『天城越え』(83)(1983.5.9.自由ヶ丘劇場.併映は『時代屋の女房』)
14歳の家出少年(伊藤洋一)と偶然出会った娼婦(田中裕子)が、伊豆の天城峠を旅しているときに起きた殺人事件と、30年間、事件を追い続けた老刑事(渡瀬恒彦)の姿を描く。原作は松本清張の短編。先にNHKでもドラマ化された。
まず、恐ろしく完成度の高い映画という印象を受けた。言い換えるなら、初監督の三村晴彦が、助監督時代にため込んだ力を一気に吐き出した映画だとも言えるだろう。何しろ、加藤泰の下で20年以上も助監督をした後の監督第一作なのだから、力が入るのも当然だ。
ただ、その力加減は、最近の邦画にはあまり見られないようなもので、重量感がありながら、決して疲れを感じさせず、難解でもないという、いい感じのバランスが保たれていた。
松本清張の小説は、すでに何本も映画化され、特に『砂の器』(74)などは、原作を超えて、独自の世界を作り出すことに成功していた。
その『砂の器』が、原作にはなかった父と子の絆や宿命といったテーマを現出させたのと同様に、この映画も、原作ではそれほど色濃くは描かれていなかった、思春期の少年の心情や、女性に対する憧れと幻滅という、誰もが通過する人生の一季節を中心に描きながら、そこから生じた殺意や、やがて成人した少年の心に宿る過去への思慕と後悔というテーマを生み出していた。
また、冤罪を引きずる刑事と、大人になった少年(平幹二朗)の、年月を越えた罪の意識を描いて、時効に疑問を投げ掛けたりもするが、それはこの映画の直接的なテーマではなく、副産物のようなものだろう。この映画のテーマは、あくまでも失われた少年期へのノスタルジーであると思う。それを彩る『砂の器』に続く菅野光亮の音楽も、田中裕子も素晴らしかった。
【今の一言】この短編小説は、川端康成の『伊豆の踊子』への清張流の挑戦でもあったのだ。