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宮古島及びTA初リタイヤのショックは不思議と無く(あとでガツンと、、、、)
帰ってからの行動は早かった、
初開催となる「アイアンマン五島長崎」の出場を決め(選考通知は来ていた)
エントリー費を振り込み気持ちを新たにする。
5月 五島に向けて本格的に修行モードにはいる、毎週、道志秋山方面
へロングライドへ、事前情報でバイクコースが厳しいとの事であった
毎週5峠3000m登坂で4週目に膝が壊れた、(これが本番でも響いた)
五島の宿泊情報など調べ、宿を探すと会場付近は、全て近ツリに押さえ
られていて、個人予約は断られてしまう、近ツリが押さえてない所は、「アイアン
マンとか言うのにでる人はお断りしてるのですよ。朝が早いそうなのでしんどくて、」
と門前払いを受ける、最初からつまずいてしまった。不本意ながら高い近ツリの
ツアーを申し込む。同行者は、H・E藤さん、H田君、N川英国支部長、現地合
流で、大阪在住のN津さん、別ツアーで「ファイター英さん」ファミリー、正直コンビ
も二人で出場するとの事であった。
6月 膝痛のため思うように修行は進まず、心身共にストレスを感じる毎日
を過ごす。だましだましやると、悪化の一方、腰痛、背筋痛まで併発して、
最悪な状態に、1ヶ月前で量も質も上げなければならない時期なのに、、、
毎日2時間~3時間の内容を予定していたが、1時間~1時間半の内容しか
こなせず、気ばっかりあせる。悪いことは重なるもので、4週目の後半に
風邪を引いてしまい。4日間完全休養を強いられる。開き直ることも出来ず
最悪の日々、、、、
7月 1日に「ツールド・JOY・Ⅲ」を開催、参加者は五島組のH・E藤さん、
H田君、N川英国支部長、+若ちゃん、T岡君と私を入れて6名。
早朝自宅に集まってもらい出発、相模原でT岡君と合流、今回のツールは
五島組のバイク強化と言うかシュミレーションを兼ねて、秋山道志方面の
5~7峠を走破すると言う趣旨で開催した。
現在過去を含め、このときのツールが一番過酷であったと思われる。
7峠越えを含む登坂累計3500m、距離197km走行時間8:48平均速度
22.3kmで自宅から自走で完走する。この日気温はどんどん上昇、ボトルの水
はすぐになくなり、コンビニ、雑貨やを見つけると即、氷と水の補給をしないと
脱水してしまう。土地柄あまりお店の類はなく途中湧き水の世話にもなった。
アイアンマンの3週間前にやることではないなとは思っていたが。皆よく付いて来
たなと言うのが正直な所、、、しかしながら皆のレベルの高さには驚いた、よく
練習できていて、大幅に遅れる人はいなかった。(自分が一番しんどかった)
日の長い夏なのに、自宅に帰りついたときは薄暗くなっていて、いかに過酷
であったかが思い知る所である、事故がなくてよかった。(パンク2名、私と
若ちゃん)いよいよ3週間後には「アイアンマン五島長崎」である。
翌日よりテーパーに入る、テーパーに入る程6月はやっていない(出来なかった)
が、故障箇所を直すことに専念、初めて整体、スポーツマッサージ、などを
施術してもらうことにした。「横浜鉄人会」のE藤S氏の紹介でMスポにも
コラムを書いている、「K井T洋」先生の治療院へ週1回通うことに、半信半疑
ではあったが、「藁にも縋る気持ち」で治療を受ける。相当悪かったようで、
色良い返事はもらえなかったが、「完走は出来るでしょう」の言葉が救いであった。
今思い出すと、泥沼にはまり込んでいた。宮古島のリタイヤが頭の中をよぎる、
悪夢を払拭できない弱い自分がそこに居た。反省の多い2ヶ月であったが、
後悔はしても始まらない。今の自分の実力では完走レベルがやっとであったが
ハワイのエントリー費と写真をしっかり用意する。奇跡は起きないから、
ロールダウンを期待して、、、、、
7月20日早朝羽田へ、皆待っていた、いよいよ五島へ出発する。
4年ぶりにアイアンマンになるために、、、、
長崎空港よりバスで長崎港まで約一時間、ジェトホイールの出港まで2時間も
あった。どうも近ツリのツアーは待ち時間が長くて閉口する。
H田君の提案でフェリーに乗り換えることにする、フェリーだと4時間半
掛かるが、到着は30分早くなるという計算であった。
ジェットホイールの乗船券を切り替えてもらうと、2等客室で10人部屋位の
船室で、私たちしかいなくて非常に快適であった。途中3等から切り換えた
人たちが入って来たが、4時間半快適に過ごせたH田君の提案はナイスでした。
5時、福江港到着、すぐにレジストレーション会場の福江文化会館へ
登録を済ませ、選手用グッズを受け取る、大阪より直行便で来ている
N津さんより携帯が入り、宿泊の「コンカナ王国」はとんでもない所に
ありますとのこと、レンタカーを借りることにする。先にカーボパーティー会場に
いますとの事で、宿には行かずカーボ会場にレンタカーで乗り付ける。
もう既にパーティーは始っていて空きテーブルを探すのに苦労する。
先に来ていたN津さんを見つけ久々の再会、熱い抱擁?を交わし
談笑、福岡時代の友人を紹介してもらうが名前も顔も忘れました。
別便のマーちゃんもテーブルに来て、これでJOYは全員集合である。
みんな一応に日焼けをして、絞れた精悍な顔立ちをしている。
やはりアイアンマンは違うのかな思う、何か人をやる気にさせる別な
物があるのであろう。
早々にパーティーを引き上げ、宿へ向かう、確かにN津さんの言うとうり
であった、4km位山道を登ってやっとこさ「コンカナ王国」に着いた。
しかしながらリゾートホテルとの事で、入るとすばらしく、全部コテージ形式
であった。チェクインのとき少しもたつき(近ツリは最低だ)H田君、N川英国
支部長、H・E藤さんのコテージがわからずH田君がぶちきれる!!!
荷物を部屋に移し、バイクを組み立て、あわただしく初日は終わった。
明日は朝一番で選手説明を受け、午後はバイクを自走で富江のスイム
会場まで預託に、スケジュールは押せ押せであった。就寝後即意識
不明に多分爆睡したんだろうな~朝早かったから、、、、、、、、、、
翌朝、朝食後、福江文化会館へ選手説明を受ける、懐かしい顔が
そこにあった、Y本 光宏さん(元プロ)五島のレースデレクターである
説明終了後、挨拶に行くと、変わらぬ笑顔と甲高い声で「アルミさ~ん
お久しぶり、お待ちしてましたよ~」「シズオお兄さんはお元気ですか?」
とY本さん、シズオ兄の近況など報告して握手を交わして別れた。
宿に戻りバイクに乗り換え、冨江のスイム会場に向かう、N津さんは
レンタカーで5人分のウェットスーツと着替えを積み先行
私、H田君、N川英国支部長、H・E藤さんはバイクで自走する
しかしながら中々富江に着かない、地蔵峠などは最悪で、めちゃくちゃ
きつい登りであった、どうにか富江に到着、バイクを預託して試泳に行く
潮が引いていて岩がむき出しで、とてもはだしでは歩けない、テトラの脇から
何とか入水、軽く泳ぐ、潮の流れの速い箇所もあり要注意である
別ツアーの「ファイター英さん」ともここで合流、こちらも久々の再会
早々に試泳を切り上げ「コンカナ王国」へ戻るこのホテルは鬼岳(おんだけ
と読みます)の中腹にあり、登山道が敷地の中に通っていた。N津さん以外は
登ることに。頂上までは行かなかったが途中の展望台まで、木が生えていなくて
一面草の山である。H・E藤さんいわく「サウンド・オブ・ミュジックの一場面
を思い出しますね」と「ジュデイ・アンドリュースが子供たちとピクニック
行って、ドレミの歌を歌うシーンですよ」となんとなく情景が浮かんだ、、、
7:00 スイムスタート、4年ぶりのアイアンマンが始まった。
1周回後一度浜に上がるレイアウトで、このパターンは初めてである。
途中潮の流れが変わるところもあったが、翻弄されることもなく、無事
1周目をクリア、途中浜に上がり給水できるのはありがたい、応援は
盛大で元気をもらえる。元気良く2周回目へ 自分の時計で1:12で
スイムアップ、まずまずの出来、バイクトランジットへ、2001は今とレイア
ウト違い、バイクトランジットは右方の駐車場で300mほど走る展開で
あった。自分ではしっかり走っているつもりであったが、ヨタヨタ走りで
あったと思う。 97年ハワイ以降3.8kmのスイムは未経験で、宮古島
の3kmのスイムしかこなしてないので、後半、下手ってけっこうダメージが
あった。
トランジットは早いほうではない、靴下は必須なので時間が掛かる
バイクラン兼用のトライシャツとトライショーツの上にバイクパンツを
はいた。バイクスタートする、バイクコースも今とレイアウトが違い、
富江の農道を走り、地蔵峠を下り福江市内へ、ここまでは今も変わらず
その後、寄宿、三井楽、玉之浦を大きく2周回するレイアウトであった。
地蔵峠でH田君を発見、一声掛けてパス。バイクは快調であったが
膝の爆弾がいつ出るか不安であった。あまりバイクは頑張るなと自分に
言い聞かせて走っていたが、頑張らざる得ないコースであった。きつい
暑い、苦しい、の三すくみ、、、、平地が無い、7割登って、3割下る
そのくりかえしであった、玉之浦の一番きつい登りの頂上で応援して
くれたご家族がいて(後に赤いTシャツの3k坂応援団、ヒロシ商店
Y田さん御家族と判明、今では五島名物で個人的にもお付き合い
させて頂いています。)熱い応援をしてくれていたのが嬉しかった。
2周目の寄宿の途中、最後尾の選手を発見、パトカーがさもやめろと
言わんばかりに後ろについていた。見慣れた背中であった、まさかとは
思ったが、われらが直Pであった。後ろのプレッシャーに耐えながら
必死にペダルを漕いでいた。「直P~」と一声掛けたが励ましの言葉が
でてこなかった。心の中で「頑張れ!頑張れよ~」とつぶやく、、、、
幾つかトンネルがありトンネルの中で横になり休む選手がたくさんいた。
「そうだよな、今日は暑過ぎるよな」自分にも休みたい気持ちがよぎる
自分もそれほど強くないんだと実感する。爆弾はでなかったが相当
力を使いバイクフィニッシュの中央公園へ、自分のメーターで6:02
6時間以上掛かったのは初めてであった。精神的にもショックを受けた。
気を取り直してランスタート、ランコースも今と違い空港道路を4回折り返し
鬼岳を1周するレイアウトであった。ランは灼熱地獄であった。気温36度
体感温度は50度(50度は体験したことがありませんが、、、、)エイドは1km
おき設定されていて、まさにオアシスの様相、それでも2周回の空港道路では
選手があふれ、水、氷が間に合わないエイドもあった。ボランティアの方が
「ごめんなさい水しかないの」「ごめんね! ごめんね!」と選手に頭を下げて
いたのが痛々しかった、ボランティアも戦っているのだ。「ありがとう 気持ち
だけでも頂きます。」と我慢のラン、先行するN津さんと出会う、「偽者が
走ってますよ」と一言、そのとき意味は解らなかったが、同じウェアーで髯の
人がいたそうだ。N津さんのランは力強かった。私はだんだん膝に違和感
を覚える、何とかごまかしてきたが2周目にとうとう爆弾破裂、膝が
悲鳴をあげた、同時にモチベーションも切れ、トンネルの中で足が止まった
「リタイヤ」「このまま日陰にいよう」弱い自分がそこにいた、、、、
とりあえず歩いた、自問自答しながら歩いた、エイドに小型ダンプカーが
氷を満載してやってきた、ブルーシートの上に砂利を降ろすかのように
ダンプする。休むまもなくボランティアの人が、かき集め水バケツに入れる
ダンプカーの運転手は「次いくぞ~」と走り去った。「氷が来ましたよ!!」
とランシャツのポケットに入れてくれた。帽子の中にもボトルポーチの
ボトルにもたくさん入れてくれた。涙がでた、「この人たちの為にもゴール
しなければいけないよね」気持ちが吹っ切れる。膝は痛いが走って、歩いて
走って、歩いた。鬼岳のふもとから福江市内に、沿道の人達と全てタッチ
しながらゴールを目指た。アイアンマンのネオンサインが見えた、
あと600mである。走るとも歩くともいえないような速さであったが
12時間の苦闘を癒すには十分な距離であろう、沿道の全ての人に
「ありがとう、ただいま~」と言った、福江城址に入る五島高校のゴールは
目の前に、ゴール前振り返り「皆さん応援ありがとうございました!!
ゴールさせていただきます!!」と叫んだ。全の人に感謝して、万歳ゴール 11時間49分58秒 この日87人目のアイアンマンになった
帰ってからの行動は早かった、
初開催となる「アイアンマン五島長崎」の出場を決め(選考通知は来ていた)
エントリー費を振り込み気持ちを新たにする。
5月 五島に向けて本格的に修行モードにはいる、毎週、道志秋山方面
へロングライドへ、事前情報でバイクコースが厳しいとの事であった
毎週5峠3000m登坂で4週目に膝が壊れた、(これが本番でも響いた)
五島の宿泊情報など調べ、宿を探すと会場付近は、全て近ツリに押さえ
られていて、個人予約は断られてしまう、近ツリが押さえてない所は、「アイアン
マンとか言うのにでる人はお断りしてるのですよ。朝が早いそうなのでしんどくて、」
と門前払いを受ける、最初からつまずいてしまった。不本意ながら高い近ツリの
ツアーを申し込む。同行者は、H・E藤さん、H田君、N川英国支部長、現地合
流で、大阪在住のN津さん、別ツアーで「ファイター英さん」ファミリー、正直コンビ
も二人で出場するとの事であった。
6月 膝痛のため思うように修行は進まず、心身共にストレスを感じる毎日
を過ごす。だましだましやると、悪化の一方、腰痛、背筋痛まで併発して、
最悪な状態に、1ヶ月前で量も質も上げなければならない時期なのに、、、
毎日2時間~3時間の内容を予定していたが、1時間~1時間半の内容しか
こなせず、気ばっかりあせる。悪いことは重なるもので、4週目の後半に
風邪を引いてしまい。4日間完全休養を強いられる。開き直ることも出来ず
最悪の日々、、、、
7月 1日に「ツールド・JOY・Ⅲ」を開催、参加者は五島組のH・E藤さん、
H田君、N川英国支部長、+若ちゃん、T岡君と私を入れて6名。
早朝自宅に集まってもらい出発、相模原でT岡君と合流、今回のツールは
五島組のバイク強化と言うかシュミレーションを兼ねて、秋山道志方面の
5~7峠を走破すると言う趣旨で開催した。
現在過去を含め、このときのツールが一番過酷であったと思われる。
7峠越えを含む登坂累計3500m、距離197km走行時間8:48平均速度
22.3kmで自宅から自走で完走する。この日気温はどんどん上昇、ボトルの水
はすぐになくなり、コンビニ、雑貨やを見つけると即、氷と水の補給をしないと
脱水してしまう。土地柄あまりお店の類はなく途中湧き水の世話にもなった。
アイアンマンの3週間前にやることではないなとは思っていたが。皆よく付いて来
たなと言うのが正直な所、、、しかしながら皆のレベルの高さには驚いた、よく
練習できていて、大幅に遅れる人はいなかった。(自分が一番しんどかった)
日の長い夏なのに、自宅に帰りついたときは薄暗くなっていて、いかに過酷
であったかが思い知る所である、事故がなくてよかった。(パンク2名、私と
若ちゃん)いよいよ3週間後には「アイアンマン五島長崎」である。
翌日よりテーパーに入る、テーパーに入る程6月はやっていない(出来なかった)
が、故障箇所を直すことに専念、初めて整体、スポーツマッサージ、などを
施術してもらうことにした。「横浜鉄人会」のE藤S氏の紹介でMスポにも
コラムを書いている、「K井T洋」先生の治療院へ週1回通うことに、半信半疑
ではあったが、「藁にも縋る気持ち」で治療を受ける。相当悪かったようで、
色良い返事はもらえなかったが、「完走は出来るでしょう」の言葉が救いであった。
今思い出すと、泥沼にはまり込んでいた。宮古島のリタイヤが頭の中をよぎる、
悪夢を払拭できない弱い自分がそこに居た。反省の多い2ヶ月であったが、
後悔はしても始まらない。今の自分の実力では完走レベルがやっとであったが
ハワイのエントリー費と写真をしっかり用意する。奇跡は起きないから、
ロールダウンを期待して、、、、、
7月20日早朝羽田へ、皆待っていた、いよいよ五島へ出発する。
4年ぶりにアイアンマンになるために、、、、
長崎空港よりバスで長崎港まで約一時間、ジェトホイールの出港まで2時間も
あった。どうも近ツリのツアーは待ち時間が長くて閉口する。
H田君の提案でフェリーに乗り換えることにする、フェリーだと4時間半
掛かるが、到着は30分早くなるという計算であった。
ジェットホイールの乗船券を切り替えてもらうと、2等客室で10人部屋位の
船室で、私たちしかいなくて非常に快適であった。途中3等から切り換えた
人たちが入って来たが、4時間半快適に過ごせたH田君の提案はナイスでした。
5時、福江港到着、すぐにレジストレーション会場の福江文化会館へ
登録を済ませ、選手用グッズを受け取る、大阪より直行便で来ている
N津さんより携帯が入り、宿泊の「コンカナ王国」はとんでもない所に
ありますとのこと、レンタカーを借りることにする。先にカーボパーティー会場に
いますとの事で、宿には行かずカーボ会場にレンタカーで乗り付ける。
もう既にパーティーは始っていて空きテーブルを探すのに苦労する。
先に来ていたN津さんを見つけ久々の再会、熱い抱擁?を交わし
談笑、福岡時代の友人を紹介してもらうが名前も顔も忘れました。
別便のマーちゃんもテーブルに来て、これでJOYは全員集合である。
みんな一応に日焼けをして、絞れた精悍な顔立ちをしている。
やはりアイアンマンは違うのかな思う、何か人をやる気にさせる別な
物があるのであろう。
早々にパーティーを引き上げ、宿へ向かう、確かにN津さんの言うとうり
であった、4km位山道を登ってやっとこさ「コンカナ王国」に着いた。
しかしながらリゾートホテルとの事で、入るとすばらしく、全部コテージ形式
であった。チェクインのとき少しもたつき(近ツリは最低だ)H田君、N川英国
支部長、H・E藤さんのコテージがわからずH田君がぶちきれる!!!
荷物を部屋に移し、バイクを組み立て、あわただしく初日は終わった。
明日は朝一番で選手説明を受け、午後はバイクを自走で富江のスイム
会場まで預託に、スケジュールは押せ押せであった。就寝後即意識
不明に多分爆睡したんだろうな~朝早かったから、、、、、、、、、、
翌朝、朝食後、福江文化会館へ選手説明を受ける、懐かしい顔が
そこにあった、Y本 光宏さん(元プロ)五島のレースデレクターである
説明終了後、挨拶に行くと、変わらぬ笑顔と甲高い声で「アルミさ~ん
お久しぶり、お待ちしてましたよ~」「シズオお兄さんはお元気ですか?」
とY本さん、シズオ兄の近況など報告して握手を交わして別れた。
宿に戻りバイクに乗り換え、冨江のスイム会場に向かう、N津さんは
レンタカーで5人分のウェットスーツと着替えを積み先行
私、H田君、N川英国支部長、H・E藤さんはバイクで自走する
しかしながら中々富江に着かない、地蔵峠などは最悪で、めちゃくちゃ
きつい登りであった、どうにか富江に到着、バイクを預託して試泳に行く
潮が引いていて岩がむき出しで、とてもはだしでは歩けない、テトラの脇から
何とか入水、軽く泳ぐ、潮の流れの速い箇所もあり要注意である
別ツアーの「ファイター英さん」ともここで合流、こちらも久々の再会
早々に試泳を切り上げ「コンカナ王国」へ戻るこのホテルは鬼岳(おんだけ
と読みます)の中腹にあり、登山道が敷地の中に通っていた。N津さん以外は
登ることに。頂上までは行かなかったが途中の展望台まで、木が生えていなくて
一面草の山である。H・E藤さんいわく「サウンド・オブ・ミュジックの一場面
を思い出しますね」と「ジュデイ・アンドリュースが子供たちとピクニック
行って、ドレミの歌を歌うシーンですよ」となんとなく情景が浮かんだ、、、
7:00 スイムスタート、4年ぶりのアイアンマンが始まった。
1周回後一度浜に上がるレイアウトで、このパターンは初めてである。
途中潮の流れが変わるところもあったが、翻弄されることもなく、無事
1周目をクリア、途中浜に上がり給水できるのはありがたい、応援は
盛大で元気をもらえる。元気良く2周回目へ 自分の時計で1:12で
スイムアップ、まずまずの出来、バイクトランジットへ、2001は今とレイア
ウト違い、バイクトランジットは右方の駐車場で300mほど走る展開で
あった。自分ではしっかり走っているつもりであったが、ヨタヨタ走りで
あったと思う。 97年ハワイ以降3.8kmのスイムは未経験で、宮古島
の3kmのスイムしかこなしてないので、後半、下手ってけっこうダメージが
あった。
トランジットは早いほうではない、靴下は必須なので時間が掛かる
バイクラン兼用のトライシャツとトライショーツの上にバイクパンツを
はいた。バイクスタートする、バイクコースも今とレイアウトが違い、
富江の農道を走り、地蔵峠を下り福江市内へ、ここまでは今も変わらず
その後、寄宿、三井楽、玉之浦を大きく2周回するレイアウトであった。
地蔵峠でH田君を発見、一声掛けてパス。バイクは快調であったが
膝の爆弾がいつ出るか不安であった。あまりバイクは頑張るなと自分に
言い聞かせて走っていたが、頑張らざる得ないコースであった。きつい
暑い、苦しい、の三すくみ、、、、平地が無い、7割登って、3割下る
そのくりかえしであった、玉之浦の一番きつい登りの頂上で応援して
くれたご家族がいて(後に赤いTシャツの3k坂応援団、ヒロシ商店
Y田さん御家族と判明、今では五島名物で個人的にもお付き合い
させて頂いています。)熱い応援をしてくれていたのが嬉しかった。
2周目の寄宿の途中、最後尾の選手を発見、パトカーがさもやめろと
言わんばかりに後ろについていた。見慣れた背中であった、まさかとは
思ったが、われらが直Pであった。後ろのプレッシャーに耐えながら
必死にペダルを漕いでいた。「直P~」と一声掛けたが励ましの言葉が
でてこなかった。心の中で「頑張れ!頑張れよ~」とつぶやく、、、、
幾つかトンネルがありトンネルの中で横になり休む選手がたくさんいた。
「そうだよな、今日は暑過ぎるよな」自分にも休みたい気持ちがよぎる
自分もそれほど強くないんだと実感する。爆弾はでなかったが相当
力を使いバイクフィニッシュの中央公園へ、自分のメーターで6:02
6時間以上掛かったのは初めてであった。精神的にもショックを受けた。
気を取り直してランスタート、ランコースも今と違い空港道路を4回折り返し
鬼岳を1周するレイアウトであった。ランは灼熱地獄であった。気温36度
体感温度は50度(50度は体験したことがありませんが、、、、)エイドは1km
おき設定されていて、まさにオアシスの様相、それでも2周回の空港道路では
選手があふれ、水、氷が間に合わないエイドもあった。ボランティアの方が
「ごめんなさい水しかないの」「ごめんね! ごめんね!」と選手に頭を下げて
いたのが痛々しかった、ボランティアも戦っているのだ。「ありがとう 気持ち
だけでも頂きます。」と我慢のラン、先行するN津さんと出会う、「偽者が
走ってますよ」と一言、そのとき意味は解らなかったが、同じウェアーで髯の
人がいたそうだ。N津さんのランは力強かった。私はだんだん膝に違和感
を覚える、何とかごまかしてきたが2周目にとうとう爆弾破裂、膝が
悲鳴をあげた、同時にモチベーションも切れ、トンネルの中で足が止まった
「リタイヤ」「このまま日陰にいよう」弱い自分がそこにいた、、、、
とりあえず歩いた、自問自答しながら歩いた、エイドに小型ダンプカーが
氷を満載してやってきた、ブルーシートの上に砂利を降ろすかのように
ダンプする。休むまもなくボランティアの人が、かき集め水バケツに入れる
ダンプカーの運転手は「次いくぞ~」と走り去った。「氷が来ましたよ!!」
とランシャツのポケットに入れてくれた。帽子の中にもボトルポーチの
ボトルにもたくさん入れてくれた。涙がでた、「この人たちの為にもゴール
しなければいけないよね」気持ちが吹っ切れる。膝は痛いが走って、歩いて
走って、歩いた。鬼岳のふもとから福江市内に、沿道の人達と全てタッチ
しながらゴールを目指た。アイアンマンのネオンサインが見えた、
あと600mである。走るとも歩くともいえないような速さであったが
12時間の苦闘を癒すには十分な距離であろう、沿道の全ての人に
「ありがとう、ただいま~」と言った、福江城址に入る五島高校のゴールは
目の前に、ゴール前振り返り「皆さん応援ありがとうございました!!
ゴールさせていただきます!!」と叫んだ。全の人に感謝して、万歳ゴール 11時間49分58秒 この日87人目のアイアンマンになった
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