ゴールデンウイークにはありそうなことが現実に起こってしまった。明日からガソリンが上がるというので安いガソリンスタンドは、道路に車があふれるばかりに込んでた。その車を避けて、左車線の車は、右車線にはみ出して移動しようとしていた。僕は、右車線を走っていた。一台目が右車線にはみ出してきたので、それはやり過ごして通りすぎようとしたら、次の車が確認もせず、右車線にはみ出してきてぼくのくるまの後輪部分にぶつかってきた。ドンと衝撃があったので、車を路肩に寄せて、当てられたところを見てたら、まぁ、自分も当てたり当てられたりは、経験があるので、相手も車を止めて、下りてきて「すみません」の一言があっていいもんだと思っていたら、自分が、車のキズを見てる間にそのまま行ってしまったよ。何にもする間がなかった。若い女で、グレーの車でぐらいしか覚えてないよ。自分のしたことぐらい責任もって対処しろよ。誰も、過ちを責めたりしないからさ。こんな基本的なことが出来ない人間が増えている。自分の知人にも若干1名、似たようなのがいますけどね。彼らに共通してるのは、反省ない。後悔ない。事後処理できない。ないない3拍子。全く、嫌になりますね。可哀相な人たちだ。
同窓生で、美人で有名だったベルリンの話が出た。当時から僕らの憧れの的だった。もう何十年もあってないけど皆、気にはかけていたと思う。どうしてるのかなと。でも、雲の上の存在だったから誰も露骨に尋ねたりはしない暗黙の了解があった。だからしばらくは、誰もその確かな消息はしらなかった。つまり、自分達のレベルでは、彼女の影すら踏むことができなかった。でも、心に仕舞った憧れは、決して朽ちることなくいつでもとりだせるようにパーシャル保冷されていた。そしたら、時間はたったけどついに自分達にも彼女の今が、伝わった。偶然だけど。風の便りによれば、恵まれた家庭を築き悠悠自適の人生を送っているそうだ。僕の胸には、幸せそうな彼女の笑顔が浮かんでは消えた。美人で、賢くて、性格が良くて、運動神経抜群で、お金持ち。彼女なら、このうちのたった一つでもあれば、十分頭角を表わす素質があるのに、何故神は、彼女にだけ、2ぶつ以上いや5ぶつまで与えたんだろうか。自分達のように、1ぶつも貰ってない者たちは「彼女は、別格さ」ですぐ納得してしまうのだが、さすがに、他の同級生を見るにつけ格差を感じるのを禁じえなかった。
同級生が水彩画の展覧会を開いているのでちょっと冷やかしに行ってみた。線画に淡い水彩絵の具で色つけて田舎の風景を描いているのが懐かしかった。彼女の父親が、地元じゃ有名な画家だったから、かえるの子は蛙なのかな。でも人の線てどうしてこんなにちがうのかしら。技巧ではなくてなんていったらいいのか、線そのものに人生観がでているというか、強くて優しい父親の線の前では娘の甘えた線は、かすんで見えた。娘曰く、「戦争に行ってないから。」何だか、この一言で自分達の世界は、いつもすまされる。そうだよな、俺達は、戦争を知らない子供たちと呼ばれた世代だから、線も独り善がりで、ドンだけ気張っても甘いんだ。それはそれでいいかもしれないけど、彼らの、線ほど人をひきつけない。相田みつおさんと同じように自分達が言ったとしても相手の心に深く届かないのと同じかな。「花がある、花を支える枝がある。枝を支える幹がある。幹を支える根っこがある。根っこは、見えないんだよ」自分達の心に広がるものをこのように自分達の言葉で、どうして素直に伝えられないんだろう俺達は。・・・とそんなことを考えながら、中学時代に帰って同級生と四方山話を繰り広げるフェンネル氏でした。
幕末、小説家は、見てきたようなうそを書き、読者は、自分の思い描くウソにウソを重ね夢見る。幕末と言えば、一方が新撰組、一方が、薩長土肥だろうか。主義主張のために命のやり取りをするのだから悲惨な時代に違いない。それでも青年は、夢を信じ、時代を揺り動かしていった。もし、浦賀に来た船が、黒船でなく、ダダの帆船であったとしたら、時代は、そんなに急には動かなかっただろう。次元の違う武器や道具、食い物を見て、はじめて人は目覚めるのだから。アドレナリンが、沸沸と湧いて出るような時代で、青年が夢想したものは、明治だったか、昭和だったか。平成ではなかったと思う。「無言展」の青年が、もし、甦ったとしたら今を見て、平和だと喜ぶだろうか。芸だと言うわりになんの芸もなく笑いというわりに、心底笑えないお笑いタレントを飼っているような時代をありがたいよというのだろうか。こんな時代にするために命をかけたのではないといわれそうな気がする。
木曜日は、市場に出かけジャム用の苺を買ってきた。市の立つ日、天気もいいし、ぶらぶらとしながら市場に出かけるのもいいかなと思っていってみた。たくさんお店がでて、人が出て、忙しくしている店もあれば、店番しながら居眠りしているおばさんもいてみんなそれぞれ市を楽しんでいるのがおもしろい。売らなきゃと思ってるおっさんや、どうでもえいわのおばさんや、お客と井戸端会議を始めてしまったおばさんとか、多彩です。いろいろ巡って、観察すると、やはり人気店はあるもので、同じ物を売っていても人だかりが違うんです。「もういたみやすい時季になったから早く食べてよ」「いいよ、ジャムにするから」なんて、言葉を交わしながら、小粒ではあったけど1パック150円の安い苺を2パック買ってきた。途中で、パン屋さんによって、ポケージョと桜餅アンパンとメロンパンを買って、帰り道、あんまり新緑がきれいなので、公園のベンチへ腰掛け、新緑をみながら、メロンパンをたべた。家に帰ると、パンプが、アンパンマンを背負っていそいそと、子守りをしているようだった。あ~あ、春ですね。
Tシャツの上にオーバーオールなんか着て手に工具箱を持って少し背中を丸めて歩いていく。「サヴァ?」「コムシコムサ」か「パマル」とかナントか言いながらジャンギャバン気取りでさ。今日は、リペアマン修理工さ。これから、水道を直すんだ。昨夜、パンプが、引っこ抜いたから。とても引っこ抜けそうな代物ではないんだけどぬいてしまっていた。勿論、家中水浸しさ。今日は天気も良かったしナントかなるだろうと一人で直しだしたんだ。ところが、力任せにしてるもんだから、ジョイントは壊れ、パッキンは飛び大変でした。その前にもう一つ別件をやってくれてまして米を2キロくらいお湯につけてくれまして、それの対応にも大変したんです。もう炊く以外ないと炊飯器はもとよりお鍋も使って炊きました。それで、今日のお弁当は、ごはん、ご飯、御飯の3段重ねで自分のイメージする修理工とピタットあってそれなりに楽しんでしまいました。どんなことがあっても、それなりに楽しむ、これが、ボケ老人と暮らすコツかなと自分自身に言い聞かせるフェンネル氏でした。
海辺のカフカの街に住民の審判が下ったね。核は嫌だと。7対3まであらくとは思わなかったけど、核はそれほどまでに嫌なんだ皆は。前の町長は、人心がつかめなかったんだね。金がなくても心は錦。このことがわからなかったんだろう。それほどまでにこの街は貧乏だったのだ。貧しさに負けた、いえ、世間に負けた。町長の席を追われて、それでも、私は正しいと信じていくんだ。勝った方も核については、全くの無知。どれくらいしっているのだろう?とにかく、死ぬのやだもんねとばかりの感覚しかないのが実情だろう。カフカは、この町に降り立って何を思ったのだろう。やはり、いやと思うのは、農業が出来ない、漁業が、出来ない可能性があるものだから嫌なんだと思うよ。人が帰る場所って、土の中か、水の中だから、いざはいろうとしたら、核が、先にはいってたなんてぞっとするぜ。だから、嫌だといっている。これは、金にかえれん心情だ。このことを理解した上で事に当たらないとタブーにしらないうちに踏み入れてしまうんだ。くわばらくわばらとフェンネル氏は、思いました。
空に蝶の群れが、浮かんでいるようにハナミズキがさいている。白いアメリカミズキもとってもきれい。気候は、もう5月の陽気となっている。そろそろ自転車に乗って遠くまで出かけなくちゃ。50キロ60キロと足を伸ばしてみようかな。モンクと初鰹をあのフィッシャーマンズワーフに食べに行こうと約束してるけどモンクは、自転車じゃ無理だよな。マウンテンしかないし、バジルに言っても「あそこまで?」と言われるに決まっている。でも、陽気がよくなるとのんびりペダル漕いで河っ淵なんか走ってみたいな。自転車は、どんなに細い道でも入っていけるから、車では味あえない旅ができるんだ。住んでいる町なのにこんな景色もあったのって発見の連続。きれいな花や、虫を見つけたらその時点でとまって写真撮影もできるし、自転車仲間に出会ってのあいさつとかもうれしい。さぁ、ひまな時間を見つけて、自転車を整備しておこう。いつでも乗れるようにね。ロードが2台
マウンテンが1台、シクロクロスが1台どれでも気に入ったときにすぐ乗れるように準備しなくては、ゴールデンウィークは自転車だね。と思うフェンネル氏でした。
マウンテンが1台、シクロクロスが1台どれでも気に入ったときにすぐ乗れるように準備しなくては、ゴールデンウィークは自転車だね。と思うフェンネル氏でした。
青森では、まだ、桜は蕾だって。もうここでは新緑の季節を迎えようといてるのに。でも、1本だけまだまだ楽しませてくれる八重桜の木がある。台風で頭部を吹き飛ばされた老木だけど、健気に咲いている。自分達は、この桜の一番咲き誇ったところを知っているからまた、感慨もひとしおだ。ぼちぼちとあせらずゆっくりと咲いてねと声かけたくなる。桜だってこんなに頑張っているのに世の中、引きこもりが言われたと思ってたら、今度は、立てこもりだって。花の咲かない人生。花の咲く人生。それぞれなのだろうけど花を咲かす努力を止めない人生にこの老木を見ていると惹かれます。散る桜残る桜も散る桜ではありますが、最後まで自分の命と責を全うする姿に何か若いときと違ってすがすがしいものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。パンプもパンプなりに一所懸命花を咲かしつづけてます。ボケの花ではありますが、それはそれで、また味わい深いものがあります。大変ですけどね。
武士道に背くまじきこと。理想に燃えて旗揚げした新撰組が、鳥羽伏見でこれからは、剣の時代じゃないと戦に負けて思ったとか。それでも、剣が好きな日本人。そして、価値観は、武士道。人に、恨みつらみは、数々あれど、彼らに、反省は求めず、己を研鑚して、高めていくことを旨とする。これが、自分達が教えられてきた、共通の価値感だった。アメリカで、銃をキャンパスの中で乱射して32人もの犠牲者をだしたというニュースを聞くに連れ、日本は、銃が簡単に手に入らなくて良かったと思った。犯人は、韓国人だけど、アメリカ国籍を有するアメリカ人だ。銃文化の中で育ったアメリカ人だ。銃は、たいした訓練もなく誰でも簡単に撃てるから、優れた武器でありアメリカ人の精神の拠り所なのだろうか。今、坂本竜馬の暗殺のシーンを読んでいて思うのだけど、もし、剣ではなく日本が銃社会なら竜馬なんて当時としては、背が高い男だったから、とっくに狙撃されていたでしょう。剣は、誰でも持っているだけで人は斬れません。それだけでも文化と思想が違う。そこに日本人独特の美意識がからんで自己研鑽の方向へと進んでゆきます。銃は、破壊力が大きい分武器としての役割が、豊富にあるのでしょう。そして、自己より他者へ向かう思考を生んだのでしょうか。今回の事件は、考えさせられる事件でしたとフェンネル氏は思いました。