最後の火花 90
彼の友人をひとりとして知らない。同じようにわたしの友人、過去のどこかで気付かないうちに葬り去られたひとびとも含めて、彼はひとりも会ったことがない。だが、突然、手紙がきた。彼の過去のある日が一枚の紙によって明瞭になる。
しかし、わたしは会うことができないのかもしれない。随分と病状が重いそうだ。その男性も両親がいなかった。完全にいないのか、育てるのを放棄したのかわたしには分からない。でも、分かったからといって何かが解決することもなく、子どもには同じ結果としてのしかかるのだろう。いや、のしかかった。
わたしも夫に捨てられたようなものだ。愛情があるものとして信頼していたのに、結論は断絶。捨て子。わたしは英雄をどこまでも守るだろう。せめても大人になるまでは。
彼は暗い、沈んだ顔をしている。自分の幼少時の環境をなかなか話したがらない。理由として口にすればするほど、忘れていたものが現実にもどってきてしまうと言った。お化けに実体を与えてしまう行為のようだ。いないと考えればいなく、話せば話すほどリアルなものとして現在にまで、未来を歪めてしまうほどの影響を及ぼしてしまう。ほんとうはお化けなどいないのかもしれないが、ひとりで自分を守ることしかしてこなかったならば、無意味だとしても揺れる白いカーテンを恐れてしまう。他人が説得して変更させる領域外のことだ。
時は一定のはずなのに遅くなったり、すすんだりする。じりじりと待ち侘びたり、あっという間に過ぎてしまう楽しい時間もある。ベッドで彼の到来を待つ病人には長い時間が流れていると予想される。痛みがあればなお酷だった。長引く痛み。彼はどれほどの悪事を働き、どれほど罰せられなければならない運命にあるのか。ほとんどわたしと同じぐらいの親切なことをして、同じぐらいの回数、悪いことをしたのだろう。普通の人間として。不公平の如実としたあらわれ。見離された病人。
彼はそこに行く。歓喜があるのだろうか。安堵だろうか。共通の過去を共有できたよろこびなのか。わたしがもし最後の日になったら、いったい誰に会いたいと思っているのだろう。ひとりとして浮かばない。母でも父でもなかった。わたしは死を忘れられることと同義語だと思っていた。だから、誰にも会う必要がない。その道中でわたしは徐々に死んでいるのだ。
わたしは勝手にひとの生死を決めている。委ねられる権限もまったくないのに。老衰というものがご褒美のように感じられる。わたしは自分のその地位を考える。英雄には子どもがいる。孫というのはどういう感じがするのだろう。無条件の愛情を捧げる対象なのか、それとも、子どもよりいくらか他人としてすき間をつくって接してしまうのだろうか。わたしはもうひとりぐらい子どもを生む余力があるだろうか。わたしは事務机を前にして、さまざまな空想をしていた。
わたしは職場のひとにお茶を入れた。誰に教わったわけでもないのにわたしが入れるお茶はおいしいのだそうだ。お世辞に過ぎないと分かっていても、いやな気持ちはしない。わたしは自分の分をもって、机に向かう。出納ということばをたまに不思議に感じる。今月は余り、先月は足りなかった。家と同じだ。最近はちょっとだが貯金もできるようになった。子どもの学費がどれほど重くふりかかるのか自分には分からない。
鉛筆をけずって帳面に数字を書き込む。それをまた点検してもらう。点検がすむと銀行に向かう。きっと銀行の方も同じことをするのだろう。数字を獰猛な動物として畏敬し、さらに飼い馴らさなければいけない。入金したものが支払で減り、その隙間にわたしのお給料があった。わずかばかりのもの。山形が入れてくれるお金と、前の夫がくれていたお金の差はなかった。女性というのは依存から抜け出せないものであろうか。わたしにもし女の子がいたとしたら、どういう未来を提示できるのだろう。
音楽を習わすことは可能だろうか。きれいな華やかなドレスを着て発表会をする。大人になるにつれ料理も覚えてもらおう。だが、味覚は遺伝するのだろうか。わたしは答えをすでに知っていた。英雄と前の夫の好物はほとんどが似ていた。嗜好は変えられない。彼はその事実を知らないまま成長する。いつか、ふと不思議に感じたりするのだろうか。鏡に突然、自分の顔が映り込んでしまったように。
会社の机をきれいにして、全部のゴミ箱を空にしてから外に出た。にわか雨が降っている。しかし、間もなく止んだ。空に虹が出た。わたしは何度、虹を見ただろうか。一年に一度は見たことにしても、三十回もない。だが、そんなに少なくても虹の名前も忘れないし、大体どういう映像か、自分のこころが不思議とあたたかくなることなど知っている。わたしはしばらく佇んだまま空を見上げる。束の間の存在でしかないことも知っている。永久に虹という現象はあるけど、わたしが見ている虹はそのうち消える。山形の友だちはどうなのだろう。子ども時代の親友もよくよく考えれば虹みたいなものだった。あるいは蛍のようなものかもしれない。水たまりをよけて歩き出す。
彼の友人をひとりとして知らない。同じようにわたしの友人、過去のどこかで気付かないうちに葬り去られたひとびとも含めて、彼はひとりも会ったことがない。だが、突然、手紙がきた。彼の過去のある日が一枚の紙によって明瞭になる。
しかし、わたしは会うことができないのかもしれない。随分と病状が重いそうだ。その男性も両親がいなかった。完全にいないのか、育てるのを放棄したのかわたしには分からない。でも、分かったからといって何かが解決することもなく、子どもには同じ結果としてのしかかるのだろう。いや、のしかかった。
わたしも夫に捨てられたようなものだ。愛情があるものとして信頼していたのに、結論は断絶。捨て子。わたしは英雄をどこまでも守るだろう。せめても大人になるまでは。
彼は暗い、沈んだ顔をしている。自分の幼少時の環境をなかなか話したがらない。理由として口にすればするほど、忘れていたものが現実にもどってきてしまうと言った。お化けに実体を与えてしまう行為のようだ。いないと考えればいなく、話せば話すほどリアルなものとして現在にまで、未来を歪めてしまうほどの影響を及ぼしてしまう。ほんとうはお化けなどいないのかもしれないが、ひとりで自分を守ることしかしてこなかったならば、無意味だとしても揺れる白いカーテンを恐れてしまう。他人が説得して変更させる領域外のことだ。
時は一定のはずなのに遅くなったり、すすんだりする。じりじりと待ち侘びたり、あっという間に過ぎてしまう楽しい時間もある。ベッドで彼の到来を待つ病人には長い時間が流れていると予想される。痛みがあればなお酷だった。長引く痛み。彼はどれほどの悪事を働き、どれほど罰せられなければならない運命にあるのか。ほとんどわたしと同じぐらいの親切なことをして、同じぐらいの回数、悪いことをしたのだろう。普通の人間として。不公平の如実としたあらわれ。見離された病人。
彼はそこに行く。歓喜があるのだろうか。安堵だろうか。共通の過去を共有できたよろこびなのか。わたしがもし最後の日になったら、いったい誰に会いたいと思っているのだろう。ひとりとして浮かばない。母でも父でもなかった。わたしは死を忘れられることと同義語だと思っていた。だから、誰にも会う必要がない。その道中でわたしは徐々に死んでいるのだ。
わたしは勝手にひとの生死を決めている。委ねられる権限もまったくないのに。老衰というものがご褒美のように感じられる。わたしは自分のその地位を考える。英雄には子どもがいる。孫というのはどういう感じがするのだろう。無条件の愛情を捧げる対象なのか、それとも、子どもよりいくらか他人としてすき間をつくって接してしまうのだろうか。わたしはもうひとりぐらい子どもを生む余力があるだろうか。わたしは事務机を前にして、さまざまな空想をしていた。
わたしは職場のひとにお茶を入れた。誰に教わったわけでもないのにわたしが入れるお茶はおいしいのだそうだ。お世辞に過ぎないと分かっていても、いやな気持ちはしない。わたしは自分の分をもって、机に向かう。出納ということばをたまに不思議に感じる。今月は余り、先月は足りなかった。家と同じだ。最近はちょっとだが貯金もできるようになった。子どもの学費がどれほど重くふりかかるのか自分には分からない。
鉛筆をけずって帳面に数字を書き込む。それをまた点検してもらう。点検がすむと銀行に向かう。きっと銀行の方も同じことをするのだろう。数字を獰猛な動物として畏敬し、さらに飼い馴らさなければいけない。入金したものが支払で減り、その隙間にわたしのお給料があった。わずかばかりのもの。山形が入れてくれるお金と、前の夫がくれていたお金の差はなかった。女性というのは依存から抜け出せないものであろうか。わたしにもし女の子がいたとしたら、どういう未来を提示できるのだろう。
音楽を習わすことは可能だろうか。きれいな華やかなドレスを着て発表会をする。大人になるにつれ料理も覚えてもらおう。だが、味覚は遺伝するのだろうか。わたしは答えをすでに知っていた。英雄と前の夫の好物はほとんどが似ていた。嗜好は変えられない。彼はその事実を知らないまま成長する。いつか、ふと不思議に感じたりするのだろうか。鏡に突然、自分の顔が映り込んでしまったように。
会社の机をきれいにして、全部のゴミ箱を空にしてから外に出た。にわか雨が降っている。しかし、間もなく止んだ。空に虹が出た。わたしは何度、虹を見ただろうか。一年に一度は見たことにしても、三十回もない。だが、そんなに少なくても虹の名前も忘れないし、大体どういう映像か、自分のこころが不思議とあたたかくなることなど知っている。わたしはしばらく佇んだまま空を見上げる。束の間の存在でしかないことも知っている。永久に虹という現象はあるけど、わたしが見ている虹はそのうち消える。山形の友だちはどうなのだろう。子ども時代の親友もよくよく考えれば虹みたいなものだった。あるいは蛍のようなものかもしれない。水たまりをよけて歩き出す。
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