マックス・フォン・シドーが亡くなった。彼の代表作と言えば、『第七の封印』(57)『野いちご』(57)『処女の泉』(60)などのイングマール・ベルイマン作品が挙がるのだろうが、自分は、むしろアメリカ映画を筆頭とする、さまざまな“外国映画”での彼の方に魅力を感じる。
例えば、『偉大な生涯の物語』(65)のキリスト、『エクソシスト』(73)の神父、『コンドル』(75)の殺し屋、『さすらいの航海』(76)の船長、『マイノリティ・リポート』(02)の局長、といった具合に。だが、ベストワンを選ぶとなると、この映画になる。
『ペレ』(87)(1991.7.)

19世紀、スウェーデンからデンマークへと移住した少年ペレと年老いた父との厳しい生活を描く。監督はビレ・アウグスト。
この何とも切ない父と子の姿に、『どですかでん』(70)や『砂の器』(74)で描かれた、乞食や巡礼の父子の姿が重なって見えたのだが、この映画にはヨーロッパ的な因習や風景に裏打ちされた独特の人物描写があった。
普通は、これほどまでに救い難い哀れな話を映画にすれば、その悲惨さが強調されて、お涙頂戴的なものになってしまうことが多いのだが、この映画は違う。
マックス・フォン・シドー演じる情けない親父は、自分も息子ももっと幸せになりたいと願い、強がりながら、実行に移せない実に歯がゆい男なのだが、どこか、ずる賢くて、せこくて、まだ多少の色気も残っているところに、哀れさを超えたしたたかさやいじらしさを感じさせるので、こちらも素直に感情移入ができる。
その父とは対照的に、絶望的な状況の中でりりしく成長していく息子のペレの姿が、コントラストの妙を生む。だから、この2人がどんな苦境に立たされても、決して湿っぽくはならないし、むしろ2人の姿から温かさやしたたかさが感じられるのである。
それ故、ラストの、もう二度と会うことがないであろう、この父と子の別れのシーンにも、それぞれの役割を分かり合った男同士の別れ、あるいは父を越えていく息子の姿を見るような思いがして、すがすがしい気分で見終わることができるのだ。フォン・シドーはもちろん、ペレを演じた子役も見事にうまい。
原作では、この後ペレはアメリカに渡って革命指導者になるらしいのだが、この映画に関しては続編は要らない。なぜなら、たくましく大氷原を去っていくペレの姿に、われわれ受け手のそれぞれが、違った形の希望を夢見ればいいと思うからだ。