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償いの書(34)

2011年03月12日 | 償いの書
償いの書(34)

 裕紀の叔父さんには子どもがいなかった。それゆえに両親を亡くす前から裕紀を可愛がり、亡くしてからはもっと親身になって溺愛とまではいわなくても可愛がり、さらにはその恩恵は付随するぼくにまで結果として及ぶことになった。

 彼は、ぼくが高校生の頃、裕紀と付き合っていたが、その後、別れたことも知っており、自分自身も若いときに無謀な判断をして誤った結果を報いた自分の人生のためかぼくを責めなかった。暖かな気持ちを充分にもっていて、それを隠しきれないように生活上で表した。金銭的にも裕福な部類のひとらしく、よく旅行などにも誘ってくれた。ぼくも、思いがけなく恵まれたひとに拾ってもらわれた猫のように、その生活に甘えた。

 ぼくらは箱根にいる。自分では来なかったであろうホテルに泊まっている。観光を楽しみ、美味しい夕飯を食べた。大きな浴槽にぼくと彼は浸かり、適度な温度が自分自身を心身とも解放するように自然と話が弾んでいった。彼は、ぼくが裕紀に示す愛情を確かめ、その温度が高温すぎることもなく、冷えすぎていないことを計った。一時的な熱狂ではなく、裕紀に対して絶えず水を一定量だけ与え続ける園芸科のような気持ちをもつよう促した。それは、実際のところどのようなものか自分には分からなかった。しかし、その言葉をいつか分かる日が来るだろうということで頭の片隅には置いておいた。

 裕紀も同じように叔母といっしょにお風呂に入り、紅潮した顔で戻ってきた。その叔母もぼくを急にできた息子のように親切にしてくれた。ぼくは、そのような関係をもてたことを喜び、結局は親しくなれなかった裕紀の両親と彼女の家族のことも一瞬だが忘れた。忘れたといっても自分が嫌われるようなことをしたのも事実であり、それをいつか証明されるのではないかという恐れもどこかに残っていた。しかし、忘れることのほうが多くなった。

 ぼくは、雪代と暮らしているころには、自分の両親が雪代と仲良くなることもなく、また逆の立場も長い間、そうであったことを何回目かの温泉に浸かりながら考えている。大きな浴場の溢れんばかりの湯が日に反射するのを眺めながら、ぼくはそんなことを考えていた。そして、ひととの繋がりの不思議さも同時に感じていた。

 ぼくは、そこで買った饅頭をお土産にして会社に向かった。何人かに妻のことを尋ねられ、ぼくらの現況を話した。仲が良いのも変わらないし、ずっとこのままであってほしいというぼくの願望があった。何人かはそれに賛成して、数人はそれに反論した。結果としては別のものを提示されることになったが、その頃の自分はどちらも耳に入っていなかったのだろう。

 外出するときに、犬を散歩させる女性に会う。彼女は上杉と言った。
「新婚生活楽しそうね」
「分かりますか?」
「むかしの余韻のようなものが手探りとして戻って来ている」
「不吉なことは言わないでくださいね」
「不吉も幸運もすべて真実なんですよ」
「まあ、そうだろうと思いますけど。瞬間を大切にするようにと言ってましたっけ?」
「そう言った。はっきりと言った」
「なにかがあって? 見えて?」
「ただの人生の先輩のたわごと。あまり、気にしないのよ」
 ぼくはずっと立ち話をしているわけにもいかないので、そこを去る。振り返ると、彼女は空を見上げ、その可愛い犬だけがぼくの行方を追っかけていた。上空にはなにがあるのかぼくも視線の先を見つめた。しかし、そこにはいつもの東京の青さと微妙な濁りが混じった空があった。雲も数個だけ行き場を失ったひとびとのように肩を寄せ集めているようにただよっていた。

 ぼくは仕事を終え、家に戻る。その時になると、昼間の女性の言葉をいつも自分は忘れている。彼女の毎日の小さな差異を発見するだけでぼくは幸福だった。もしかしたら、それが瞬間を大切にするという大きな意味かもしれなかったし、もしかしたらまったく別の意味があるのかもしれなかった。だが、忘れていたものは忘れたままにする時間も必要なのだ。

 たまに裕紀は叔母と電話をしている。ぼくは野球を見たり、サッカーを見たりしながらその声を聞くともなく聞いている。何か解決を求めての会話ではなく、ただドリブルをするのが好きで中断することが出来なくなってしまった少年のようにそれは続いた。ぼくは、サッカーの前半が終わり、トイレに立った。横目でぼくは彼女の姿を見ると、彼女もそれに反応して手を振った。後半の途中で彼女は電話を終え、ぼくの隣のソファに座りもたれかかった。

 ぼくが横を向くと、ずっと待っていたシュートが決まってしまう。彼女は笑い、ぼくは苦笑いをする。彼女が今度は不機嫌な顔を作り、ぼくは笑う。そこには、瞬間の積み重ねだけがあった。多分、それだけしかなかった。ぼくは、こうしたものを手に入れるために、遠回りをしたのだと思う。今更ながら、そのことを確認するようにゴール・シーンのリプレイを見るように、彼女の表情をもう一度だけ見つめた。