爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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リゾット・パルミジャーノ

2015年05月29日 | Weblog
リゾット・パルミジャーノ

 上野は馴染みの場所だった。

 幼少時には最初の行くべき都会として君臨する。盛り場。いまは美術館と昼酒の町である。

 どちらに属さない経験もある。女性と歩けば景色も変わる。ビルの地下の異質な食材ですら美しく感じられる。香辛料の強そうな缶詰も小道具としての役割を充分に発揮した。気分は、ミュージカルの主役である。

 あとにもさきにもあの料理をここでしか食べていない。ビルの上階にあったイタリアン・レストラン。ワインも飲んだ気がする。大人になってからアルコールを一滴も入れない夕飯など、そうそうもない。日常は安い缶チューハイであったにしても。

 前菜もおいしかったはずだ。しかし、かなりの時間が経っても記憶にのこっているのはひとつだけだ。

 大きな固まりのチーズにスコップで掘ったような窪みが真ん中にある。それがワゴンで運ばれてくる。テーブルの横に鎮座しても、その後の近い未来の結末を知らなかった。すると熱々のお米が運ばれてきて窪みに落とす。衛生的にどうかと思うほど潔癖にはできていない。

 その凹みのなかでチーズと格闘である。熱にほだされたチーズは自分の襟元を緩め、ご飯とからまる次第であった。包容力と溶解のチームワークだ。

 スプーンですくって熱々のタッグを舌にのせる。誰がこの乱暴な方法で、繊細な味を発見したのだろう。

 この場面は赤ワインを抜きにして考えられない。

 お店自体がいまもあるのか把握していない。興味もなくなった。いや、その女性との思い出を今後ものこそうと願っていないのだ。夢よ、さらばであった。

 そして、お米というのをできるならば食べたくない。赤貝と日本酒、貝と白ワインが理想であった。胃というのは思い出とはまったく無関係に縮こまる運命を有していた。


最後の火花 69

2015年05月29日 | 最後の火花
最後の火花 69

 律義に彼は翌日さきにやって来ていて静かにすわっていた。約束でもない約束も守るタイプなのだろう。わたしははじめて向かい合ってすわる。当然の権利のように。彼はこれまた交渉をはじめるように律義に名刺を取り出した。わたしは名前を小さな声で読み上げる。

「中庭英雄」わたしはメモ用紙を破り自分の何度も書き慣れた名前を丁寧に書いた。「漢字でひかりの子、と、えいゆう」

 わたしはその紙片を貸すべき本に挟み、贈答物のようにうやうやしく差し出した。
「ありがとう。読み方、ひでおです」
「そっちか。これ、無理やりみたいで、迷惑じゃないといいんだけど」わたしは用が済んだので、名刺の肩書や住所を見る。「父の会社もお世話になってるところだ」
「どこですか?」

 わたしは返答する。彼はわたしがその身分のように、いくらか卑下した様子を見せる。力関係で優位に立つ。わたし自身の力でもないのだが。

「本、好きなんですか?」ここに居るぐらいだから、答えは分かっている。
「はい、ひとりになれるから」
「そう。遮断。拒絶。カーテン。という意味合いでの本なんだ?」わたしは極論から突破口を開く。譲歩はそれからだ。
「もともと、物語を追うことも好きですよ」彼はわたしが差し出した本を見守る。「眠られぬ夜のために。不眠症ですか?」
「まったく。真冬のクマぐらい眠たい」

 彼は笑う。もっと、笑った顔を見たいと思う。これでは道化師の発想と同じだ。
「ぼくは、ゆっくりとしか読めないから、返すのに時間がかかるかもしれませんよ」
「全然、気にしないで。たまには、ここにも来る?」
「はい。部屋は狭いから」
「ひとりで?」
「はい」
「実家は?」
「ありません」
「ない?」疑問がのこったが、彼のこれ以上は質問するな、という視線で躊躇する。その障壁を乗り越えるのは容易そうではなかった。

 わたしの分も彼はコーヒー代を払ってくれた。駅までの道は川があった。たくさんの樹木が植えられ、すがすがしい空気がただよっている。名前、印象、雰囲気。大まかなものとして把握して、それが悪いものではないという単純な回答。減点と加点。理想と親しみある現実。

 わたしは電車に乗り、バルザックの谷間の百合を読む。この作家のあくどいまでの執拗さ、人間味に比べると、これだけ上品すぎるようにも思える。慕われるよろこび。なかなかはかどらない関係。わたしはいつも関係を結ぶのが早過ぎた。中庭さんはそのことを疑うかもしれない。自分で撒いた種だが、いくらか後悔もしている。いや、その場の快楽を追ったときのことを冷静な頭で考えてはいけない。酔ったときの醜態と同じだ。わたしはいろいろなものに酔えるのだ。

 別に約束したわけでもないので会えないときもある。だが、偶然にも会える回数が多くなる。そもそも彼はひとりになりたくてそこに来ているので、話しかけるわたしを迷惑だと思う可能性もある。しかし、その表情から察するに、別に深い拒絶の刻印という段階や層には達していない。決めたわけでもないが、どちらも水曜に寄ることが増えた。手探りの状態を越え、ひとりで本を読むということを求めなくなってしまったので、別の場所で会うようになってしまった。やはり本より、リアルな生活を二十代は懇願している。しかし、彼はなかなか誘ってこなかった。わたしは拒むというより受け入れる準備もできていて、そのシグナルも発しているはずだったのにである。

 眠りの導入はいつもすこやかなのだが、この頃はすこし時間がかかる。はじめて交際をしたときのようだ。わたしたちは別に恋人同士になった訳でもない。ただ頻繁に会うだけである。大人というのは意志をその都度、確認するものなのだろうか。日数と時間を多く費やした関係こそが神秘的であり、貴いのではないだろうか。

 わたしは焦れている。直接、問い質すこともためらっている。もしかしたら、必要以上に断られることを恐れているのかもしれない。明らかになるより、うやむやなままの方が安全だ。しかし、健全ではない。

 わたしはあのときの不安な気持ちでいっぱいの少女のようだ。いろんなことを経験したのに、いちからやり直し。恋とは厄介だ。絶対に自分が好きになったひとに好きになってもらうよう無言で要求する。強要する。自分に有利にならない以上、恋でもない。確かに恋だが、恋の成就ではない。必死さがなければ成立しない。

 わたしは職場で案の定、ミスをする。上の空だ。プロとは呼べない。プロは体調や精神の度合いで合格点以下を出してはいけない世界的な民族なのだ。また落ち着いてデスクに向かうと、ちょっとでも会えないかなと考えたりもしている。もしかしたら、うっかりわたしがコーヒーをこぼさなければよかったのだ。原因はあれだ。苦しみの根源もあの日だったのだ。

 わたしは忘れるようにむかしの彼氏に会う。そういう関係になる。代用品は緊張を強いることはなかった。満足であり、不満だ。不満であり、合格点といえばそこそこ合格点なのだった。