月が出て星が瞬ききれいなきれいな夜空。秋の愉しみは夜、空を見上げること。星を見ていると「もう百年たったのか」と思えて自分の時空が一瞬分からなくなる。
本当に、自分は今を生きているんだろうか。あの星の中へ溶けていきそうで自分の存在感なんかまるで感じられない。ロシアに舞い降りたり、古代へ飛んだり、ナポレオンの前を走ったり、僕は、星になって夜空を走っている。漱石の「夢十夜」のように僕もここに座って100年待とうかな。誰を?内緒・・・。本当にまた逢えるのかな。誰に?ナイショ。山で、夜、ライトを自分に当てて霧の中に大男の影を作って遊んだことをふと思い出して夜空に向かって両手を広げ大男のまねをして星に影を作っていく。そろそろ寒くなってきたね・・・と自分の小さな影を踏みながら家路に着くとき急に現実に帰っていくのを感じる。ほんのちょっとの宇宙旅行さ。とぶつぶつ言いながら僕の「夢十夜」は終わっていく。
本当に、自分は今を生きているんだろうか。あの星の中へ溶けていきそうで自分の存在感なんかまるで感じられない。ロシアに舞い降りたり、古代へ飛んだり、ナポレオンの前を走ったり、僕は、星になって夜空を走っている。漱石の「夢十夜」のように僕もここに座って100年待とうかな。誰を?内緒・・・。本当にまた逢えるのかな。誰に?ナイショ。山で、夜、ライトを自分に当てて霧の中に大男の影を作って遊んだことをふと思い出して夜空に向かって両手を広げ大男のまねをして星に影を作っていく。そろそろ寒くなってきたね・・・と自分の小さな影を踏みながら家路に着くとき急に現実に帰っていくのを感じる。ほんのちょっとの宇宙旅行さ。とぶつぶつ言いながら僕の「夢十夜」は終わっていく。
賑やかなという意味ではなく、猫や犬と暮らしていると暮らしぶりにゆとりができると言うか気持が伸びやかになるというか少々のことは気にしないというか(これは、昔からだけど)犬は、つながれているからしかたがないけど、猫が帰りを待ってお迎えしてくれるのは、初めて知った。それも、ウルーやフィガロだけでなくオランジュやノワールまで。それぞれに順番があって先ずは、オランジュが門の外で出迎えてくれて、玄関の戸のところではウルーが、その奥からフィガロが。ランディとマルディに挨拶に行って帰ってくると屋根からノワールが飛び降りてくる。「キミ達は、ハチか」とかいいながらも待っててくれるって妙にうれしいんだなこれが。ビートルズのハードデイズナイトは、可愛い奥さんだったけど妙に生々しくてピンとこなかった。犬や猫と思えば、まだ納得できるかな。今、よく、ジョーンバエズが歌う「エリノアリグビー」を聞いているけどこれが意外といいんだ。声に合ってるというか心地よい。ジョーンバエズが見出したのがアンマーグレットというからこの二人の接点も不思議だね。今では、70近いのかな?アンマーグレットは、エルヴィスとの映画が最高だったね。輝いていた。シンシナティキッド、愛の狩人、それと、もっと年取ってからのを最後に見たような気がする「エッ、あれがそうだった?」みたいな感じで、記憶が錯綜している。思い出そうとしているとウルーが膝に乗ってきてフィガロが手を伸ばしてきた。犬も猫も人を癒しにくるんだとそう思う。
献血をしました。400ccをプレゼント。「なに400cc、それが何だってんだい」と言うのは、昔風。いまなら。「400cc情けないこと言いな!もっととっちょきや」というのかな。前は、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」のパロディ。後のは地元のスーパーのCMのパロディ。前回はいさんで会場に行ったんだけどウルーに引っ掻かれていたから3ヶ月は駄目だと言われてスゴスゴト帰ってきた。今回は、引っ掻かれていない。早速手続きをして献血をした。ほんの少し社会のお役に立ったみたいで気持ちいい。どうせなら肩の血を採ってもらいたかったかな。肩こりがすっきりするのになと馬鹿なこと考えていたら小さなビラをくれて「もう関係ないでしょうけど、エイズやなんかにかかっていたら・・・」誰がもうやネン?・・・確かにそうだけど・・・淋しくもありわずらわしくないもあり・・・やはり自然体がいいの・・・だ。・・とひとり納得する。年とるということは、ある意味さみしく、ある意味自由なんだ。若い時も何かを犠牲にして何かを得るんだから同じことだけど年とってからの方が自由さを感じるね。この自由さって若い時に求めた自由という概念ではなくもっと飄々としたもんだけどね。献血が終わってsoyjoyとティッシュと飴と何故か歯磨きを貰って帰ってきた。帰りにスーパーによって昨日気になってた「pepe le moko」のDVDを買ってきた。なんと480円だった。
夕方って随分と暗くなった。その夕方に犬を連れていつもの公園に散歩に行くと多分、英語の教師として日本に来てるグループなんでしょう。白人と黄色人とが10このくらい中で。夏は良く見かけたんだけど秋には久しぶりだ。それも、もうすっかり辺りは暮れてきている中で楽しそうに投げ合っている。お互いにリストライトをつかあってそれを目掛けて飛ばしている。暗い中で色とりどりの光が輝いて動いている。それを見た時、あっ、発想が違うんだ。行動人と定着人では基本が違うんだとその時確信した。遊牧民と農耕民 やはり遊びの中でも違うんだ。と痛く感心した。日本人のグループがうす暗い公園でフリスビーをやるとすればなるべく自分たちの環境は変えないようにフリスビーを蛍光にするよね。つまり動けないものを変える。こんな発想じゃないかな。彼らは動くものは変化するものと言う発想でどんどん自分たちの状態を変えていく。文化の違いだね。グランドの外に飛び出てきてソーサーを取って投げ入れてやると「ありがとう」とあまりうまくない日本語でいった。ちょうど「pepe le moko」のこと思い出していたから(さっき寄ったスーパーで980円でDVDを売ってたんだ)「non rien」とフランス語で言ってしまった。キョトンとしてた。アメリカ人なんだろう。ウエルカムって言ってやったら話しかけてきただろうに残念。
江國香織さんの「デューク」という小編を読んだ。このひとのテイストが好きというか感性が近いと言うか合うというかなんなんだろう。だいたい基本的には、自分より年下の人が書いた本は読まないことにしてるんだけどこのひとのは、何故か読むというか短編集に入っていてこれいいなと思ったら彼女のだったと言う感じ。もうギラギラとした感覚はなくさわやかなものに心誘われるようになったからかな。違うな。若い時からこのテイスト好きだったもの。一言でいうなら「ジェームスディーン」かな。と、あれやこれや思い浮かべて「パンプルムース」を見つけた時の静かにジワット来る喜びを思い起こしていた。でも追いかけてまでは読まない。そんなこと彼女は喜ばないだろうからと勝手に決めている。デュークと言うのは、死んだ犬の名前なんだけどね。それで、立派なラブストーリーなの。短い文章だからワンシーンワンシーンがちひろさんの絵のように浮かんでくる。デュークは、プーリー種という牧羊犬。21歳の女性が飼っていた犬。不思議な少年との出会い。もうこれだけで心が潤ってくる
永遠のという言葉が久しぶりに自分の傍らに座っている。
永遠のという言葉が久しぶりに自分の傍らに座っている。
タイトルだけ見て興味を引かれたから坂東真砂子さんの「見知らぬ町」とキャロリンマックヴィッカーエドワーズさんの「月の光の中で」という本を借りてきた。偶然にも2冊とも一言で言えば「天地創造」に関する神話民話っぽいスタイルで表現は違うけど相通じるものがあった。このタイプが読みたい心境だったんだろう。こんな時、気持ちがいつもより優しい。猫に違う餌買って行こうかなとか犬にも買って行こうと思うから。優しいといってもこの程度かなとも思うけど。そうやってニコニコと家に帰って犬を連れて散歩に出かけ帰ってくると近所の僕より年下だからお姐さんそうおばさんじゃない人が自転車で寄ってきて「うちもね、保健所の譲渡会で犬貰ってきたの。よろしくね」だって。うれしくなってしまう。その人んちは、近所でもお金持ちでねどんなに高い血統書付の犬だって飼えるのに捨てられた犬を拾ってあげるなんてと思うとナンだか自分が犬の役に立ったようで誇らしく思った。「動物愛護の人が連れてきてね・・・」なんてちょっとスノブじゃありません?こういうことはね、何十万も出して買ってくる犬よりカッコいいんだよと思わせることが僕の作戦だったから、まず一人のハートを射抜き一匹の犬を救った。この輪が広がって少しでも犬猫が殺されないようになればいい。こんなニュアンスの物語がこの2冊の本にあるんだ。西洋と東洋の才人がそれぞれのアプローチでほんわかと大事なことを伝えてくれる。
今年の紅葉は思いのほか早かった。いつもなら誰よりも早く紅葉を見つけているんだけど今年は、出遅れた。山は、錦繍壮麗という記事が新聞に踊った。しまった。昨日のうちに出かけるべきだった。仕方がないのでちょっと低い目の山に出かけた。ここでは、まだ紅葉ははじまっていないだろうとタカをくくっていたんだけどトンネルを抜けると黄色と赤の世界だった。ここでは、わら山を作るのかと思いながら田んぼに並べられているわら山の写真を撮った。
田んぼの近くで籾殻を焼いてる匂いがして懐かしかった。
トンネルの近くの茶店で月見うどんとおでんを食べた。田舎のおばさんがやってる店だと思ってたからぜんぜん見もしなかったけどお金を払う時ふと見たらきれいなお姉さんだった。こんな山奥でと驚いた。でも、いいなと思った。若いというだけでいいなと思うのは完全に歳だね。でも、重ねていうと妙にうれしかった。「秋行き号に乗って」というラジオ番組を作ったのは、もう20年近く前になるのかとそんなことを思いながら、当時、田舎の市町村を飛び回っていたことを懐かしく思い出した。いろいろな町の秋を紹介しながら自分たちの思いと音楽でつづる60分番組だったと思う。面白かったなあの頃。店の外に出ると
アジサイが咲いたままドライフラワーみたいになっていた。
最近これが人気らしい。
田んぼの近くで籾殻を焼いてる匂いがして懐かしかった。
トンネルの近くの茶店で月見うどんとおでんを食べた。田舎のおばさんがやってる店だと思ってたからぜんぜん見もしなかったけどお金を払う時ふと見たらきれいなお姉さんだった。こんな山奥でと驚いた。でも、いいなと思った。若いというだけでいいなと思うのは完全に歳だね。でも、重ねていうと妙にうれしかった。「秋行き号に乗って」というラジオ番組を作ったのは、もう20年近く前になるのかとそんなことを思いながら、当時、田舎の市町村を飛び回っていたことを懐かしく思い出した。いろいろな町の秋を紹介しながら自分たちの思いと音楽でつづる60分番組だったと思う。面白かったなあの頃。店の外に出ると
アジサイが咲いたままドライフラワーみたいになっていた。
最近これが人気らしい。
公園で犬たちが木犀の木の下に入っていって出てきたら背中にオレンジの木犀の花をいっぱいつけていた。「おまえたちは、秋を着ているんだね」と言って微笑ましく思った。秋晴れの今日、いつも行くカフェというのかレストランというのかフレンチの志向なんだけどナンと言うかそれほど明確じゃなくまぁ小さな店で雰囲気が良くて味がそれなりにいい店にランチに行った。春には、「おたまじゃくしがいるね」と言って歓声を上げた田んぼに今はコスモスが咲いていた。
「土佐のまほろば」すっかりあき風景。
食後、いつものコンパンナを頼んでその30ccのエスプレッソにクリームが浮かんでその上にチョコレートの欠片がパラパラと乗っている。その苦さと甘さを愉しんでここで売ってる減農薬のコシヒカリを買って帰ってきた。夕方から空は曇ってきた。オリオン座流星群は今日が最後と言うのに。パンプに夕食を食べさせに行ってから猫と犬に餌をやり栗の皮を剥いている。今度は、甘露煮にしようかなと思いながら。僕は、秋をきこしめす。
いつも、午前2時ごろにオリオン座を見てるけど流星はまだ見えない。0:00過ぎに見えたよって今日教えてもらった。意外と早く出るんだよと言われた。そうなのか。見えそうで見えないから気をもまれるんだ。23日まで、見えるかな自分の時間で。un deux trois soleil達磨さんが転んだ 動いている子供を見つけるくらいむつかしい。もう寝よう。