車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

清洲古城跡公園 in 愛知県清須市清洲

2016年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市清洲古城、清洲城の対岸に位置する「清洲古城跡公園」。公園入り口には大正11年(1922)に建立された「清洲古城蹟」の碑。

昭和63年(1988)に緑豊かな市民の憩いの場として再整備された「清洲公園」。正面の一段高い場所、天守台跡には『織田信長公』を祠る小社が大切に祀られています。

公園内の一段高くなっている場所に建つ『織田信長公』の像。永禄三年(1560)「桶狭間の戦い」に出陣する織田信長、この時二十六歳。見据える彼方には2万5千の大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元が待ち受ける「桶狭間」。この時、信長公が首にかけた数珠は、味方の士気を大いに高めたと言われています。

「右大臣織田信長公古城跡」碑は、弘化年間(1844~1847)の頃、清洲総年寄であった『武田晨業(ときなり)』が建立。晨業は五条川に埋没していた古塁石を発見し、これに『尊寿院雲阿僧正』が揮毫し、本丸跡に建立したものです。

また右手の碑は、宿場町の清州宿で本陣役を務めた『林恪』が、文久2年(1862)に建立した「清洲城墟碑」。碑文は、戦国の世を統一し太平の世を築いた信長、それを継いだ秀吉の功績を讃え、またその偉業は清洲を本拠として尾張を平定したことに始まること等々、更に『林恪』が建碑を思い立った経緯が細かく刻まれています。

「右大臣織田信長公古城跡」碑の近くに置かれていた「織部灯籠」。俗にキリシタン灯籠とも呼ばれますが、刻まれたお姿は、私にはお地蔵様以外のお姿は見えません。

「清州ふるさとの館」に展示されていた能面六作。能と言えば信長が出陣の際に謡い舞ったという「敦盛」の一節。ずっと昔、戦国漫画のワンシーンで、炎に包まれた本能寺の館の中、低く謡を口ずさみ舞う信長の姿が子供心にも鮮烈で今でもその場面を思い出す事が出来ます。

【~人間五十年 下天(げてん)のうちを くらぶれば~~ 下天のうちを くらぶれば~ 夢 幻の如くなり~~】

豊かな緑に包まれた清州公園。時折列車の通過する音が聞こえる以外、後は爽やかな緑の葉擦れのみ。

春の最中の、淡い紫の藤棚。

私たちが訪問した後の2012年夏、信長公の銅像の脇にドラマ館の前にあった濃姫像が移設されました。桜の名所としても知られ、市民に親しまれているこの公園は、「始まりの地~二人の愛と希望の丘」と称し、夫婦円満、恋愛、立身出世、必勝祈願のパワースポットとなったとか。部下に裏切られ本能寺で自害して果てた信長さん・・本当に立身出世、必勝祈願で良いんですか?(^^;)

訪問日:2011年4月24日

 

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清洲(きよす)城 in 愛知県清須市

2016年12月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市朝日城屋敷、五条川に架かる朱塗りの「大手橋」を渡った先に見えてくる「清須城」

大手橋のこの位置が絶好のロケーションポイントらしく、御亭主殿の他にもポーズをとっている観光客。清須市のシンボルともいえる「清須城天主閣」ですが、1989年に再建整備された模擬天守 (-"-)。

「室町時代応永12年(1405)、尾張国の守護職:斯波義重が、下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清須城の始まりとされる。文明8年(1476)の戦禍で下津城が焼失した為、守護所は清須に移転。尾張国の中心地となった清須は、京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝として尾張の政治・経済・司法の中心地となった。 弘治元年(1555)に那古野(なごや)城から入城した織田信長は、尾張を統一掌握。やがて永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに勝利し、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出した。」清須市公式HPより抜粋

「天正10年6月2日、光秀の謀反により本能寺で自害して果てた織田信長。清須会議の後、城主となった次男の信雄は清須城の城郭改修に着手。それは天守を備え、東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去最大の規模であった。」と続き・・

「関ヶ原の戦いでは、東軍の重要な軍事拠点となり、関ヶ原以後、城の主は家康の四男、九男へと変遷。 慶長15年(1610)、家康は、清須城廃城と名古屋城築城を命じ、町の機能全てが移転する「清須越」を決行。これにより尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を消し去った。」と結ばれます。

1989年、四百年近くの年月を経て甦った「清洲城」。とは言え・・歴史的な遺産として見るには流石に無理がある煌びやかな佇まい(^^;)

ここは潔く「観光地」として割り切るのが良し(^▽^)/

そうと気持ちを切り替えれば、これはこれで土産話の材料としては充分(笑) まずは大手門。その左右に続く「信長塀」は、兵庫県西宮神社の大練、京都市三十三間堂の「太閤塀」と共に「日本三大練塀」と言われるもの。

名の由来は、桶狭間出陣途中、熱田神宮に戦勝祈願した信長が大勝した礼に築地塀を奉納した事に由来。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねて作った「信長塀」はそれをモデルに作られました。

天守の入り口に作られた中庭。三重県の菰野砂利が敷き詰められた上に、岐阜御岳石の巨石が配されています。天守閣へはこの庭の横に設けられた通路を通っていきます。

高い所は大の苦手。必要不可欠な場合以外は避けたい私に付き合って、天守閣の観光はこれで終了(笑)

「復元された本石垣は、平成八年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清州公園前の五条川右岸(現地は下流二〇〇米に銘板で表示)で発見されたもので、清州越直前の本丸南側の石垣と考えられている。
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。」清州城の石垣より

大手門の近くにあった白漆喰壁の土蔵。特に説明など無かったので、清州城とは無関係だったかも。

ドラマ館の前に建てられた「農姫(信長の妻)像」と、観光地お約束の顔出し。 ご亭主殿曰く、一気に力が抜ける・・そうです(^^;)

訪問日:2011年4月24日

五条川の対岸に位置する「清洲古城跡公園」。続きは明日に (^▽^)/。

 

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宝昌寺(ほうしょうじ) in 愛知県大治町花常

2016年12月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県大治町花常東屋敷に門を構える曹洞宗寺院「宝昌寺(ほうしょうじ)」。円空寛文期の初期作『釈迦牟尼仏坐像』を本尊とします。創建は慶長三年(1598)とされていますが、こちらのお寺に関しては何の知識も無く、偶然行き会わせるという僥倖に恵まれての参拝。

隣接する「花常八幡社」の参拝を終えた時、何かに呼ばれた様に立ち寄らせて頂いた地蔵堂。

内には沢山の石地蔵様が納められており、何とも言えぬその穏やかなお顔に心が休まるような温もりをおぼえました。

穏やかで温かくて・・・なんて優しい微笑み。

地蔵堂の横にもう一つ小さな祠があり、そちらには石地蔵様が一体だけ安置されています。

地蔵堂の横に在る朱の鳥居は稲荷の社でしょうか? お社の場所がトンと分からず満開の桜に手招きされるようにそのまま境内へ。

鳥居の外で咲き誇る艶やかな牡丹の花に誘われて。

御亭主殿は本殿前に置かれた一対の狛犬さんを見つけて即撮影開始。岡崎でも浪花でもない・・でもどこかでお見掛けしたようなお顔立ち。ご住職の奥様のお話では明治32年頃の物ではないかとの事でした。

狛犬さんのお写真を撮らせている時、本堂横のご自宅からご住職様らしきお方と奥様が脚立を持って出てこられました。御挨拶をすませ何をなさるのかお尋ねすると、桜を切って塩漬けにするとの事。

七部くらいに開いた桜を摘み取り塩漬けにして「桜茶」になさるとか。ほんのりとした塩味と桜独特の香りが気に入って何度か購入した事がありますが、ご自宅の桜で簡単に作れるとお聞きし、ビックリ! 興味津々の私に丁寧に作り方まで教えてくれた奥様。いつか挑戦したいと思いながら、結局八重の桜花が入手できず、そのまま今に至ってしまいました。

参拝日:2011年4月24日

 

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花常八幡神社 in 愛知県大治町花常

2016年12月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県大治町花常東屋敷に鎮座される「花常(はなつね)八幡神社」。御祭神は『応神天皇』

創建・由来等不詳

一の鳥居を潜ってすぐに昭和30年(1955)奉納の「石造連子窓型蕃塀」。上部の欄間には「八幡神社」の扁額を護る双龍。羽目部左右に獅子、中央には八幡様の神使い「鳩」。

背面に「東枇杷島町 荒木石材店」の刻。連日の神社参拝で目にする蕃塀。いくつかの共通点と相違点の面白さに、俄か蕃塀ファンになった感のあるご亭主殿(笑)

開放的な拝殿。ここでも手前に石造りの燭台立てが置かれています。

拝殿欄間の彫刻は、中央に「龍」。左右に八幡神の神使いとされる「鳩と清松」。

拝殿と本殿を繋ぐ幣殿

幣殿の奥・本殿近く左右より神域を守護されるのは、大正七年五月建立の狛犬さん一対。ぽってりとした体格、鼻の下にふさふさの髭を蓄え、吽形は子狛を、阿形は玉を持っています。

背をそらせ、親狛を見上げる仔狛の愛らしい顔と仕草に胸キュン。

本殿向かって右に鎮座される、社名不明の摂社。

遥拝門左右より神域を守護されるのは、昭和四年一月建立の狛犬さん一対。耳まで裂けた口元を覆う大量の毛。とがった鼻・・まるでSF映画に登場する悪役インベーダーみたい(^^;)

参拝日:2011年4月24日

 

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八幡神社 in 愛知県あま市七宝町

2016年12月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

あま市七宝町遠島宮西に鎮座される「八幡神社」。御祭神は『品陀和気尊(ほむだわけのみこと)=(応神天皇)』

境内由緒碑「御祭神 品陀和気尊は即應神天皇に座す。品陀和気尊を祭祀せる社にて、御神徳もっとも顕著。祈念するに霊験著しきこと悉く衆人の知る所なり。」

鳥居をくぐった正面に「石造り連子窓型蕃塀。連子上部に向かい合う「一対の龍」、下部羽目左右に「鯉の滝登」り、中央に「橘紋」が彫られています。

連子窓上部、向かい合う双龍に護られる「八幡神社」扁額

参道正面、開放的な拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正15年(1926)奉納の岡崎型狛犬さん一対。

吽形さんは仔狛の背中に手を、阿形さんは毬の上に手を置いています。

世の中はすべて事も無し、平和です・・・的なお顔(笑)

拝殿後方、幣殿前左右より神域を守護されるのは、享和14年(1814)甲戌建立の構え型狛犬さん一対。使われた石の材質+置かれた場所が良かったのか、とてもそんなに長い年数を経たとは思えない顔貌を保っておられます。

幣殿前左右より神域を守護されるのは、明治39年建立の浪花系の狛犬さん。横向きにとがった三角耳と上向きの鼻が特徴的な一対です。

境内に枝を張る「羅漢槙」の御神木。

樹齢約400年、 樹高13m・地上部2m程の高さで3枝に分かれており、昭和30年に愛知県天然記念物に指定されました。

参拝日:2011年4月24日

 

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八劔(はっけん)社 in 愛知県あま市七宝町

2016年12月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

あま市七宝町桂宮附に鎮座される「八劔(やつるぎ)社」。御祭神は草薙剣に由来する『八劔神( やつるぎのかみ)』

境内由緒碑「創建は安土桃山時代天正年間(1580)。桂城主織田大和守の請願により山城葛野郡桂村から転遷し奉られたのが始まりとされています。」

一の鳥居を潜ってすぐに「石造連子窓型蕃塀」。連子窓の上には社号額を挟んで2頭の龍が相対しています。

二の鳥居と本殿に続く拝殿。

幣殿に続く御本殿

幣殿前左右より神域を守護されるのは、明治41年(1908)11月建立の浪花タイプの狛犬さん一対。愛知県で浪花タイプはちょっと珍しいかも。

こんな風に並べると、ついついいつもの癖で勝手にセリフが・・・(^^;)

「なんやえらい汗かいて悩んではるでぇ」「ほんまやなぁ。まぁ勝手に悩ましとき(笑)」

鬼瓦(経の巻)には、八劔社を表す「八」

拝殿屋根の留め蓋でくつろぐ飾り瓦の獅子一対。穏やかな顔で参拝者を見守っておいでです。

「八剱社」社号碑

参拝日:2011年4月24日

 

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伊福部(いふくべ)神社 in 愛知県あま市七宝町

2016年12月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県あま市七宝町伊福宮東に鎮座される「伊福部(いふくべ)神社」。御祭神は『日本武尊』。

境内由緒書「御祭神は伊福部の連の敬愛する神様であり、天平2年(730)に創建された。明治5年(1872)には郷社に列せられ、同25年(1892)に熱田神宮西方に祀ってあった八百万神の本殿を移し、これが現在の本殿である。」

参道二の朱塗り鳥居

柔らかな日差しの中、まっすぐに続く参道。

「石造連子窓型蕃塀」

欄間上部には「双龍」、羽目部左右に「鯉の滝登り」

羽目部中央に卯年と刻まれた「兔」、おそらくは奉納年を表しているのでしょう。

四方吹き抜けの開放的な「拝殿」

拝殿から続く「幣殿」

幣殿前左右より神域を守護されるのは、昭和四年五月建立の岡崎型狛犬さん一対。阿は毬を手に、吽は前足の間に仔狛を抱いています。

親狛の足の間に収まり毬にもたれて境内を見つめる仔狛。

さらに幣殿のより近くより神域を守護されるのは、昭和五十二年二月奉納の狛犬さん。太い眉が流行りのモンスターキャラを彷彿させる可愛らしい一対。

幣殿奥、真っ直ぐに鎮まられる御本殿

本殿の玉垣の奥深くより神域を守護されるのは、明治四十二年十月奉納の神殿狛犬を思わせる一対。場所的な事も有りこの角度が精一杯ですが精悍で美しい顔立ちです。

幸い透かし塀の向こうと言う立地のお陰で、後姿はこのようにしっかりと!

さらに本殿玉垣の内より神域を守護されるのは、明治十七年三月奉納、昔タイプの狛犬さん一対。阿は角を、吽は宝珠を頭に戴いています。「日吉さんの神使いに似ている」と御亭主殿。

失礼なことをと思いつつ・・言われてみれば確かに・・(^^;)

境内社「津島神社・村上神社・八幡神社」

熱田神宮宮司正七位角田忠行氏による「伊福郷之碑」 傍らの駒札に「伊福と言う地名は元々この地域に伊福部連という氏族が居住していたことによると云われており伊福部神社も伊福部連の祖先を祀ったものである。しかし中世以降「伊福」が転じて「伊麥」と称するようになった為、明治二十二年に県知事に願い出て「伊福村」に変更している。この碑文はその経緯や伊福部連について説明したもので明治二十二年三月に建てられている。」

「神鳳抄(じんぽうしょう)所載碑 伊福部御厨舊地」「明治二十二年三月建立」、(神鳳抄とは、伊勢神宮(内宮および外宮)の領地の諸国一覧表)

石造りのように見える吐水龍

境内一団高くに「御大典記念碑」

一の鳥居近く参道の傍らに咲いていた「黄色花酢漿草(きいろはなかたばみ)」

同じく参道中に咲いていた黄色い花、名前は知らない。

参拝日:2011年4月24日

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なるほど一口メモ

「蕃塀(ばんぺい)」は、一般に愛知県北西部を中心に分布しているといわれる。もともとは「不浄除け」と呼ばれ、現在でも地元の方々は「不浄除け」と呼ぶ場合が多い。ご神体守護の為、不浄なものを遮断する役割。またご神体の強い力を人々が不用意に浴び続けないようにする役割を果たしている。木造・石造りが有り、特に真ん中に連子窓を持つものを「連子窓型蕃塀」と呼ぶ。

 

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漆部(ぬりべ)神社 in 愛知県あま市甚目寺

2016年12月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県あま市甚目寺、甚目寺観音西側に隣接して鎮座される「式内社:漆部神社(ぬりべ)神社」。御祭神は『三見宿禰(みつみのすくね)』。配祀『木花開耶姫命 』。合祀『八大明神』

朱塗りの清め橋。正面に「蕃塀」と「拝殿」

「石造り連子窓型蕃塀」。連子上部には「波頭を翔る龍」、羽目部左右に「阿吽の獅子」、中央に「竹林の虎」

「創建時期は不明。甚目寺の鎮守社として創建当初の名称は漆部神社といい、 鎌倉時代以降に漆部天神、八大明神社に改称された。明治の神仏分離で境内を分け、昭和32年(1957)には社名を漆部神社に戻された。」

流造桧皮葺の「本殿・祭文殿」

本殿玉垣の内より神域を守護されるのは、明治20年(1887)4月建立の狛犬さん一対。装飾は少なく、尾もかなり控えめ。非常にユニークで個性的な顔立ちで、吽形さんは角を頂いています。

取って付けたような尾とか・・美容院でパーマのロット巻きをしている人みたいな頭とか・・色々と突っ込み処満載ですが、決して嫌いなタイプではありません。

上下を鳳凰に護られた「陰陽勾玉巴紋」の絵馬

「陰陽勾玉巴紋」の腹掛けをかけた御神馬

『八大神社』社号標と「開山甚目龍磨顕彰碑」

境内社ですが、「村社:日吉神社」の社号標と一の鳥居。御祭神は『大己貴大神(おおなむちのおおかみ) 』

「石造り連子窓型蕃塀」は漆部神社と同じ様式のようです。

「日吉神社」、朱塗りの二の鳥居。

「御本殿」

「拝殿」

拝殿前左右の石門上より神域を守護されるのは、顔の大きさが目立つ異国風味の狛犬さん一対。真横に折れた耳、そこから繋がるたてがみと真横に大きな口。吽形さんは仔狛を。阿形さんは毬に手を置いています。

親狛の手にぶら下がりながら後ろを振り向く仔狛。親狛に負けない面構えは末頼もしい(笑)

「日吉神社」参道の右手に建立されていた歌碑。悔しいですが達筆すぎて解読できません(-"-)

参拝日:2017年3月29日

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御神名一口メモ

『三見宿禰(みつみのすくね) 』、『瓊瓊杵尊』の子である『火明命』から五代目。漆器具の製作を行った人々の祖神。

「八大神社」、「稲荷神社、賀茂神社、春日神社、住吉神社、祇園神社、貴船神社、平野神社、松尾神社」の総称。

「式内社」、延長五年(927)にまとめられた「延喜式」の巻九・十(延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載された2861社。鹿島・香取・諏訪・富士本宮・伊勢・伏見・住吉・出雲・厳島・宗像など・・

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鳳凰山:甚目寺(じもくじ) in 愛知県あま市甚目寺東門前

2016年12月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

「推古5年(597)、伊勢甚目(いせはだめ)村の漁夫:龍麿が、江上庄の入り江で魚をとっていた折、網に黄金の聖観音像が掛りました。歓喜した彼は入り江の北にお堂を建て、像を納めました。 これが甚目寺の始まりと言われています。」

「推古五年 開山甚目龍磨顕彰碑」

愛知県あま市甚目寺東門前に門を構える真言宗智山派寺院「鳳凰山(ほうおうざん):甚目寺(じもくじ)」。通称「甚目寺観音」。法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹で「聖観音」を本尊とします。

「聖観音像は、釈尊の授記を受けて作られたもので、百済を経て日本へ渡り、敏立14年(585)に海中に投じられた三尊仏の内の一尊と言われています。他の二尊もそれぞれ拾われ、阿弥陀仏は信州の善光寺、勢至仏は九州大宰府の安楽寺にあります。一尺一寸五分(約34cm)の聖観音像は後に十一面観音の胎内仏となっています。」記事中の色文字は甚目寺誌略より抜粋

建久7年(1196)再建の「南大門」。源頼朝の命を受け、梶原景時が奉行となり建立。仁王門とも呼ばれ、明治33年に重要文化財に指定されました。

安置されている「仁王像(金剛力士像)」は慶長2年(1597)、『福島正則』の寄進によるもので、昭和33年に愛知県有形文化財に指定。

「南大門」を潜りまっすぐ正面に朱塗りも鮮やかな本堂。

施無畏(せむい)印と与願(よがん)印を結び、左手には如意宝珠をお持ちになられる「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」。ところで、何故「おびんづる様」はいつもお堂の外縁に居るのかご存知ですか? 実はお釈迦様と約束した禁酒の誓いを破った罰で、内陣(堂内)に入れて頂けなくなったからなんですよ (⌒∇⌒)。

境内左手に高さ25mの「三重塔 」。江戸・明治時代の囲碁棋士であった『吉田半十郎』の寄進により寛永4年(1627)に再建。昭和28年に重要文化財に指定されています。

「本尊:愛染明王」。御利益は「縁結び・聞こえ」

三重塔手前に「秋葉堂」

御本尊『秋葉三尺坊大権現』。御利益は「大防守護」。

本堂左手に「弘法堂」、御本尊『弘法大師』。御利益は「所願成就」

「弘法堂」の右手に「石仏・地蔵様の祠」

境内右手に「六角堂」、本尊「地蔵菩薩」「千体の地蔵様が奉られ、特に子供の育成を加護し、学業成就、身体健康に御利益があります。」

堂内に奉られる地蔵菩薩立像

死後の世界をつかさどる十人の王が奉られる「十王堂」。「閻魔王(えんまおう)」は冥界の王として、死者の生前の罪を裁くとされ・・

「地蔵菩薩」は釈迦にかわって衆生を地獄の苦しみから救済し、導くとされます。

「奪衣婆(だつえば)」は三途の川で亡者の衣服をはぎ取り、相方の「懸衣翁(けんえおう)」は、その重さで犯した罪を計るとされます。十王と奪衣婆は室町時代の作だそうで、漆黒の姿と白目の対比は・・できればあまり長居したくない (((((^_^;)

「天下泰平」の台座に座す石仏

「白山大権現」を祀る「白山大権現社」二基

南北朝時代作の「梵鐘」が納められた鐘楼。梵鐘には「建武四年三月廿日(1337)」の銘が残されており、昭和40年に愛知県有形文化財に指定されました。

塔頭寺院:高徳院(の画像はありませんが)に祀られる「伝:左甚五郎作:大黒天」

甚目寺境内地:9,193平方メートルは、あま市指定史跡に指定されています。

参拝日:2017年3月29日

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ブログ一口メモ

「敏立14年に海中に投じられた三尊仏」、廃仏論を唱えた『物部守屋・中臣勝海』によって難波の堀江に捨てられた仏像。

『物部守屋』、『鐃速日命(にぎはやひのみこと)』を祖先とし、天皇家を除いて「天孫降臨」の逸話をもつ唯一の氏族。

「施無畏(せむい)印」、「恐れなくともよい」。「与願(よがん)印」、「願いを聞き届けよう」の言葉を、手指の形で表したもの。

「 十王」「十王堂」、死後の世界をつかさどる「泰広王・初江王・宗帝王・五官王・閻魔王・ 変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王」の総称。十王を奉るお堂。

 

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常楽寺龍照院(りゅうしょういん) in 愛知県蟹江町

2016年11月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

蟹江町須成、「冨吉建速神社・八劔社」に隣接した境内に門を構える真言宗智山派寺院「蟹江山:常楽寺龍照院(りゅうしょういん)」。尾張三十三観音札所十三番。国宝『十一面観音菩薩立像』を本尊とします。

「奈良時代の天平5年(733)に行基菩薩により草創され、その後、寿永元年(1182)木曾義仲により再興されたと伝えられています。最盛時の規模は、七堂伽藍(しちどうがらん)のほか龍照院をはじめとした18の坊や寺院があったと伝えられています。しかし、天正12年(1584)の蟹江合戦の際に兵火に遭い、龍照院一坊とご本尊のみが残りました。本堂は、明治24年の濃尾地震で倒壊し、現在の本堂はその後に再建されたものです。」蟹江町HPより

龍照院の境内の一角に「大日如来。堂内には西国三十三観音とともに、『大日如来坐像』が安置されています。

「源頼朝が平家追討の兵を上げたとき、木曾義仲に従って上洛した巴御前。武術を心得え、義仲が危急のときには、身の危険をおかしながらも付き従った華麗で美しい女武者だったといわれています。元暦元年(1184)正月21日、粟津で義仲最期のとき、巴は、主君義仲と一緒の死を望みましたが、義仲は武人の名誉を思い、巴に落ち延びるように言いました。義仲の最後を見届ける事もできず、義仲の命に従い戦場を離れる巴。義仲に大将にふさわしい最期を全うさせるため、死よりも苦しい生を生きなければならなかったのです。」

「信濃へ落ちる際、蟹江町の常楽寺は義仲が建てた寺であることを知った巴は、この寺に如来坐像を安置し、髪を下ろして尼となり、名を「東阿禅尼」と呼び、義仲の菩提を弔ったと伝えられています。」蟹江町観光サイトより

2012年に参拝した小矢部市埴生「護国八幡宮」『木曾義仲・巴御前』絵馬。愛する人と共に果てる事が叶わなかった『巴』・・今は共に彼方の上にて優しい時を過ごされていますように。

「大日堂」の屋根より参拝者を見下ろす飾り瓦の獅子一対。

境内の入り口近く、復興の際に寄進された「鐘楼」

記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまった飾り瓦の獅子一対。はて・・君たちはどこの屋根に居たのだろう?

行脚姿の『弘法大師修行象』。錫杖と鉄鉢を手に諸国を巡歴されたお姿は真言宗寺院ではすっかりお馴染みのお姿。

「人形とは人の形なり 人形を抱くは母の悲しみを抱くなり 人形には与える物 持つ物の心がこもるなり 年月を経て哀れなる姿となり 大自然の中に帰る人形たちよ 我々の感謝の心を受けて み佛のもとに行きて安らかならんことを」

裕福ではなかった幼いころ、私の側にいてくれたのは人形と呼ぶには恥ずかしいような、母が余り布で作った小さな人形さんでした。いつの間に手元からいなくなってしまったあの人形・・「み佛のもとに行きて安らかならんことを」

参拝日:2011年4月24日&2017年3月28日

 
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