車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

能登上布(のとじょうふ)会館 in 石川県中能登町

2018年01月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

もう一昔も前の事ですが、私は生意気にも「着付けの先生」でした(笑)。着物が大好きで、春夏秋冬、毎日着物を着て過ごしていた時期もありました。毎年の成人式は早朝から目の回るような様な忙しさで、それでも一番華やかな姿を一番最初に見られる幸せが何より嬉しかったものです。親友のお嬢さんたちの成人式・・これが最後の着付けになりました。

この後に難病を患い、以後「着付けの先生」も出来なくなり、箪笥二棹に収納された着物も帯も、箪笥の肥やしになりつつあります。 それでも、着物に関わるものはやっぱり好きで、機会があれば訪ねずにはいられません。

中能登町能登部下134部、中能登の伝統産業である能登上布の保存と継承のため,1996年に建てられた「能登上布(のとじょうふ)会館」。見学が可能と言う事で訪問させて頂きました。

「上布(じょうふ)」とは、麻織物の最高級品に贈られる称号。越後上布・近江上布などが有り、中でも「能登上布」は盛夏の着物生地の中では最上級とされています。「蝉の羽」とも形容される独特の透け感と、手にした瞬間の不思議な軽さ、心地よい手触り・・・・

いくら着物が好きでも、庶民の私には到底手の届かない・・・多分一生縁の無い、憧れの着物地。その美しい着物が目の前に・・でも、うっかり何かあったらと思うと、触れようと伸ばしかけた手も竦んでしまうのです。

2000年の歴史を持つ「能登上布」。はるか昔、『崇神天皇』の皇女『沼名木入比売命(ぬなきいりひめのみこと)』がこの地に滞在した際、野生の真麻を紡ぎ、自ら機を織ってこの地の女性に教えた事に端を発すると伝えられています。

上布会館では、実際に糸を紡いだり機織をされている様子を見せていただく事が出来ました。 長年憧れて、そのお値段ゆえに結局我が物にする事が叶わなかった夏の一張羅・・・

それを生み出す人の手はしなやかに力強く確かで、1枚の着物となるまでその過程を何千回、何万回と繰り返すのです。

細い細い縦と横の糸が、機織の上下と共に独特の柄を浮かび上がらせ、やがて一枚の布に変わってゆく・・・それは言葉を忘れるほどに感動的で・・。何時まで見ても見飽きませんが、いくら自由な旅とはいえやはり時間の制約はあります。 そろそろ引き上げなければ、完全に吹っ切れた着物への未練がまたぞろ頭をもたげそう(笑)

考えてみたら、いまだから「ああ、やっぱり欲しかったな」で済んでいるのです。 これが現役の頃なら・・・家中の豚さんが粉々になって、それでも足りなくて泣いてたでしょう(笑) 美しいものを美しいと愛でられるうちに、能登上布で目の贅沢ができたこと。最高に満ち足りた一時でした。

訪問日:2011年10月18日

 

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久氐比古(くてひこ)神社 in 石川県中能登町鹿島

2018年01月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県中能登町久江(くて)に鎮座される「久氐比古(くてひこ)神社」。御祭神は『久延毘古神(くえびこのかみ)、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ)』
『久延毘古神』については、古事記に【この神は山田の 曽當騰(案山子)のこと足は歩かねど居ながら にして天下のことを知れる神なり】とあり、博識の神で田や山を司るされています。

【延喜式内の旧社で創立の年代は不詳であるが、天平宝字6年大旱の際、神徳効応せしより『御田大神』とも称えられ、毎年4月11日~12日執行の「オケラ餅神事」は近郷の住民集合、五穀豊年祈願の神賑行事盛大に、『醍醐天皇』朝規の遺格、今に存せりと言う。】

鳥居のうち、参道両脇より神域を守護されるのは昭和4年(1929)12月2日建立の狛犬さん一対。とても親近感溢れる(笑)お鼻に大きく開けた口がいかにも楽しそうで、短い(失礼)四肢もこの上なくユーモラス。

近世に「劔明神」とよばれていた頃には、祭神を『天目一箇命』とし、相殿の神を『久延毘古神』とししたが、後に逆転。『久延毘古神』を主神とし、『天目一箇命』を相殿とするようになりました。そこに至る何があったのか・・神様の事情は判りかねます。

ガラス張りの覆屋の内に鎮まる拝殿。その前より神域を守護されるのは、昭和48年(1973)9月吉日建立の青銅製護国型神殿狛犬さん一対。昭和初期に造られた先代さんは、第二次大戦で供出され台座だけが残されていましたが、昭和48年に再建されました。

駐車場の一画に建立されていた『二宮金次郎』さん石像。そう言えば、境内に「久江小学校跡」の碑がありました。これはその当時のものかもしれません。

参拝日:2011年10月18日

 

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鳥屋比古(とりやひこ)神社 in 石川県中能登町鳥屋

2018年01月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県中能登町春木に鎮座される「式内社:鳥屋比古(とりやひこ)神社」。御祭神は『鳥屋比古神(とりやひこのかみ)』。配祀『大穴牟遲命(おおなむちのみこと)、埴安命(はにやすのみこと)、句句廼遲命(くくのちのみこと)、加具土命(かぐつちのみこと)、金山比古命(かなやまひこのみこと)、水波能賣命(みずはのめのみこと)』

境内由緒書には「山桜」の御神紋。「延喜式内社にあてられる古社。竹津浦鹿島路の湖水に毒蛇が住み、人民をこらしめたので、尊神はその毒蛇を射殺し給う。その矢、落ちたる所を羽板と言い、これは一青の庄で(羽板、春木、末坂、今羽板、一青、黒氏、久乃木、坪川、新庄、二十九日、川田、大槻、瀬戸、花見月、伊久留、吉田の18村)惣社として崇敬篤く、特に畠山領主の祈願所として尊敬され、明治41年神饌幣帛料供進神社に指定される。」

参道正面に拝殿

拝殿前より神域を守護されるのは昭和15年(1940)建立の狛犬さん一対。吽形さんは玉の上に手を乗せたままきつい表情。阿形さんは右足の上に仔狛を寛がせています。

拝殿右手に鎮座されるのは「鳥屋町招魂社」。御祭神は国家のために殉難された町域の御英霊。覆屋の内、拝殿前より神域を守護されるのは、岡崎型狛犬さん一対。

実はこの社殿の後方に、祭神が退治した毒蛇を埋めたとされる「鳥屋塚」があったらしいのです。それを知ったのは帰宅後の事ですが、一見して分かるようなものではないらしく、知っていたとしても行けたかどうか・・かなり疑問。

参拝日:2010年10月18日

 

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羽咋(はくい)神社 in 石川県羽咋市

2018年01月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県羽咋市川原町に鎮座される「式内社:羽咋(はくい)神社」。御祭神は羽咋君の祖とされる『石衝別命(いわつくわけのみこと)』。相殿神に『若宮・石城別命(いわきわけのみこと)、母宮・弟苅羽田刀弁命(おとかりはたとべのみこと)、道反大神』を配祀。

【創建は不詳、当地に領民を苦しめる怪鳥が出現した事で『垂仁天皇』の勅により『石衝別命』が派遣され、これを討た後、この地に留まり、当地の農業を奨励したと伝えられます。のち当地を治めた羽咋君一族が、祖先の『石衝別命』を氏神として祀ったことが「当社」の始まりという。延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では、能登国羽咋郡に「羽咋神社」と記載され、式内社に列っせられ、明治42年(1909)、七尾線建設の予定地にあった姫塚上の「三俵苅社」から、『道反大神』を遷し合祀しました。】神社由緒

拝殿は天保3年(1832)の造営、五間の入母屋造千鳥破風、軒唐破風で、ガラスの覆屋の中。深い木々に左右が覆われており、本殿のお姿は見えません。

境内右手に建立される「忠霊塔」

境内は豊かな自然に包まれており、手水舎横では御陵山からの湧き水を頂く事が出来ます。「御陵」の名が示すように、お山は『磐衝別命』の前方後円墳として陵墓参考地に指定されています。

境内には市の天然記念物に指定されたケヤキとサワラの御神木が、濃く葉陰を落としています。鳥居の内、「ケヤキ」は樹高20メートル、推定樹齢600年。羽咋市内最大、石川県で30番目の巨木と言われています。

「サワラ」は樹高21メートル、推定樹齢250年以上。先のケヤキには遠く及びませんが、それでも二世紀半は決して短い時間ではありません。

拝殿内に奉納されていた「唐戸山神事相撲」絵馬。群馬県藤岡市の「土師神社」、大阪府大阪市の「住吉神社」と並んで、「日本三大辻の1つ」として知られる羽咋神社。「辻」とは屋外に設けられた「相撲場」の事で、境内にはすり鉢状の地形の中央に土俵を設けた、天然桟敷の唐戸山相撲辻があるそうです。

土俵四隅にかがり火が焚かれ、伝統作法に則って熱戦が繰り広げられる「唐戸山神事相撲」。相撲好きであったといわれる『磐衝別命』の遺徳を偲び、その命日に奉納される神事。「水なし 塩なし まったなし」の古儀により、大関が決まるまで熱戦が繰り広げられます。この神事の様子は駅前のモニュメントや、長者川の橋柵のプレートにも見ることが出来ます。

同じ長者川の橋柵には、「川渡し神事・長者川渡御」のプレートもあります。『磐衝別命』の御神輿は船に乗せられ、長者川を渡って「八幡神社」の女神の許へ・・。松明に照らされながら川面を進む神輿舟の姿、きっと神秘的に美しく幽玄な世界なのでしょう。

 JR七尾線羽咋駅の傍らにあった「三足比咩命(みたらしひめのみこと)・旧蹟」

「本旧蹟は姫塚と称し、羽咋七塚の一つで、羽咋神社の祭神の妃「三足比咩命」の陵墓であるという。規模は東西20m、南北10mの周濠を持つ円墳であったが、寛文年間に周濠を埋めて小社を建て、羽咋神社の末社とし「三俵苅社」と称した。その後明治31年七尾鉄道の敷設工事によって、社地が開搾された為、ご神霊は「羽咋神社」に合祀。泰澄大師自作と伝えられる石像は、羽咋弥公の墳墓に移して現在に至っている。」現地案内より

参拝日:2015年5月25日

 

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気多(けた)大社~其の二 in 石川県羽咋市寺家町

2018年01月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

能登國一宮「気多大社」。境内には、本殿左右の摂社以外にも幾つかの摂社が鎮座されています。

「入らずの森」の手前、社殿を持たずに鎮座されるのは「楊田神社」。御祭神は『荒御魂神(あらみたまのかみ)』、または『迦具土命(かぐつちのみこと)』とも称します。

さらに進むと、木立の中に「太玉神社」の鳥居。御祭神は『天太玉神(あまのふとだまのかみ)』

『天照大神』が閉ざした天岩戸の前に集まり、なんとかお出まし願おうと一生懸命にあれこれ画策された神様です。

拝殿前より神域を守護されるのは岡崎型狛犬さん一対・・・・ですが、しかしこれは・・・!!頭、顔、体と所構わず乗せられた石。特に目を塞ぐように置かれた石、阿形さんの口中に押し込まれた石には悪意さえ感じられます。ご利益があると思っての事かもしれません・・誰かがやった事を真似てかもしれません。が、もしも我が身なら耐えられないでしょうに・・・・・とは言え、人の念が込められている事を思うと気安く石をどける事も出来ず・・目と口中の石のみ、足元に置かせて頂きました。

合格祈願の絵馬棚の向こうに鎮座されるのは「菅原神社」。御祭神は『菅原道真公』。 社殿の手前に見る橋は「合格橋」と命名されており、この橋を渡って合格を祈願します。

参道の途中に奉られる「養老大黒像奉安殿」。内にはいわゆる『大黒天』が鎮座されています。

奉られておいでの『養老大黒』さま。漫画チックなお顔ですが、お大尽の貫禄さえ見せて、手には打出の小槌。

絵馬に書かれた文字は「氣」、「氣多大社」本来の文字から採られています。「氣多」とは読んで字の如く「多く」の「気」の意。2011年の雨の境内、2015年の晴天の境内、どの季節も清々しく綺麗な気に満ちていました。

「気多大社」に隣接するのは、高野山真言宗寺院「亀鶴蓬莱山:正覚院」。『大日如来』を本尊とします。

創建年代は不詳。泰澄大師が伊勢神宮参拝の帰路の夢に「恋しくば尋ねても見よ能く登る一つの宮の奥の社へ」とのお告げを受け、気多大社神宮寺の坊の一つとして創建したと伝えられます。斉衡二年(855)、「亀鶴蓬莱山:気多太神宮寺」の勅号を賜り、以来氣多大社の神宮寺として隆盛しました。

鐘楼の屋根を濡らす雨は音も無く静か。

護摩堂

止まぬ雨は、境内に佇む『弘法大師像』の御身を洗い流し、見上げる私たちに秋の日暮れの肌寒さを伝えます。驚くほど静かに・・気が付けばいつの間にか夕方と呼ばれる時刻になっていました。

最後の画像は、千里浜(ちりはま)海岸堤防の内、船の帆に似せた『大伴家持』の歌碑。能登視察の折、気多大社参拝のため羽咋を訪れた折の歌。

【 之乎路(しをぢ)から 直(ただ)越え来れば羽咋の海 潮凪(あさな)ぎしたり 船楫(ふねかぢ)もがも 】

参拝日:2011年10月14日&2015年5月25日

 

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気多(けた)大社~其の一 in 石川県羽咋市寺家町

2018年01月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

羽咋市寺家町に鎮座される能登国一宮「式内社:気多大社」。御祭神は『大己貴命(おおあなむちのみこと)』。別名『大国主命』として知られます。

【第8代孝元天皇の御代に、祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。「気多社祭儀録」では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。】「気多大社縁起」。

参道正面に、檜皮葺切妻造、四脚門の神門。社伝に天正12年の造営といわれ、奥に見える拝殿と共に国重要文化財の指定。

入母屋造妻入・檜皮葺の拝殿は、江戸時代の承応二年~三年『大工・山上善右衛門』による造営。それに続く檜皮葺・両流造の本殿は天明七年の造営。

本殿向かって右手、鳥居の奥に鎮座されるのは同じく国重要文化財「白山神社」。御祭神は『菊理姫命』

三間社流造・檜皮葺の社殿は、本殿と同じく天明七年『清水次左衛門・清水多四郎』による造営。本殿向かって左手には、同じく「若宮神社」が鎮座され『事代主命』をお奉りしています。

石川県指定文化財の「神庫」は方一間の校倉造・檜皮葺で天明七年の造営。正面に箱階段、床下は高床として石柱を建て、もと「宝蔵」と呼ばれていました。

境内の裏手に広がる原生林の社叢は、「入(い)らずの森」として立ち入りが禁止されています。 樹齢百年をこえる木が林立する社叢は国天然記念物に指定されており、神主でさえも滅多に立ち入らぬ奥深くに、神秘の奥宮が鎮座されています。

昭和58年5月22日、全国植樹祭に御来県の昭和天皇が本社に行幸され、入らずの森に踏み入られた折に読まれた御製が残されています。

【斧入らぬ  みやしろの森めづらかに  からたちばなの 生ふるを見たり】

気多大社の神門脇に植生している、県天然記念物「気多白菊桜」。気多大社の御神紋は「丸に山桜」ですが、「気多白菊桜」も山桜系の菊桜。手水舎の蛙股には美しい山桜が彫刻されています。

明日は境内摂社、隣接する元・神宮寺の紹介です。

参拝日:2011年10月14日&2015年5月25日

 

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湍津姫(たぎつひめ)神社 in 石川県羽咋市吉崎町

2018年01月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県羽咋市吉崎町に鎮座される「湍津姫(たぎつひめ)神社」。御祭神は『湍津姫命(たぎつひめのみこと)・ 道反大神(ちかえしのおおかみ)』

「道反大神」は『伊邪那岐命』が黄泉国から逃げ帰る際に、千引石をひいて黄泉坂を塞いだ石を示し、『塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)』とも称されます。文字通り、「黄泉の戸を座して塞ぐ神」。

御由緒【当社は建治年間の創建と伝えられ、弁財天と仰がれてきた。瀬戸の陶器商人が初めて居住し、当時葺草が繁茂していたところから、葺崎と称し、水辺の守護神として、また福徳賦与の神様として尊信を受け「弁財天社」と称してきたが、明治に入り「湍津姫社」とし、後、現社名に改称。昭和20年、『道反大神』を合祀す。】

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正八年四月 壮年団奉納の加賀逆立ち狛犬さん一対。

久しぶりの加賀逆立ち狛犬さん、大口の阿形さんは半立で口中に玉を。頭上に角を持つ吽形さんは小気味よく後ろ足を跳ね上げています。

境内の一角に建立された「忠魂碑」に拝礼。いつの間にか空はどんよりと厚い雲に覆われ、湿気を含んだ風がもう直ぐ雨だと囁いています。

参拝日:2011年10月14日

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御神名一口メモ

『湍津姫命(たぎつひめのみこと)』、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)によって生まれた宗像三女神の一神。

『道反大神(ちかえしのおおかみ)』、天津神。伊弉諾尊が伊弉尊に追われた時、さえぎるために用いた石を神格化したもの。黄泉の軍勢を阻む任を持つ。悪霊邪鬼をから追い返す。

 

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能登島あちこちウォッチ in 石川県七尾市能登島

2018年01月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

七尾市能登島閨町の田んぼの真ん中。忽然と姿を現す小さな森の中に在るという、町指定史跡「関(ねや)観音堂石塔群」

こんな場所なので、ナビが案内してくれるのはありえないような地点ばかり。何度も、無い道を行けといわれたり、海を渡れといわれたり(-_-;)。言う事を聞いてたら幾つ命があっても足りない!!と、さんざんナビの悪口をいいつつ、やっとあそこかもと見当をつけて辿り着きました (ノ_-。) 交通の邪魔にならないように車を片寄せ、細い田圃の中の一本道を行くと、「真言宗・大楽寺跡」と書かれた錆びた案内板を発見。

初夏の日差しが生み出す木漏れ日の中は、そこだけ時間が止まったかのような異空間。 ゆらゆらと明暗の下に並ぶ石塔群は、その目的を思えば幻想的でもあり、時に怖くもあります。

決して広くは無い寺跡には、室町時代に造立したとみられる約30基の五輪塔。 唱える言葉を知らない私たちは、うろ覚えの真言を唱え、社と石塔群に手を合せます。

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七尾市能登島向田町「道の駅:のとじま」に隣接した丘の上に建つ「能登島ガラス美術館」。館内には、世界各国の現代ガラス作家の造形作品400点近くが収蔵されています。

美術館の芝生庭園に設けられた「ガラスの丘」。ここには14点の大型のガラスオブジェが設置されています。

タイトルと作品がイコールにならない、芸術的センス皆無の私には、いわゆる現代アートと呼ばれる作品は今ひとつ理解できません。

そんな私が唯一気に入ったのが、カモメを思わせるオブジェの上に座って海を見つめる二人。見る側の気持ちによって、親子・夫婦・恋人・親友・・・何にでも姿を変えられる二人。七尾湾北湾を見わたせる丘の上、しかも今日のように天気が良いと景色も気分も最高。

・・・・・

ヒョウタンのような岬、あれは何と言うんだろう?ああ、潮風が波打ち際で賑やかに遊んでいるよ。もう少し暖かだったらもっと良かったのにね。

風速20m/sで通行が規制される、石川県で最も長い「能登島大橋」。大橋はまさに海の道。快晴で良かった!!!。

最後の立ち寄り地「能登島大橋ロードパーク」。思いがけず『与謝野晶子』が夫の鉄幹と和倉温泉に遊んだ折に詠んだという歌碑を発見。

【 對(むか)ひたる 屏風が崎と嶋屏風 そのかなたにて 鐘の鳴る海 】

訪問日:2011年10月17日&2015年5月21日

 

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大宮神社 in 石川県七尾市能登島

2018年01月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

七尾市能登島野崎町、能登島の東端にある野崎漁港近くに鎮座される「大宮神社」。 御祭神は『大物主命、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、応神天皇、健御名方命』

「創始等は不詳、往古より野崎地区一帯の産土神として篤く崇敬されてきました。「火宮」「八幡大神」「諏訪大神」はそれぞれ別社に奉斎されていましたが合併し、現在に至っています。」

向拝下の彫刻は「松の枝に営巣する鶴」。松葉の繊細さと幹のウロコの対比が素晴らしい。

木鼻の獅子は、体に似合わぬ細い小さな前足。鋭い牙を見せているけれど、見上げる顔は可愛い。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、山に見立てた岩の上にがっしりと足を踏ん張る昭和14年(1939)10月吉日建立の獅子一対。「奉納:東京市亀戸三丁目、野中菊太郎」の刻。

山の上から谷底を見る親獅子

ぎらぎらと切り立つ岩の間を、必死の形相でよじ登る子獅子。 

強いモノしか生き残れない自然界の掟。とは言え叶うなら、どの仔も生き抜いて欲しい!

じりじりと・・一歩、また一歩確実に岩をよじ登る仔獅子。

よじ登っていく兄弟を見上げたまま仰向けに転がり落ちてしまった幼い仔獅子。大丈夫、きっとこの子も他の兄弟に負けないように起き上がって岩をよじ登る筈。

能登島訪問の一番の目的を達して大満悦のご亭主殿!

「 獅子の子落し。富士山の溶岩を山にみたててつくる。生まれた子を千尋の谷に投げ込み、中途ではねかえって岩角にとりつくほどの強いものばかりを育てるといういい伝え。」 境内由緒書より。

参拝日:2011年10月17日

 

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鰀目嶽(えのめだけ)神社 in 石川県七尾市能登島

2018年01月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県七尾市能登島鰀目町、港を見下ろす丘の上にに鎮座される「鰀目嶽(えのめだけ)神社」。 御祭神は『天忍媛命(あまのおしひめのみこと)・ 田心媛命(たごりひめのみこと) ・大国主命』

【もと「菅忍比咩(すがおしひめ)神社」と称したが、他に同社号の社があるため、延喜式内社としての正否のことがあって、遂に明治6年3月、現社名に改称。寛政2年8月17日に「神明神社」、「竹生島神社」をそれぞれ合祀する。往古より産土神として篤く崇敬されてきた。】石川県神社庁HPより

ガラス張りの覆屋向背には龍の彫刻、覆屋内の拝殿両脇には笏谷石製と思われる一対の狛犬さん。 覆屋には鍵が掛けられているようで、残念ながら狛犬さんとはガラス越しの対面となりました。

参道途中より神域を守護されるのは昭和11年(1936)丙子夏建立の、ガミムチ系狛犬さん一対。顔立ちはかなりいかつく強面。阿吽ともに鋭い牙を見せて、まるで周りの全てが敵だと言った風情に気圧されそう(^^;)

神社名にもなった「鰀目(えのめ)」ですが、古伝に【漁に害をなす「えい」という魚の目を、現地の神が弓で射て退治した事から「えいめ」という地名が生まれた。後に「鰀」の漢字を当てたもの。】とあります。「鰀」は、別名「あめのうお」とも読むそうですが、それだと全く別の魚になるのが不思議。

境内から見下ろす鰀目漁港は波一つなく静かで穏やか。ゆったりとした時間の中で大きく深呼吸をすれば、懐かしい潮の香りが遥か昔を思い出させる。

参拝日:2011年10月17日

 

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