『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』のウェス・アンダーソン監督がこの映画の「ライフ・レッスン」に影響を受けたと語っていた。
『ニューヨーク・ストーリー』(89)(1989.9.24.みゆき座)
ニューヨークへの逆説的愛情表現
マーティン・スコセッシ、フランシス・フォード・コッポラ、ウディ・アレン。過去にニューヨークを描いてきた3人の監督が、ニューヨークを舞台にした競作オムニバス映画を撮ったということで、興味深いものがあったのだが、残念ながら、本領を発揮したのは、この手のスケッチドラマがうまいアレンだけで、スコセッシとコッポラには不満が残った。
まずは、売れっ子画家(ニック・ノルティ)と恋人の若い画家(ロザンナ・アークエット)との微妙な関係を描いたスコセッシの「ライフ・レッスン」。
いきなりかかったプロコル・ハルムの「青い影」と、ノルティのデブぶりに面食らい、ネストール・アルメンダリスとも思えぬ移動撮影の多さに、何だかブライアン・デ・パルマの映画を見ているような気分になった。これが、単純な男女のメロドラマには不釣り合いで、ラストの落ちに行き着くまでには我慢が必要なほどだった。
続いて、高級ホテルに住むセレブな少女を描いたコッポラの「ゾイのいない人生」。ニューヨークの上流社会を少女の目を通して寓話的に描いているのだが、ニューヨークの持つ狂気や異常さが際立ってしまい、かわいらしいストーリーになるはずが、残念ながらそうは映らなかった。
まあ、その奥にはコッポラがこだわる家族の絆というテーマがあったのだろうが…。『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)や『コットンクラブ』(84)といった惜しい映画と重なるところがあった。
と、前2作が今一つだったのに比べると、口うるさい母親の存在に悩む弁護士(アレン)を描いた「エディプス・コンプレックス」は、最も現実離れをした話であるにも関わらず、いつもながらのくさいけれどうまい作劇が目立った。
またしても、アレン独特のユダヤ人としてのコンプレックスが描かれているのだが、見ているこちらも、彼の手法に慣れたためか、あるいは彼の映画作りがさらにうまくなったからか、以前ほど嫌らしさは感じなくなっている。
さて、出来不出来の波はあるが、この3作に共通するのは、もはや普通の神経では生きられなくなったニューヨークに対する三者三葉の逆説的な愛情表現であり、それぞれの話の登場人物が、多少のデフォルメはあるものの、3人の監督たちの分身として見えてくるような面白さがあった。
例えば、スコセッシは女とくっついたり離れたりを繰り返し、コッポラはファミリーにこだわり、アレンはコンプレックスの塊といった具合に。
そう考えると、最も違和感のなかったアレンが、ニューヨーカーの代表といえるのかもしれない。こういう映画を見せられると、東京がまだまだ平和な街に見えてくるのを喜ぶべきなのかと思う。