増やしていくことはできなかった。そして、有限性というものをまだ察知できない20代の自分は、そんなに真剣にはそのことを考えていなかったのだろう。

 ぼくは夜中にふと目を覚まし彼女の存在が横にないことに気付く。そのままの姿勢で彼女を探すと、カーテンを少しだけ開け、外を見ていた。そこから、何が見えるのだろうか、ぼくは想像できなかった。

「どうしたの、眠れない?」
「あ、起こした?」
「自然に起きちゃったよ。どうかしたの?」
「なんか手足がしびれた」
「大丈夫? 明日、病院に行く?」
「そんなんじゃないの。大丈夫だよ。寝て」彼女はトイレに行き、またベッドの中に戻った。しびれたという手と足をぼくは交互の両手で挟んだ。だが、それはいつものように少し冷たいだけで、外部からはそれ以上の情報を与えてはくれなかった。

 翌日、彼女は平気な様子だったので、あれは不思議な夢の一部だったのだろうとの意識で、ぼくは気に留めなかった。そして、いつも通りいっしょに職場に向かった。改札を抜け、別れる間際になって、
「そういえば、体調が良くないといってなかったっけ?」と、思い出したようにぼくは言った。
「気にしないで、元気になったよ」と、彼女はいつもの笑顔で言った。その瞬間のこと自体もぼくは思い出すことができている。しかし、日々の仕事に忙殺され、彼女が第一ではなっていく時間が増え、2位になり、3位になったり、恐ろしいことには圏外になったりもした。

 仕事が終わり家に着くと、彼女は料理をしている。重いフライパンがあるのを目にして、
「手が、しびれるとか言ってたよね」とまた訊いた。
「気にしすぎなんだよ、ひろし君は。自分ももっと怪我したり、病気になったじゃない」
「あれは、だって体力の限界を越えようとした結果だよ」
「同じだよ。大丈夫だよ。待ってて、もう直ぐでできるから。お腹、空いた?」
「それはね」
 ぼくはスーツを脱ぎ、ハンガーにかける。ネクタイを緩めた首は、以前のような太さを有していないような気がした。それは、ぼくが運動から離れた時間の証明でもあったのだ。

 テーブルに座ると、前にいる裕紀はいつもと寸分違わぬ様子だったので、いろいろなことを忘れ、会話は今日起こったことに変わっていった。彼女は笑い、ときには相槌をうち、分からないことは質問をして、疑問として残さないようにした。彼女は、いつもそうだった。分かった振りをすることもなく、知らないことは知らないままにしておくことができないようで、さまざまな疑問を解消する努力をした。しかし、何に対しても首を突っ込むというような態度でもなく、どこか抜けているような部分もあった。

 ぼくは、手を伸ばし彼女の両手をつかんだ。やはり、気になったのだ。

「どう、変わりない?」
「平気。ひろし君は、もうスポーツ選手の手じゃなくなった。高校生のときはもっとごつかった」
 ぼくは手を離し、自分の両方の手のひらをしみじみと見た。そう言われれば、その通りだった。首は細まり、手は柔になった。その代わりに自分は何を手にしたのだろう、という不確かな疑問があった。

 ぼくは、テーブルを片付け、皿やグラスを洗った。彼女はテレビの前でリモコンを握って、チャンネルを変えている。その当時、人気がでだした歌手がうつるとリモコンで音声を少しだけ上げいっしょに歌い出した。ぼくは、それを聴きながら皿を洗うのを終えようとしている。

 ぼくも横に戻り、テレビを見た。あと、何人かが歌をうたい、ぼくは知らない顔をそこで何人かだが見つける。彼女は歌の内容の説明をして、ぼくは彼らのバックグラウンドを知る。彼女の説明は覚えているが、それが誰だったのかは覚えることができない。これもまた消え往く記憶の数々のひとつだった。

 ぼくは、昨日と同じようにベッドのなかにいる。彼女はきょうは抜け出さず、安らかな寝息を立てている。それをさっき聞いた彼女の歌声に変換し比較しようとしている自分がいた。だが、それも睡魔との闘いに負け、気付くと朝になっていた。彼女は家の中の用事をしている。ぼくは、鏡にむかってひげの感触を気にしている。どうやっても剃る以外方法はないのだが、それを先延ばしにできることが可能かどうか確かめるようにいつまでも撫でている。
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