償いの書(33)
ぼくは本屋でラグビーの雑誌を立ち読みしていた。いつもは手にすることも稀にしかなかったが、あまりにも次の仕事の予定が空きすぎて読むべき雑誌はもうなかったのだ。そこで、不意に山下がインタビューを受けている記事を目にした。
「ぼくは、高校のときに全国大会に出られて、とてもラッキーなスタートが切れました。ぼくらの学校はいつも2番手に甘んじているような高校でした。自分も、当初は最強のチームに入る予定でしたが、あることがきっかけで別の高校に入ることを決めました。そこには一学年上の先輩がいて、彼がキャプテンでした。いつも不屈の気持ちを抱いているようなひとで、練習も熱心に行っていました。彼の方法を守れば自分もさらに上達することを学び、それゆえにぼくらの高校は常勝校にもなったのです。そのひとはラグビーを続けることはありませんでしたが、そのひとの分も自分はもしかしたら頑張っているのかなと感じることもあります」
若い子に向けての意見を求められての発言だったのだろうが、そこには過去の自分がいたのだ。そして、嬉しい反面、自分はあのときほど熱心に物事に取り組んでいるのだろうか、という少しゆううつな気持ちもあった。
ぼくは雑誌をもとの棚に置き、そこを出て行った。本屋をでると、ぼくは以前に感じた歓声がきこえて来るような錯覚を抱いている。無心にボールを抱え走って行った日々。そこにぼくの情熱のすべてがあったのだ。
約束をしていたお客さんと話を終えても、ぼくの周りには蜃気楼のような歓声がまだ残っていた。自分の気持ちがどうにかなってしまうのか心配したが、心配だけではなにも解決はしてくれなかった。
それで、仕事を終えて、ぼくは裕紀を誘い、ゲーム場に向かった。そこにはバッティングセンターが併設されていて、そこで無心にボールをバットで叩きたかった。そうしないことには、今日のこの気持ちがなくなってはくれそうになかったのだ。ぼくは上着を脱ぎ、ネクタイをはずし、腕まくりをしてボールを叩いた。何回かそうしていると気持ちも落ち着いたものになった。
「どうしたの、急に?」
ぼくは経緯を話した。彼女に秘密を作らないようにと決めていたのだ。ぼくは昼間に雑誌を読んで、そこに表現された自分と、いまの自分があまりにもかけ離れた存在であることに、自分自身でがっかりしたのだと正直に告白した。彼女は当然のように否定し、いまのぼくも昔と違わず素敵だとも言ったが、そう言われる度に自分の気持ちのなかにしっくりこないものを感じていた。別の人間だったら、どう評価するのか、裕紀以外の意見も訊いてみたかった。
次の日になってもその気持ちは残り、ぼくは雑誌を手にしてしまった自分を恨んだ。だが、日々の業務はぼくの意思とは関係なく過ぎ去っていき、だんだんと張り詰めた気持ちはなだらかに消滅に向かった。ぼくは、ヒーローになれなかった自分を悔いていたのだろうか。それとも、ただ山下のような存在に嫉妬していたのだろうか。はっきりとは分からなかったが、それらがミックスした感情がこころの中に留まっていたのだろう。
「わたしがあのとき逃げなかったら、ラグビーを続けていた?」彼女は、あまりにも心配したのかそのようなことを言った。自分を責めているのだろうか?
「え?」
「なぜ辞めてしまったの?」
「裕紀とは全然、関係ないよ。自分は高く持ちすぎた自分のイメージに追いつけずに勝手に苦しんで選択してしまったんだよ。もちろん、そのことで後悔していない。裕紀を失ったことは後悔したけど」
「いつまでも悩んでいるみたいだったので」
「そう、ごめん」
「別にあやまらなくてもいいのに」
「それに、裕紀は逃げた訳でもないだろう。ぼくに責任があるんだよ」
「責任なんか誰にもないんだよ。責任なんか」
ぼくは彼女を抱きしめる。あまりにも弱々しい存在に感じて。世界のあらゆる決断に対して、ぼくらは無力であり、もうぼくはその瞬間にひとりでは生きていけないものとして自分を規定してしまったのだろう。ぼくは抱きしめて彼女を守るというまったく反対の意味で彼女を胸に感じていた。ぼくはこうして自分の存在がどこかに逃げて飛び去ってしまわないように彼女にしがみついていただけなのだ。そのときに、はっきりとそう感じていた。
「ひろし君に責任なんかないんだよ」
「そう思うことにする」
「世の中って、もっとあたたかいところだよ」
「多分、そうだろうね」
ぼくは少し泣いた。自分のイメージに負けた自分をそのとき初めて許したのかもしれない。それまでは、過去を振り返ることを強がってしてこなかったのだろう。自分は、そこで自分の弟を見るように過去の自分を眺めた。もう歓声は消え、ぼくはただ静かなロッカーへの道を歩いている。目をつぶり敗者であったあの瞬間を認め、そとで待っているはずの裕紀を探そうとした。ぼくは再び、空白の期間から裕紀を取り戻そうとしていた。実際には、東京に出てきたときに裕紀を探し当てていたのだが、きちんと直線となってぼくのこころにつながったのは、そのときに抱いていた裕紀の小さな肩をしっかりと感じたときからだったのだろう。ぼくは、これこそが永遠だと思っていた。永遠というのは、こうして甘美で暖かいものだろうと認識した。
ぼくは本屋でラグビーの雑誌を立ち読みしていた。いつもは手にすることも稀にしかなかったが、あまりにも次の仕事の予定が空きすぎて読むべき雑誌はもうなかったのだ。そこで、不意に山下がインタビューを受けている記事を目にした。
「ぼくは、高校のときに全国大会に出られて、とてもラッキーなスタートが切れました。ぼくらの学校はいつも2番手に甘んじているような高校でした。自分も、当初は最強のチームに入る予定でしたが、あることがきっかけで別の高校に入ることを決めました。そこには一学年上の先輩がいて、彼がキャプテンでした。いつも不屈の気持ちを抱いているようなひとで、練習も熱心に行っていました。彼の方法を守れば自分もさらに上達することを学び、それゆえにぼくらの高校は常勝校にもなったのです。そのひとはラグビーを続けることはありませんでしたが、そのひとの分も自分はもしかしたら頑張っているのかなと感じることもあります」
若い子に向けての意見を求められての発言だったのだろうが、そこには過去の自分がいたのだ。そして、嬉しい反面、自分はあのときほど熱心に物事に取り組んでいるのだろうか、という少しゆううつな気持ちもあった。
ぼくは雑誌をもとの棚に置き、そこを出て行った。本屋をでると、ぼくは以前に感じた歓声がきこえて来るような錯覚を抱いている。無心にボールを抱え走って行った日々。そこにぼくの情熱のすべてがあったのだ。
約束をしていたお客さんと話を終えても、ぼくの周りには蜃気楼のような歓声がまだ残っていた。自分の気持ちがどうにかなってしまうのか心配したが、心配だけではなにも解決はしてくれなかった。
それで、仕事を終えて、ぼくは裕紀を誘い、ゲーム場に向かった。そこにはバッティングセンターが併設されていて、そこで無心にボールをバットで叩きたかった。そうしないことには、今日のこの気持ちがなくなってはくれそうになかったのだ。ぼくは上着を脱ぎ、ネクタイをはずし、腕まくりをしてボールを叩いた。何回かそうしていると気持ちも落ち着いたものになった。
「どうしたの、急に?」
ぼくは経緯を話した。彼女に秘密を作らないようにと決めていたのだ。ぼくは昼間に雑誌を読んで、そこに表現された自分と、いまの自分があまりにもかけ離れた存在であることに、自分自身でがっかりしたのだと正直に告白した。彼女は当然のように否定し、いまのぼくも昔と違わず素敵だとも言ったが、そう言われる度に自分の気持ちのなかにしっくりこないものを感じていた。別の人間だったら、どう評価するのか、裕紀以外の意見も訊いてみたかった。
次の日になってもその気持ちは残り、ぼくは雑誌を手にしてしまった自分を恨んだ。だが、日々の業務はぼくの意思とは関係なく過ぎ去っていき、だんだんと張り詰めた気持ちはなだらかに消滅に向かった。ぼくは、ヒーローになれなかった自分を悔いていたのだろうか。それとも、ただ山下のような存在に嫉妬していたのだろうか。はっきりとは分からなかったが、それらがミックスした感情がこころの中に留まっていたのだろう。
「わたしがあのとき逃げなかったら、ラグビーを続けていた?」彼女は、あまりにも心配したのかそのようなことを言った。自分を責めているのだろうか?
「え?」
「なぜ辞めてしまったの?」
「裕紀とは全然、関係ないよ。自分は高く持ちすぎた自分のイメージに追いつけずに勝手に苦しんで選択してしまったんだよ。もちろん、そのことで後悔していない。裕紀を失ったことは後悔したけど」
「いつまでも悩んでいるみたいだったので」
「そう、ごめん」
「別にあやまらなくてもいいのに」
「それに、裕紀は逃げた訳でもないだろう。ぼくに責任があるんだよ」
「責任なんか誰にもないんだよ。責任なんか」
ぼくは彼女を抱きしめる。あまりにも弱々しい存在に感じて。世界のあらゆる決断に対して、ぼくらは無力であり、もうぼくはその瞬間にひとりでは生きていけないものとして自分を規定してしまったのだろう。ぼくは抱きしめて彼女を守るというまったく反対の意味で彼女を胸に感じていた。ぼくはこうして自分の存在がどこかに逃げて飛び去ってしまわないように彼女にしがみついていただけなのだ。そのときに、はっきりとそう感じていた。
「ひろし君に責任なんかないんだよ」
「そう思うことにする」
「世の中って、もっとあたたかいところだよ」
「多分、そうだろうね」
ぼくは少し泣いた。自分のイメージに負けた自分をそのとき初めて許したのかもしれない。それまでは、過去を振り返ることを強がってしてこなかったのだろう。自分は、そこで自分の弟を見るように過去の自分を眺めた。もう歓声は消え、ぼくはただ静かなロッカーへの道を歩いている。目をつぶり敗者であったあの瞬間を認め、そとで待っているはずの裕紀を探そうとした。ぼくは再び、空白の期間から裕紀を取り戻そうとしていた。実際には、東京に出てきたときに裕紀を探し当てていたのだが、きちんと直線となってぼくのこころにつながったのは、そのときに抱いていた裕紀の小さな肩をしっかりと感じたときからだったのだろう。ぼくは、これこそが永遠だと思っていた。永遠というのは、こうして甘美で暖かいものだろうと認識した。