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償いの書(36)

2011年03月26日 | 償いの書
償いの書(36)

 ぼくが学生時代にスポーツショップでバイトをしていたときの店の店長が仕事で東京に来ていた。彼は、その地域のスポーツ振興のなにかの係りになったらしく、さまざまな用具の見本市があるので、そこに行くことを目的としていた。そして、彼は自分でもジョギングをはじめて、自分やその周りの愛好家のために程度の良いシューズを探そうともしていた。さらに、娘に遊園地に行きたいとねだられ、その子もいっしょに来ることになっていた。その子は以前はぼくにとてもなついていたが、ひさびさに会うとどう変わっているのか自分もその変貌に興味があった。

 電話を貰い、ぼくらは彼らを家に招くことになった。外で食べるより自宅の方が安心できると思ったからだ。
「結婚のときはいろいろありがとうございました」ぼくは長い間、離れていたことも忘れ、旧友に会ったような懐かしさで店長に言った。彼は、娘の運動会かなにかのイベントで来ることはできなかった。そのため、裕紀のことを知らなかった。彼女も同じようなことを言った。

「こちらこそ、行けなくてごめん。こんなにきれいな女性ならば、行っとくべきだったな」
「まゆみちゃんも、大人になったね」彼女は思春期に入る手前だったのだろう。父の冗談に反応もせず、無口だった。その根源的な理由を突き止めてみたかったが、もうしばらくは時間がかかりそうだった。

 彼は一日仕事をして、まゆみちゃんはひとりで一日を過ごしていた。その年代なのか食欲があり、いろいろなものを食べた。ぼくは店長の家で彼ら3人といっしょに食事をしたことを懐かしく思い出している。

 裕紀が話しかけると、彼女も段々とこころを開いていった。そう無口な状態を保てるほど厭世的でもないし、根は快活な女の子なのだ。

 そして、まゆみちゃんもいろいろと裕紀のことをしりたがった。仕事は、どういうことをしているのかとか、英語がはなせて魅力的だとかの自分の感想も付け加えた。そこに、自分だけの、他からは際立った自立性が芽生えていることがぼくは嬉しかった。ただ、嬉しかった。まっすぐに育っていることに感激すらしていたのだ。

「まゆみちゃんは、大人になったら何になるの? ぼくみたいな彼氏がいるのは抜きにして」
「そういうのって馬鹿みたいだよ」と、いいながらも彼女は笑った。「看護婦か保母さん」
「そう、どちらも素敵ね」と裕紀は言った。そして、数秒だけ目をつぶり、その子がそうなっているのを想像するかのように再び目を開けた。

 ぼくは、地元のことを訊き、母校のラグビー部のことを情報として新たに掴んだ。きちんと水が流れていれば、そこには急激な落下など見られないようだった。

 夜も段々と暮れ、裕紀はその子が気に入ったらしく、なんども泊まっていけと誘った。それは、誘うということを越え、強制のようにもぼくには感じられた。味気ないホテルに泊まるより、ひとの温もりがあった方がいいのか、まゆみちゃんも納得した。

 彼女が風呂にはいる間、(やはり、思春期の女の子なのだ)ぼくは散歩がてら、店長をホテルまで送った。ぼくらは少しアルコールが入り、さまざまな垣根を取り除き、たくさんでもないが濃密な話をした。

「お前は、ああいう子が良かったんだ」
「すべて、偶然です。転勤したのも偶然ならば、再会したのも偶然です」
「前の子もきれいだったよな」
「多分、ぼくも永遠にあのひとを忘れることなどできないでしょう」
「思い出が詰まりすぎて?」
「思い出は時間とともに美化されますから。嫌なことは風化されて」
「そうだろうな。そうだ、明日、この周りをジョギングするから付き合えよ、まだ走れるだろう?」
「多分、じゃあ」といって待ち合わせの時間を決めた。そして、ぼくは、彼がプレゼントしてくれた靴を履いていこうと決めた。
 家に戻ると、まゆみちゃんは裕紀のパジャマを着ていた。それは、女の子っぽ過ぎた。そうして、黙ってストローでジュースを飲んでいると、彼女はとても愛らしい存在になっていた。次に、裕紀がシャワーを浴びた。その間、ぼくらは設定が分からないながらも会話を続けた。
「あの人、優しいひとですね」
「そうだろうね」
「良かったね、ひろし君」と言って、もっとたくさん話がつづくのかと思ったが、待ってもなにも出てこなかった。ぼくは、学校の話を聞き、その風景がまざまざと自分の頭のなかに反映されていくのを感じている。あの空気と校舎の色さえ思い出せそうだった。

「今日は、ひろし君ひとりで寝て」と裕紀は言って、まゆみちゃんを誘いベッド・ルームに消えた。ぼくは電気を消し、ソファに寝そべった。だが、なかなか眠られずビールの缶をまた開けた。

 翌日は休日だったが、早めに起き、スニーカーを履いて、それがぴったりだったことに驚いている。店長はそもそもシューズのサイズを合わすことがうまかったことを思い出した。

 ぼくらは合流し、川の流れる横を走ったり、軽い傾斜のある橋を超えたりした。彼は適度に運動しているらしく、無駄なものが身体にはないようだった。そして、ぼくはその横で少しばてている。日頃の不摂生がここに表れているのだ。
「昔の近藤には負けたかもしれないけど、いまなら勝てるな」と誇らしげに彼は言った。ぼくは、スポーツ・ドリンクを飲みながら返事もできないままただ頷くしかなかった。
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