博多駅からビルの立ち並ぶ大博通りを北に進むと、博多湾沿いに、国際センター、国際会議場、サンパレスホテル&ホール、マリンメッセなどが、一大コンベンションゾーンを構成し、大相撲やアイスショーなどのスポーツ、有名アーチストの音楽イベントや、見本市、世界規模の会議などが開催されている。すぐそばには船便としては日本一の旅客数を誇る国際旅客ターミナルがある。
平和と繁栄の象徴のような臨海地区の、その一角に、赤いモニュメントが立っている。引揚げの記念碑である。
海の方に、あまり行かない人であっても、福岡のテレビ電波の届くところの人には「博多通りもん」のコマーシャルで、長谷川法世さんが、博多っ子純情のキャラクター少年と話してるところに立っている赤い彫刻と言えばすぐわかる。
博多港には、戦後、139万人に及ぶ人たちが引揚げてきた。
139万人。
この人数は、ちょうど2011年の国勢調査のときの奈良県の人口と同じである。奈良県の人口は、全国都道府県で30位なので、残り17県それぞれの、赤ちゃんから老人まで含めた全人口よりも多い人数である。
それと同じ数の人々が、戦争が終わって「外地」から、博多港に還ってきた。
戦争は、1945年8月15日に終わったというが、外地にいた民間人の多くにとって、この日が新たな戦争のはじまりといえた。
その日を境に、追放されるべき侵略者として扱われ、それまで築き上げてきた生活の基盤を根こそぎ奪われ、着の身着のまま無秩序のなかに放り出され、そして引揚げ船の出る港まで、辛く長い旅をすることになったのである。空腹、寒さ、疲労、伝染病。ときに暴力や略奪。新たにはじまった「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」日々。
人間の尊厳が集団ごと奪われ、生命そのものが危機に瀕する、という意味では、まったくもって引揚げは戦争そのものである。
命からがら船に乗り、着いたのは空襲で焼け野原となった博多だった。
博多に着いても、すぐ上陸できるとは限らない。コレラ患者の出た船は、全員検査の結果が出るまで上陸は延期された。そんななか、故国を目前にして自死する人もいた。
親をなくしたり、はぐれたりした子供の中には栄養失調で死に瀕していたものもいた。大陸で混乱のなか陵辱され身体に変調をきたした女性たちもいた。
それを出迎えた人々がいた。
「なんとかしなくては」
無事に故郷に還れた人々の多くは、新たな生活との戦いがはじまった。
そして引揚げた人々の一部は、出迎える人々に加わった。
たくさんの人々の並々ならぬ努力と献身があって、いまのこの国の姿があるのだということについて、私たちは知らなければならない。
知らない人が多いのは、関心を持たれていないから、というより、関わった人々にとって、まさに「筆舌に尽くし難い」事象だからである。
『博多港引揚』「引揚げ港・博多を考える会」監修(写真集)
『日本に引揚げた人々』高杉志緒著(聞き書き)
近日発刊。
人々の努力と奮闘と献身、そして、混乱に巻き込まれ、生きながらえなかったすべての生命に頭を垂れる。
平和と繁栄の象徴のような臨海地区の、その一角に、赤いモニュメントが立っている。引揚げの記念碑である。
海の方に、あまり行かない人であっても、福岡のテレビ電波の届くところの人には「博多通りもん」のコマーシャルで、長谷川法世さんが、博多っ子純情のキャラクター少年と話してるところに立っている赤い彫刻と言えばすぐわかる。
博多港には、戦後、139万人に及ぶ人たちが引揚げてきた。
139万人。
この人数は、ちょうど2011年の国勢調査のときの奈良県の人口と同じである。奈良県の人口は、全国都道府県で30位なので、残り17県それぞれの、赤ちゃんから老人まで含めた全人口よりも多い人数である。
それと同じ数の人々が、戦争が終わって「外地」から、博多港に還ってきた。
戦争は、1945年8月15日に終わったというが、外地にいた民間人の多くにとって、この日が新たな戦争のはじまりといえた。
その日を境に、追放されるべき侵略者として扱われ、それまで築き上げてきた生活の基盤を根こそぎ奪われ、着の身着のまま無秩序のなかに放り出され、そして引揚げ船の出る港まで、辛く長い旅をすることになったのである。空腹、寒さ、疲労、伝染病。ときに暴力や略奪。新たにはじまった「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」日々。
人間の尊厳が集団ごと奪われ、生命そのものが危機に瀕する、という意味では、まったくもって引揚げは戦争そのものである。
命からがら船に乗り、着いたのは空襲で焼け野原となった博多だった。
博多に着いても、すぐ上陸できるとは限らない。コレラ患者の出た船は、全員検査の結果が出るまで上陸は延期された。そんななか、故国を目前にして自死する人もいた。
親をなくしたり、はぐれたりした子供の中には栄養失調で死に瀕していたものもいた。大陸で混乱のなか陵辱され身体に変調をきたした女性たちもいた。
それを出迎えた人々がいた。
「なんとかしなくては」
無事に故郷に還れた人々の多くは、新たな生活との戦いがはじまった。
そして引揚げた人々の一部は、出迎える人々に加わった。
たくさんの人々の並々ならぬ努力と献身があって、いまのこの国の姿があるのだということについて、私たちは知らなければならない。
知らない人が多いのは、関心を持たれていないから、というより、関わった人々にとって、まさに「筆舌に尽くし難い」事象だからである。
『博多港引揚』「引揚げ港・博多を考える会」監修(写真集)
『日本に引揚げた人々』高杉志緒著(聞き書き)
近日発刊。
人々の努力と奮闘と献身、そして、混乱に巻き込まれ、生きながらえなかったすべての生命に頭を垂れる。