フェンネル氏の奇妙な生活

気付いた世界の中の小さな出来事と水彩画と時たま油絵と思いついたことを爺さんが一人語りいたします。

蜻蛉と蛇

2006-09-30 08:58:45 | Weblog
朝が、少し寒いと思うようになってきました。アボとガボを連れて散歩に出かけると北の家の庭から子蛇が出てきて南の家の庭に引越しです。くねくねと斜めに歩いて道の真中で一休みです。「おい、車に轢かれるよ」と言っても知らん振り。アボとガドが近づいても我関せず。ただひたすら南へ向けて体を動かそうとしています。蛇にも分かるんだね。環境が。南へ行って冬眠して冬を越すんだ。本能なんだろうか。本能ってすごいな。空に群れている秋茜も少し前までは、山の天辺のところにいたんだよ。それが、ここ2、3日は里に下りてきて自分の頭上を飛んでいるんだ。不思議だね。山の上で、もうそろそろか?そうだななんて相談してきたみたいに右と言えば右。左と言えば左に仲良く並んでいる。こういうのを里に帰ると言うらしい。里に帰った蜻蛉がいなくなってやがて秋が深まって蛇が見えなくなって冬がくる。みんないきるのに一所懸命で、微笑ましい。在る命を使い切る見事さを蜻蛉と蛇に学んだフェンネル氏でした。
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食生活

2006-09-29 19:40:44 | Weblog
人は、行動そのものが、その人であると言われます。ノンビリしている人は、ノンビリ屋さん。せかせかせかせか、どこか、開いてる場所、開いてる時間、少しでも早く行ける道なんて普段から探している人は、せっかちな人。こんな具合に人は、その人の思考で、行動するから、私ではないと言っても普段の行動を見れば、大体が分かります。人の一番身近な行動に食べると言う行為があります。食べ方も問題ですけど、何を食べるかがやはり生活の根幹でしょう。食べたものがその人の顔を作る。これは、昔、比叡の坊さんから言われた言葉です。これが、座右の銘でしょうか。肉を食べれば、牛のような顔に、魚を食べれば、魚のように、野菜を食べれば野菜のようになります。あなたは、どのような顔になりたいですか?と言えたのも昔の話。まだ、母さんが、料理して色んなものを、バランスよく食べさせてくれた時代のことですから。よく噛んでねとか、味わって食べなさいとか行儀が悪かったら、食事中ですよとたしなめられた時代のことだから。それでも、その時代でも食について考えて毎日を送っていたのです。最近は、テレビでは、健康志向の番組が、目白押しなのですが、家庭では、料理せず。柔らかいジャンクフードばかり子どもの頃から食べさせられて毎日の時間の積み重ねで体にたまる脂肪や添加物。交感神経と副交感神経の交代時期が明確でない生活時間。果たして今の暮らしの中で、人は、どんな顔になるのでしょうか。想像すらできないなと思うフェンネル氏でした。和食、その素晴らしき生活様式を捨ててまで、他に何が得られるのでしょうか。
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おむすび

2006-09-28 19:03:32 | Weblog
コンビニで買って来たおむすびを一つパンプにあげました。案の定あけられませんでした。矢印で開け方は明記されているんですが見えにくいしパンプには、なきも同然です。無茶苦茶に破ってのりもバラバラ。おむすびの具も飛び出しておむすびといえない代物になって口に放り込んで一言「まずい」昔は、竹の皮に包んで海苔を巻いたもの巻かないものそれに沢庵のセットでありましたから、パンプもそれほど苦労せずに食べることが出来ました。お結びの中身も梅、おかか、昆布と相場は決まってました。その中で、絶妙な味の競い合いがおこなわれたのです。ところが、いまは、なるほど手を汚さずに食べられると言う発想の元セロハンのようなもので包んで中身も鮭、イクラ、高菜、たらこ、たまご、海老天、からあげ、納豆などなど大変な種類となっています。確かにご飯ですから何にでも合いますがやはり昔ながらの素朴な味で縁側やなんかに座って熱い番茶で食べるというのが一番お結びには、似合いますね。お結び一つにお百姓さんの顔、作ってくれた人の顔を創造しながら、パンプといしょに竹の皮で包まれたお結びを頬張るフェンネル氏でした。
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純粋

2006-09-27 09:27:03 | Weblog
生誕のときは、誰でも純粋な魂が宿る日だと思う。そして誕生日は、純粋な魂が甦る日だと思う。純粋な魂は、純粋な魂に祝福されてはじめて再び羽ばたくというのが理想だけどお祝いには、不純な魂を持った人もくるわけでそれをいちいち拒むことがわずらわしいとしたら、酔っ払ってしまうか、知らない振りをするかしかありません。でも、それも止めてしまいました。理想は、チェのように武器と行動で守る以外ないのですから。純粋な魂って何でしょう?守らなければならない魂って何でしょう?ただ、漠然と、自分の中の価値観を見つめているに過ぎないけど不純な魂に触れられたくないものを守っていることは、自覚している。それが具体的にこれだというのは人によってちがうのでしょうが、その一つ一つを守っていかなければ、すべてがボーダレスになって自分自身を見失ってしまうから。理想を守って戦って死んでいったチェのことを思いながら、その考えの基礎は、自分が生まれた日をどう考えるかで決まるんじゃないかと思うフェンネル氏でした。
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高原の秋

2006-09-26 08:53:10 | Weblog
ハーバーヒルの西に有名な高原があります。カルスト地形でヨーロッパの田舎のような景色が秋風のなかに広がっています。そこでは、牛の放牧がおこなわれており沢山の牛たちが、思い思いに草を食んでいました。その中の一頭の子牛が、柵を越えて車が走る道に飛び出ていました。



狭い尾根伝いの道ですから、牛が横向くと車は、通れません。車が何台か止まって、うしの行方を見守っています。まるでニュウジ-ランドで羊が横断するのをじっと車が待っているという光景が目の前にありました。そのうち人が降りてきたり対向車が来たりするものですから子牛は、少し興奮して走り出しました。牛小屋のゲートがあるところまで走ると柵の中から母さん牛が寄ってきて子牛にキスをして少し伴走すると子牛は叱られたようにすまなさそうな顔してゲートから小屋のほうへ走って入っていきました。やはり母さんは偉いなとそれを見ていたみんなは、微笑ましく思ったのでした。
フェンネル氏は、人を動かすものは、愛だとあらためて思いました。高原の秋は、気持の良い冷気をはらんで草原から上空へと撫であがるように吹いていきました。あっプルーテルも来てるんだと風の行方を追っていました。

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ぷんぷん

2006-09-21 19:43:15 | Weblog
マーチンがフェンネル氏のところへやって来て言うには「パンプをつれてかえってくれ」と咳こんでました。「どうしたのそんなにあわてて」とフェンネル氏はいぶかしげに聞き返しました。なんでもパンプが怒って手がつけれんとのことだった。フェンネル氏がマーチンのところへ一緒に行くとパンプが怒っています。勿論訳のわからないことでですが、本人は、真剣でです。「ハイハイ、もう帰りましょう」と言っても聞き入れません。そこでしばらくほっておくことにしたいと思いましたが、マーチンは出て行けといってるんだからとりあえずマーチン宅から場所を移すことの準備にとりかかりました。「これは、はいてきた靴と違うとかワーワー言って今日は、ご飯を食べんと台所にいかず、従って、何も食べず。ブツブツブツブツ怒りながら部屋に帰ってきました。顔が真剣です。この顔になるとしばらくつづきます。人は怒って飯食わず。アドレナリンが駆け巡るのでしょか?やれやれとため息をついたフェンネル氏でした
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カタン

2006-09-20 19:42:20 | Weblog
パンプがテーブルの前で居眠りをしてます。気持よさそうに船を漕ぎ出しました。そうこうしてるうちに「カタン」と大きな音がしました。その音に驚いてパンプが目を覚ましました。まだ意識朦朧です。何があったか分かりません。口を確かめるようにパクパクとして段々と目覚めてきました。そして、ハット気づいたのです。自分の口に歯がないことを。先ほどの、「カタン」という大きな音は、パンプの口からポイット入れ歯が、落ちてテーブルの上に転がった音でした。なんだか決まり悪そうに入れ歯を拾ってそそくさと洗いに行きました。ボケているのか、いないのか全く分かりません。天然の人は、本当に判断に迷います。「あっ、そこで洗っては駄目でしょう。」と言って、台所から洗面所に連れて行きました。ボケているのか天然なのかその境目には、春と夏の境目のような薄い膜があって、春が、細いナイフでその膜を切り裂くように、そのような関係が成り立つものかもしれませんね。パンプは、入れ歯をきれいに洗って口にセットしました。さぁ、ご飯にしましょうか。パンプは何故か、上着を着てテーブルに着きました。ディナーのつもりでしょうか。今日は、芋の茎を鶏肉と炒めて甘辛く煮たものと焼き魚、お吸い物だけなんですけど、まぁいいか。と食事の用意をするフェンネル氏でした。
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土砂降り

2006-09-19 20:12:00 | Weblog
いつの頃からこんな風に雨が降り出したのでしょう。アボとガボを連れてハーバーパークへ夕方の散歩へ行ってたときにわかに掻き曇り雨がボツボツと大きな音を立てながら降ってきました。あっ雨だねと思っていたらザーっとバケツの水をひっくり返したように目の前なんか何にも見えなくなってしまって何だコリャといいたくもなるような降りかたです。南方のスコールというのかしら。それとも違うのはそれがけっこう長く降り続くからです。夏の夕立とも違います。夕立なら、その後晴れ間が見えるじゃないですか。そのまま、弱くなっても降りながら夜の突入です。こんな雨の記憶いままでありません。一体いつからこんなふうに雨が降るようになったのでしょうか。アボもガドもフェンネル氏も激しい雨の中、ずぶ濡れになって帰ってきました。そしたら、黄色い傘をさしてこの雨の中を楽しむように独り言を言いながらパンプが行ったり来たりしていました。まるで、雨にも負けずの詩人のように見えました。
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彼岸花

2006-09-18 09:18:30 | Weblog
お彼岸が近づいてきました。いつからかお彼岸に合わせて彼岸花が咲いています。不思議ですね。気がついたら咲いていて、この花を見ることによってお彼岸を知るなんて。此岸から彼岸へ煩悩から涅槃へどれくらいの距離があるのでしょうか。絶対的価値の確信は、相対的価値の延長にあるのでしょうか。そんなことは、どうでもよくて今をどう生きるかが一番の悩みなのでしょうか。マンジュシャゲこの毒のある花が秋風にゆれてここから先は、進むのに覚悟がいるよと言ってるように見えます。手折ればポキット潔く折れてしまうこの花のどこに人を寄せ付けないほどの強さがあるのでしょう。変にリアリティがあって彼岸への道を遠くしているように思えます。”男が咲かす死に花は花なら赤い彼岸花”という歌がありました。人斬り五郎とかの昔のやくざ映画の主題歌だったと思いますが、この映画も変にリアリティがありました。彼岸花をイメージするとそうなるのかもしれませんね。まるで、ここを通るんだったら、俺を越えて行け!といっているような花の言葉を聞いたような気がしたフェンネル氏でした。

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台風

2006-09-17 09:40:52 | Weblog
今日は、台風が近づいてます。二百二十日というのかしら。すでに向こうの県では犠牲者もでたとか。この頃の台風は被害も大きいですね。なんせハリケーンと呼ばれたものが太平洋を渡ってくるんですから、アジア生まれの僕としたら負けるわけには行かないと台風も思っているかも知れません。昔の台風は、大体が、一過性の大風みたいなところがあって、雨まじりではあるけれど、どちらかといえば、強風のイメージが強いものでしたね。子どもの頃は、学校が休みになると思って台風がやってくるのを楽しみにしてました。大人たちが、いまと違ってボロ家を守ろうと雨戸の上から板を釘で打ち付けていたりするのを不思議そうに見ていました。被害の実感に乏しかったからでしょう。屋根も飛べ、家も飛べなんてすごい風で総てが一掃されることを夢見ていました。現実とかけ離れたものこれが、自分の台風のとらえ方だと思います。基本的にはね。「何、風速40メートル。それが何だってんだい」なんて、ヒーロー気取りで嵐の中に立つ、なんだかワクワクしませんか。この前ジャマイカ人の友達のモンチゴにこの話をしたら、ジャマイカのハリケーン凄いよ。犬は飛ぶ、家は飛ぶ、大人泣く、もうめちゃくちゃ。でも子どもの頃は、楽しかった。 大好きだったって。同じなんだね子どもの世界って。嵐の中に立っている自分とモンチゴの子どものころを思い浮かべるフェンネル氏でした。
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