最後の火花 68
テストで成績の順位が分かる。上の下。中の上。試験のコツもポイントも方法論も分からなかった。骨組さえしっかりすれば、あとは適度に筋肉がつくことは理解できる。その丈夫な骨格をつくるアドバイスが必要だった。わたしは家庭教師というものを手に入れる。有名な大学に通っているひと。方法論を知っているのだろう。それでいて美人だった。おしとやかとも形容できる。
「随分と、日焼けして色が黒いのね」と、その女性の第一声を浴びる。
「スポーツが好きだから」
「勉強も簡単だよ」跳び箱も縄跳びも簡単だよ、という風な気軽な口振りだった。
大人になりかけの女性は良い匂いを振り撒いた。「随分と本が多いのね」柴田さんと自己紹介した彼女は数冊を手に取る。「これじゃ、文学部ね。でも、あんまりお金にならずに、就職もむずかしいのかな」と自分の未来を決めるように言った。
「数学とか理科があんまり得意じゃないみたいなんです」
「教えてあげるから、心配しないで。乗りかかった船でね」
「沈みかかった船」わたしは相変わらずひとこと多いのだ。
「じゃあ、浮き輪を投げてあげるから」快活な女性だった。
彼女は夕飯をいっしょに食べている。室内を見回して家具を誉め、母の服装も賛美した。父も早めに帰ってきて様子を見た。教育というのはお金がかかり、それを回収するためには偉くならないといけない。
「きれいな娘でしょう」と母は新たに娘がひとり増えたように言ったが、実際は、母性の欠けらもまったくないひとだった。わたしはお友だちの家で料理を習いながらそのことを知ってしまった。比較して、やっと到達する真理もある。
「ものになるでしょうか?」妹は無表情のままで訊いた。それで、みんなが笑った。
わたしはスポーツで汗をかき、週の数日は勉強を教わり、隠れて料理を習った。望んでもいなかったはずなのになかなか忙しい生活に足を踏み入れてしまった。柴田さんの日常も自然と分かってくる。弁護士になる夢があった。それで、せっせと自分も勉強している。だが、その必死さは表面にはまったく出ていない。毎日、遊び歩いているような、日毎の生活を楽しみ尽くしているような輝きもあった。
ひとに説明するのが好きなのだろう、教え方もうまかった。無口な弁護士というのも考えれば厄介なものだ。法廷で恥じらう姿など一切、必要ない事柄かもしれない。わたしはすべてを終えて、ひとりでベッドで本を広げる。「アメリカの悲劇」しか、そういう題材をもとにした本はうちにはなかった。
誰も幸福になり過ぎたいとも、同時に不幸になりたいとも願っていないが、結果として別の誰かに接触することによって思いがけない事件が起こってしまう。まあ、それが小説といえば、その通りだった。揺れ動く男性。しかし、起きたことはすべて望んでいないにしろ事実だ。事実を事実として証明する。わたしは決して陪審員になどなりたくない。そこでも物語を探して、より美的な内容を求めて誤った評価をしてしまうだろう。美というものは壮絶に追い駆けないといけないのだ。不戦勝や、ずるや取引や、収賄など起きてはいけない。カンニングもダメだ。だが、わたしは恵まれている。柴田さんを見つけてくれたのだ。
「分かってきた?」
「大体」
「それ、口癖だね?」
「そうかな」なぜか、わたしは赤面する。そのことを指摘されて赤さは増した。「でも、結果は次の試験まで待たないといけないんだよね」
「もう一冊、問題集を探すといいよ。スイングしたバットの数だけ、ヒットが増える」
「野球、やってたの?」
「ソフト・ボール」柴田さんは下手から投げるマネをする。いまはその痕跡もないほどのきれいなすらっとした指だった。
それで翌日、お小遣いをもらい本屋さんで問題集を買った。柴田さんがいなくても素振りはできるのだ。しかし、意気込みだけでわたしは本に後ろ髪をひかれてしまう。
ひとがひとの内面をジャッジするのは正しいことではないようにも思える。だが、事実を積み重ねた天辺に真実がかろうじて乗っているようだった。本音をいえば裁判など他人事だ。訴えられることもなければ、誰かのウソや偽りを暴きたいとも思わない。
仕事というのは学歴ではなく女工とか、手に職を若いときからつけるという時代でもあった。いまはなるべくならひとから羨ましがられたり、尊敬に値するほどのものではなければいけなくなった。そのライセンスとして高い教養、誰もが認定する学校というものが不可欠だった。柴田さんはもう持っていて、さらに高い資格を有するよう頑張っている。
「柴田さんは、ずっと弁護士になりたかったんですか?」
「本当は体操選手」
「どうして、あきらめたの?」
「変な骨の折り方をしてつづけられなくなったの」
「ソフトボールは大丈夫だった?」
「違う場所をつかうのかな、そんなに気にならなかった」
「でも、弁護士さん?」
「勉強も得意だったしね、わたしたちが幼いときは、シュバイツァーのことを教えられたからね。世のため、ひとのため」
「一日一善」
「ふふん、おもしろいのね。さあ、勉強しよう、光子ちゃん」
誰かの影響を受けることは幸福でもあり、不幸を誘引することもある。柴田さんはずっと前者だった。黄色いワンピースが限りなく似合っていて華やかな雰囲気で本の部屋を彩っていた。
テストで成績の順位が分かる。上の下。中の上。試験のコツもポイントも方法論も分からなかった。骨組さえしっかりすれば、あとは適度に筋肉がつくことは理解できる。その丈夫な骨格をつくるアドバイスが必要だった。わたしは家庭教師というものを手に入れる。有名な大学に通っているひと。方法論を知っているのだろう。それでいて美人だった。おしとやかとも形容できる。
「随分と、日焼けして色が黒いのね」と、その女性の第一声を浴びる。
「スポーツが好きだから」
「勉強も簡単だよ」跳び箱も縄跳びも簡単だよ、という風な気軽な口振りだった。
大人になりかけの女性は良い匂いを振り撒いた。「随分と本が多いのね」柴田さんと自己紹介した彼女は数冊を手に取る。「これじゃ、文学部ね。でも、あんまりお金にならずに、就職もむずかしいのかな」と自分の未来を決めるように言った。
「数学とか理科があんまり得意じゃないみたいなんです」
「教えてあげるから、心配しないで。乗りかかった船でね」
「沈みかかった船」わたしは相変わらずひとこと多いのだ。
「じゃあ、浮き輪を投げてあげるから」快活な女性だった。
彼女は夕飯をいっしょに食べている。室内を見回して家具を誉め、母の服装も賛美した。父も早めに帰ってきて様子を見た。教育というのはお金がかかり、それを回収するためには偉くならないといけない。
「きれいな娘でしょう」と母は新たに娘がひとり増えたように言ったが、実際は、母性の欠けらもまったくないひとだった。わたしはお友だちの家で料理を習いながらそのことを知ってしまった。比較して、やっと到達する真理もある。
「ものになるでしょうか?」妹は無表情のままで訊いた。それで、みんなが笑った。
わたしはスポーツで汗をかき、週の数日は勉強を教わり、隠れて料理を習った。望んでもいなかったはずなのになかなか忙しい生活に足を踏み入れてしまった。柴田さんの日常も自然と分かってくる。弁護士になる夢があった。それで、せっせと自分も勉強している。だが、その必死さは表面にはまったく出ていない。毎日、遊び歩いているような、日毎の生活を楽しみ尽くしているような輝きもあった。
ひとに説明するのが好きなのだろう、教え方もうまかった。無口な弁護士というのも考えれば厄介なものだ。法廷で恥じらう姿など一切、必要ない事柄かもしれない。わたしはすべてを終えて、ひとりでベッドで本を広げる。「アメリカの悲劇」しか、そういう題材をもとにした本はうちにはなかった。
誰も幸福になり過ぎたいとも、同時に不幸になりたいとも願っていないが、結果として別の誰かに接触することによって思いがけない事件が起こってしまう。まあ、それが小説といえば、その通りだった。揺れ動く男性。しかし、起きたことはすべて望んでいないにしろ事実だ。事実を事実として証明する。わたしは決して陪審員になどなりたくない。そこでも物語を探して、より美的な内容を求めて誤った評価をしてしまうだろう。美というものは壮絶に追い駆けないといけないのだ。不戦勝や、ずるや取引や、収賄など起きてはいけない。カンニングもダメだ。だが、わたしは恵まれている。柴田さんを見つけてくれたのだ。
「分かってきた?」
「大体」
「それ、口癖だね?」
「そうかな」なぜか、わたしは赤面する。そのことを指摘されて赤さは増した。「でも、結果は次の試験まで待たないといけないんだよね」
「もう一冊、問題集を探すといいよ。スイングしたバットの数だけ、ヒットが増える」
「野球、やってたの?」
「ソフト・ボール」柴田さんは下手から投げるマネをする。いまはその痕跡もないほどのきれいなすらっとした指だった。
それで翌日、お小遣いをもらい本屋さんで問題集を買った。柴田さんがいなくても素振りはできるのだ。しかし、意気込みだけでわたしは本に後ろ髪をひかれてしまう。
ひとがひとの内面をジャッジするのは正しいことではないようにも思える。だが、事実を積み重ねた天辺に真実がかろうじて乗っているようだった。本音をいえば裁判など他人事だ。訴えられることもなければ、誰かのウソや偽りを暴きたいとも思わない。
仕事というのは学歴ではなく女工とか、手に職を若いときからつけるという時代でもあった。いまはなるべくならひとから羨ましがられたり、尊敬に値するほどのものではなければいけなくなった。そのライセンスとして高い教養、誰もが認定する学校というものが不可欠だった。柴田さんはもう持っていて、さらに高い資格を有するよう頑張っている。
「柴田さんは、ずっと弁護士になりたかったんですか?」
「本当は体操選手」
「どうして、あきらめたの?」
「変な骨の折り方をしてつづけられなくなったの」
「ソフトボールは大丈夫だった?」
「違う場所をつかうのかな、そんなに気にならなかった」
「でも、弁護士さん?」
「勉強も得意だったしね、わたしたちが幼いときは、シュバイツァーのことを教えられたからね。世のため、ひとのため」
「一日一善」
「ふふん、おもしろいのね。さあ、勉強しよう、光子ちゃん」
誰かの影響を受けることは幸福でもあり、不幸を誘引することもある。柴田さんはずっと前者だった。黄色いワンピースが限りなく似合っていて華やかな雰囲気で本の部屋を彩っていた。