【ほぼ週刊映画コラム】(2013.11.16.)
名優デ・ニーロのセルフパロディーも楽しい『マラヴィータ』
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/60105
デ・ニーロ『マラヴィータ』を引っ提げて来日(2013.10.22.)
https://tvfan.kyodo.co.jp/news/57419
【ほぼ週刊映画コラム】(2013.11.16.)
名優デ・ニーロのセルフパロディーも楽しい『マラヴィータ』
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/60105
デ・ニーロ『マラヴィータ』を引っ提げて来日(2013.10.22.)
https://tvfan.kyodo.co.jp/news/57419
『情婦』(57)(1986.2.4.銀座文化)
未亡人殺害の容疑者レナード(タイロン・パワー)は、老弁護士ウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)に弁護を依頼する。だが、レナードの妻クリスティーネ(マレーネ・ディートリッヒ)が証人として出頭し、驚きの証言を行う。
先にテレビでドラマ版の「検察側の証人」を見てしまったので、話の大筋は分かっているのに、さすがはワイルダー。ストーリーを知ろうが知るまいが(もちろんこの映画の場合は知らないに越したことはないのだが…)、最後まで飽きることなく見せられてしまった。
何より素晴らしいのは、ロートン、ディートリッヒ、パワー、エルサ・ランチェスターという俳優陣。ドラマ版でも、ラルフ・リチャードソン、ダイアナ・リグ、ボー・ブリッジス、デボラ・カーといった芸達者が演じていたが、どう見てもこの映画の方が上である。役者を生かすワイルダーの演出のうまさがここでも証明される。
加えて、原作や戯曲にはないシーンを作ってストーリーに膨らみを持たせ、ロートン演じる弁護士の日々の生活、ランチェスター演じる看護婦とのやり取りなどの、細かい描写を積み重ね、葉巻や薬、片眼鏡といった小道具を巧みに使いこなす。まさに名人芸である。
チャールズ・ロートンのプロフィール↓
タイロン・パワーのプロフィール↓
ビリー・ワイルダーのプロフィール
パンフレット(58・松竹事業部(MARUNOUCHI SHOCHIKU NO.11))の主な内容
お願い!/解説/巧緻な演出になるクリスティの法廷ドラマ(植草甚一)/ものがたり/この映画の御理解をお助けするために/オールド・ベイリー(中央刑事裁判所)について/アガサ・クリステイ素描/四つの素晴らしい魅力(南部圭之助)/マレーネ・デイトリッヒ、タイロン・パワー、チャールス・ロートン、ビリイ・ワイルダー(監督)/「情婦」に寄せられた著名人のアンケート
『古都』(80)(1980.12.17.東洋現像所)
山口百恵が、京呉服問屋の一人娘・千重子と、北山杉の村娘・苗子という一人二役を演じるこの映画は、オープニングから「あー、市川崑の映画だ」と感じさせられ、その後も、ひたすら耽美的で、凝った映像が全編を貫ぬく。
川端康成の原作は未読なので、どこまでが原作通りなのかは分からないが、例えば、姉妹の北山杉での雨宿りや、一つの布団で抱き合って寝るシーンなどは、どちらかといえば、谷崎潤一郎の世界という感じがした。
また、千重子に失恋し、「僕はやっぱり祇園祭りの稚児さんや。それでええんや…」と自嘲する北詰友樹演じる次男に感情移入しながらも、男はやはり沖雅也が演じた長男のようでなくてはいかんのだと思ったりもした。
そして、全編を見て感じたのは、「やはり、市川崑という人は並大抵の監督ではない。百恵・友和映画を一級品にしてしまうのだから」ということだった。
百恵・友和映画を見るのは、『伊豆の踊子』(74)『泥だらけの純情』(77)に続いて3本目なので、断定はできないが、恐らくは、この映画が最高作なのではないか、と感じた。また、千重子の両親役の實川延若と岸惠子の、見事な間の取り方とセリフ回しが絶品で、この映画の質を大いに高めている。
【今の一言】市川崑にとって、この映画は『細雪』(83)の前哨戦的なものになったのではないかと思う。
山口百恵と三浦友和が初共演した、川端康成原作、西河克己監督の『伊豆の踊子』(74)は、併映のSF映画『エスパイ』のおまけという感じで見た。
どちらかと言えば、自分は桜田淳子派だったので、山口百恵にはあまり思い入れがなかったのだ。それもあってか、百恵・友和映画は計12作もあるのだが、原作・藤原審爾・富本壮吉監督の『泥だらけの純情』(77)、原作・高橋三千綱、藤田敏八監督の『天使を誘惑』(79)、そして、百恵の引退記念映画となった、原作・川端康成、市川崑監督の『古都』(80)しか見ていない。
『天使を誘惑』(79)(1982.6.12.)
先に見た『スローなブギにしてくれ』(81)同様、またしても冴えないビンパチ(藤田敏八)を見ることになった。どうも、中高年の男にこだわり過ぎる気がするのだ。
彼の考えは、若いカップルに中高年の男を絡ませ、世代間の違いを背景にして若者像を描く、というところにあるのだろうが、『スローなブギにしてくれ』の山崎努と室田日出男、この映画の津川雅彦と大友柳太郎もそうだが、主役たるべき若者たちよりも、むしろ彼らの方に比重が置かれているように見える。
若者たちとの間で右往左往しながら、生き場所を探す盛りを過ぎた男たち。彼らの嫌らしさや悲哀がにじみ出る半面、主役であるはずの若者たちの姿が、どうしても中途半端なものに映ってしまうのだ。
もはや、藤田敏八には若者は描けないのだろうか。だとすれば、彼は映画の中の中高年の男たちに、自らの迷いや戸惑いを反映させているのかもしれないと思った。
ところで、自分にとっての山口百恵はアイドルではなかった。否、考えてみれば、自分は今まで心底熱中できるようなアイドルは持ち得なかった。例えば、ちょっと目立つ新人女優なり歌手が現れれば、「なかなかいいじゃないか」などと思ったりはするのだが、いざ、彼女たちが売れて人気者になると、そこで熱は冷めてしまう。
独占欲が強いのか、所詮は違う世界の人間だとしらけてしまうからなのか…。一度ぐらい、我を忘れて夢中になれるアイドルの存在があった方が幸せなのでは、とは思うのだが…。
【今の一言】と、40年近く前の、二十歳そこそこの自分は書いている。今、読み返すと、何だか別人のように感じる。で、今の自分は、あの頃のビンパチさんよりも年上になったので、改めてこの映画を見たら、共感したり、身につまされたりするのかもしれない。
1932(昭和7)年に起きた五・一五事件とチャップリンの来日、という史実に、フィクションを入れ込んだサスペンス小説。筆者は『超高速!参勤交代』(14)などの脚本家でもある。
チャップリンの命を狙う軍人と、チャップリンに弟子入り志願の役者を主人公に、実在の日本人秘書・高野虎市を影のヒーローとして描いているが、フィクションの部分の描写や人物の設定が稚拙で、何だかライトノベルを読んでいるような気にさせられる。
ほかに、チャップリンと五・一五事件について描いた小説には、『チャップリンを撃て』(日下圭介)、『5月十五日のチャップリン』(川田武)、『天切り松 闇がたり5 ライムライト』(浅田次郎)などがある。
この題材は、道具立てが面白く、しかもフィクションの入り込める余地があるので、作家としては「一度は描いてみたい」という気になるのかもしれないが、どれもフィクションの部分が弱くて、今のところ成功作はない。
『天切り松 闇がたり 5 ライムライト』(浅田次郎)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/2447ae8e4ad358b97801062bb3128ae9
『ミスティック・リバー』(03)
ミスティック・リバーが流れるボストン近郊で暮らすジミー、ショーン、デイブ。あるときデイブが車で連れ去られ、性的虐待を受ける。
それから25年後、ジミー(ショーン・ペン)の娘が殺害された夜、デイブ(ティム・ロビンス)は血まみれで帰宅。刑事になったショーン(ケビン・ベーコン)が事件を担当することになり、疎遠になっていた幼なじみの3人の男の運命が再び交差する。
クリント・イーストウッド監督が、現在と過去を交錯させながら描いた重厚なミステリー。アカデミー賞ではペンが主演男優賞、ロビンスが助演男優賞をそれぞれ獲得したが、個人的にはベーコンの抑えた演技がいいと思う。
同僚刑事役のローレンス・フィッシュバーン、デイブの妻役のマーシャ・ゲイ・ハーデン、ジミーの妻役のローラ・リニーと脇役も好演を見せ、酒屋の親父役でイーライ・ウォラックも顔を出す。
久しぶりにテレビで見たのだが、今回は、冒頭、ショーンの家で、ショーンの父とジミーの父が「今日の先発は(ルイス・)ティアント」「(カールトン・)フィスクが…」と話す場面が印象に残った。ティアントはキューバ出身で変則モーションが印象的な名投手、フィスクは強打の捕手。共に1970年代にボストン・レッドソックスで活躍した選手だ。
また、大人になったデイブはレッドソックスのキャップをかぶっていて、息子に野球を教えている。こんな会話や描写から、さりげなく舞台がボストンであることや、いつの時代かを知らせる効果がある。
例えば、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(97)でも、75年のワールドシリーズ第6戦の延長12回裏にフィスクが放ったサヨナラホームランのことが語られる。アメリカ映画にはこうした手法がよく見られるのだ。日本でもこれは使える手だと思うが、残念ながらそうした映画は見当たらない。
『デイライト』(96)(1998.4.20.)
映画好きのカメラマンの友人と電話で話していた際に、未見のこの映画のことが話題に上った。友人いわく「昔のパニック映画をほうふつとさせる群像劇だったけど、傑作になりそこなった感じがした」とのことだった。公開時にもそんな内容の記事を目にしていたことを思い出し、ちょっと気になったもので、レンタルしてきた。
不意のトンネル事故、そこに閉じ込められたさまざまな生存者たち、単身彼らの救出に向かうすねに傷持つスタローン…。確かに昔のパニック映画的なゾクゾクするような出だしなのだが、いかんせん、後が続かない。
かつての『ポセイドン・アドベンチャー』(72)や『タワーリング・インフェルノ』(74)といった傑作と比べてしまってはかわいそうだが、個々人のドラマがあまりにも薄くて、集団劇としての面白さが中途半端になり、地上とトンネル内とのやり取りの緊迫感も弱いのだ。
そして、最後はお約束通りに、スタローンのスーパーマン的な一人舞台を見せられるとなるとさすがにしらけるのだが、こういう映画は好きなので、過去の映画に学びながら、新たな形のものを作ろうとした努力だけは認めたい気もする。
【今の一言】この映画のことを教えてくれた友人は数年前に亡くなった。6つばかり年上の、兄貴のような存在の人だったので、映画に限らず、いろいろなことを教えてもらった。今思えば、もっとたくさん話をするべきだった、と悔やまれてならない。