償いの書(32)
ぼくらは新しい家に住んでいたが、裕紀のいままでの家は両親が亡くなったときに遺産として譲り受けたものなのでそのままにしてあった。そこの近くには彼女の叔父も住んでいて、そこがあるとなにかと便利だった。そして、ぼくが出張に出掛け家を空けると、彼女は殻に戻るようにしてその場所に帰った。ぼくは、出張明けにその家に寄り、彼女を殻から取り出すようにして、いっしょに自分らの家に帰ることもあった。
ぼくは地下鉄のなかで吊り革につかまった状態で横にいる彼女に小声で話した。結婚したての彼女はとても美しく、もう学生時代の少女はどこにもいなかった。ただ話すときに、そのときの様子が感じられることもあった。彼女はもっている雑誌から目を離して、ぼくの方に振り向いた。
「きょう、遅くなるので先に帰ってて」
「ご飯は?」
「多分、いらない」
その言葉をきいて、彼女は頭のなかで自分が食べる献立を考えているようだった。ぼくらは駅で別れ、また夜に再会するまで、お互いの表情を知ることもなかった。だが、こころの中にはいつもいるようでもあった。
彼女は外では外国語を使うことも多く、家ではその反動で日本語をたくさん話したがった。ぼくは、外で愛嬌を振り撒いている分、無言で過ごせる時間も期待していた。だが、もちろん当初はたくさんの話をきき、たくさんの冗談を口に出した。
休日になれば、ぼくらは映画に出かけ、軽食をもって大きな公園で寝そべった。ぼくは、自分の頭を彼女の太股の上に置き、流れ往く雲を眺めていた。レストランで食事をしたり、両親の代わりを受け持っていた彼女の叔父の家を訪ねたりもした。そこには現在の時間というよりもっと緩やかな時間があって、ただ、こうした生活がずっと長く続くのであろうという希望と期待があった。ただ、ぼくの会社のそばの女性から言われた「一瞬を大事にしなさい」という言葉もこころのどこかには残っていた。確かではないけど、残っていたような気がする。
ぼくはその頃になって、やっと他の女性への関心を失っていった。それにしても長い自分の揺れ動く気持ちと付き合ってきたものだ。それは自分の意図しないことだったが、いつも自分から離れてはくれなかった。だがやっとこうしてひとりの、それも最愛のひとりと生活することにより、邪魔な気持ちはいくらか消えてくれた。その女性が悲しむことを自分は望んでいなかった。その原因を作ることなど、そのときのぼくは考えることもできなかった。
その頃に、ぼくは大学時代の友人で同じ目標をもっていた斉藤望という女性とある試験会場でばったりと会った。彼女はぼくの職場からそう離れていないところで働いていたので、その後も連絡を取り合うことになった。結果としては、彼女はその試験に合格し、ぼくは何度目かだが落ちた。だからといってコンプレックスを与えるようなことを彼女はせず、ただぼくを応援するような言葉だけを述べた。
「結婚したんだ」と、ぼくは言った。
「あの地元の洋服屋さんと?」
「違う、また別のひと」
「違うの? あんなに好きだったのに」
ぼくのまだ短かった人生だが、いつも、知り合いはそこにはいない側の人間の情報を引っ張り出し、ぼくに投げつけるようなことをした。ぼくは、そこから隠れるようなこともできず、ただ無防備にそれをぶつけられるままにした。
「ぼくには、初恋のひとが前にいて、そのひととした」
「お、センチメンタル。あんなに好きな人を放り投げて」
「彼女の方から別れを迫られた」
「それで? 納得したの?」
「東京に来なければならなかったし。もう、彼女は結婚して子どももいる」
「たくさん知ってるんだね。いまでも、興味が残ってるんだ」
「何年もいっしょにいたんだよ。興味だけじゃなく、責任もある」
「うそばっかり。興味だけでしょう?」
「相変わらず、口が悪いね」
ぼくらは根本的に気が合うのだろう。また、同じ目標をもっていたので意見を交換しやすい立場にいた。それで、たまにあってそのような内容の話もしたが、最終的にはそれぞれのこころの秘密を暴きあうような結果になった。それが、ぼくには快適であり、また学生のころに戻れるような錯覚も与えてくれたので、喜ばしい時間にもなった。
彼女は昔の面影を充分に残しており、いまだに社会人に成り切れていない様子もあったが、それでも、仕事でも優秀なようだった。その両面をぼくはくっつけることができずに、ただの同級生として接した。しかし、会話の最中に知らず知らず新しい情報を貰い、また刺激を受けそれで帰る間際になってようやく社会でも立派に活躍していることに気付くのだ。だが、時間があけば、もとの彼女の印象に戻ってしまった。
「学生時代の友人と試験会場であったよ」と最初の日に裕紀に言った。
「どんなひと? わたしが知らないひろし君のこと教えてくれるかな。大切なひと?」
「そうだね。会えば直ぐにあのときに戻れるんだから、大切なひとなんだろうね」
そう言い、ぼくはあの時代の校舎や食堂や、ポプラの木などを思い出している。そこに裕紀はいなく、待っていてくれたのは、別の女性だった。ぼくらは、一年だけいっしょに大学に通った。そのときの女性が依然として、こころの中に位置を占めていることに気付く。
「あんなに好きだったのに?」と斉藤さんは言った。その量や重さを彼女はどう感じてそう発言したのか、ぼくはもっと訊きたかった。しかし、それは冗談と冗談の間に挟まって消え、訊くことはできなくなっていた。
ぼくらは新しい家に住んでいたが、裕紀のいままでの家は両親が亡くなったときに遺産として譲り受けたものなのでそのままにしてあった。そこの近くには彼女の叔父も住んでいて、そこがあるとなにかと便利だった。そして、ぼくが出張に出掛け家を空けると、彼女は殻に戻るようにしてその場所に帰った。ぼくは、出張明けにその家に寄り、彼女を殻から取り出すようにして、いっしょに自分らの家に帰ることもあった。
ぼくは地下鉄のなかで吊り革につかまった状態で横にいる彼女に小声で話した。結婚したての彼女はとても美しく、もう学生時代の少女はどこにもいなかった。ただ話すときに、そのときの様子が感じられることもあった。彼女はもっている雑誌から目を離して、ぼくの方に振り向いた。
「きょう、遅くなるので先に帰ってて」
「ご飯は?」
「多分、いらない」
その言葉をきいて、彼女は頭のなかで自分が食べる献立を考えているようだった。ぼくらは駅で別れ、また夜に再会するまで、お互いの表情を知ることもなかった。だが、こころの中にはいつもいるようでもあった。
彼女は外では外国語を使うことも多く、家ではその反動で日本語をたくさん話したがった。ぼくは、外で愛嬌を振り撒いている分、無言で過ごせる時間も期待していた。だが、もちろん当初はたくさんの話をきき、たくさんの冗談を口に出した。
休日になれば、ぼくらは映画に出かけ、軽食をもって大きな公園で寝そべった。ぼくは、自分の頭を彼女の太股の上に置き、流れ往く雲を眺めていた。レストランで食事をしたり、両親の代わりを受け持っていた彼女の叔父の家を訪ねたりもした。そこには現在の時間というよりもっと緩やかな時間があって、ただ、こうした生活がずっと長く続くのであろうという希望と期待があった。ただ、ぼくの会社のそばの女性から言われた「一瞬を大事にしなさい」という言葉もこころのどこかには残っていた。確かではないけど、残っていたような気がする。
ぼくはその頃になって、やっと他の女性への関心を失っていった。それにしても長い自分の揺れ動く気持ちと付き合ってきたものだ。それは自分の意図しないことだったが、いつも自分から離れてはくれなかった。だがやっとこうしてひとりの、それも最愛のひとりと生活することにより、邪魔な気持ちはいくらか消えてくれた。その女性が悲しむことを自分は望んでいなかった。その原因を作ることなど、そのときのぼくは考えることもできなかった。
その頃に、ぼくは大学時代の友人で同じ目標をもっていた斉藤望という女性とある試験会場でばったりと会った。彼女はぼくの職場からそう離れていないところで働いていたので、その後も連絡を取り合うことになった。結果としては、彼女はその試験に合格し、ぼくは何度目かだが落ちた。だからといってコンプレックスを与えるようなことを彼女はせず、ただぼくを応援するような言葉だけを述べた。
「結婚したんだ」と、ぼくは言った。
「あの地元の洋服屋さんと?」
「違う、また別のひと」
「違うの? あんなに好きだったのに」
ぼくのまだ短かった人生だが、いつも、知り合いはそこにはいない側の人間の情報を引っ張り出し、ぼくに投げつけるようなことをした。ぼくは、そこから隠れるようなこともできず、ただ無防備にそれをぶつけられるままにした。
「ぼくには、初恋のひとが前にいて、そのひととした」
「お、センチメンタル。あんなに好きな人を放り投げて」
「彼女の方から別れを迫られた」
「それで? 納得したの?」
「東京に来なければならなかったし。もう、彼女は結婚して子どももいる」
「たくさん知ってるんだね。いまでも、興味が残ってるんだ」
「何年もいっしょにいたんだよ。興味だけじゃなく、責任もある」
「うそばっかり。興味だけでしょう?」
「相変わらず、口が悪いね」
ぼくらは根本的に気が合うのだろう。また、同じ目標をもっていたので意見を交換しやすい立場にいた。それで、たまにあってそのような内容の話もしたが、最終的にはそれぞれのこころの秘密を暴きあうような結果になった。それが、ぼくには快適であり、また学生のころに戻れるような錯覚も与えてくれたので、喜ばしい時間にもなった。
彼女は昔の面影を充分に残しており、いまだに社会人に成り切れていない様子もあったが、それでも、仕事でも優秀なようだった。その両面をぼくはくっつけることができずに、ただの同級生として接した。しかし、会話の最中に知らず知らず新しい情報を貰い、また刺激を受けそれで帰る間際になってようやく社会でも立派に活躍していることに気付くのだ。だが、時間があけば、もとの彼女の印象に戻ってしまった。
「学生時代の友人と試験会場であったよ」と最初の日に裕紀に言った。
「どんなひと? わたしが知らないひろし君のこと教えてくれるかな。大切なひと?」
「そうだね。会えば直ぐにあのときに戻れるんだから、大切なひとなんだろうね」
そう言い、ぼくはあの時代の校舎や食堂や、ポプラの木などを思い出している。そこに裕紀はいなく、待っていてくれたのは、別の女性だった。ぼくらは、一年だけいっしょに大学に通った。そのときの女性が依然として、こころの中に位置を占めていることに気付く。
「あんなに好きだったのに?」と斉藤さんは言った。その量や重さを彼女はどう感じてそう発言したのか、ぼくはもっと訊きたかった。しかし、それは冗談と冗談の間に挟まって消え、訊くことはできなくなっていた。