『エレファント・マン』(80)(1981.5.30.有楽座)
慈善と偽善は紙一重
この映画の予告編を見た時からすでに魅せられていたのだが、その期待通りの素晴らしい映画だった。ジョン・メリック(ジョン・ハート)という19世紀のロンドンに実在し、その奇形ぶりから「エレファント・マン」と呼ばれた人物を題材にしている。
メリックの奇異な見た目故に、周囲の人間たちが彼に抱く優越感や浮かべる嘲笑、彼を利用する醜さがあらわになる。一方、メリックは見た目は醜いが、崇高さや優しさを持っているという矛盾がある。これらを通して、人間本来の姿とは一体何なのかを問い掛ける。
全編、胸が締め付けられるような、何とも言えない悲しさに貫かれた映画だが、妙にじめじめしていないのはメリックを一人の人間として描き切ったからだろう。
メリックは「私はエレファントではない。アニマルでもない。人間なんだ」と叫ぶ。彼のこの叫びがこの映画を救っている。周りがどう扱おうが、彼は最後まで人間として生きたのだということ。
一方、メリックを見世物として引っ張り回すバイツ(フレディ・ジョーンズ)も、メリックに優越感を持って接するケンドール夫人(アン・バンクロフト)も、警備員や病院の人々も、皆悲しいほど人間くさい。そして恐らく自分も彼らと同類なのだ。メリックの良き理解者となるフレディ医師(アンソニー・ホプキンス)にしても、偽善者と言えなくもない。それは彼が「私は善い人間なのか、それとも悪い人間なのか」と悩む場面にも象徴される。
この映画のテーマは黒澤明の『生きる』(52)と似ていなくもない。どちらも人間の尊さ、崇高さ、醜さ、ずるさという両極を見せながら、生きることや人間のあるべき姿を問い掛けてくるところがある。メリックをバイツの手下から逃がしてやる小人が「本当に幸せがほしいのは俺たちなんだ」と言うシーンも印象に残る。
ジョン・ハートはもちろん、アンソニー・ホプキンス、アン・バンクロフト、ジョン・ギールグッド、ウェンディ・ヒラー、フレディ・ジョーンズがそれぞれ見事な演技を見せる。
モノクロ画面の魅力を最大限に生かしたフレディ・フランシスのカメラワーク、フェイドインとフェイドアウトを使ってそれぞれのシーンに余韻を残す効果も素晴らしい。監督のデビッド・リンチはまだ33歳とのこと。その若さにしてこの映画を撮ったのはお見事。この映画のプロデューサーにメル・ブルックスが名を連ねていたのには驚いた。
当時のテレビ予告編にはなぜか『フィスト』(78)の音楽が使われていた。
https://www.youtube.com/watch?v=4QrZoyBTDWs
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