赤穂市坂越・宝珠山麓に鎮座される「大避(おおさけ)神社」。主祭神は『大避大神(秦河勝)』、『天照皇大神・春日大神』を配します。
由緒に「河勝は太子死後の皇極3年(644年)、海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去。河勝公の御霊は神仙化とし、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社の創建と伝えられている。一方近在の村々30余ケ村に、ご分社を祀り開拓神として今日も信仰されている。」兵庫神社庁HPより
大避神社の正面の海上に浮かぶ「生島」。その山頂には、この地で没した『秦河勝』の墓と伝えられる墳墓があり、一帯は全て神域とされています。
石段参道の先に建つのは神仏習合の影響を受けた神門。延享3年(1746)の再建です。
石段最上段の左右より神域を守護されるのは、丁寧にカールした巻き毛がとても素敵な狛犬さん一対。とても穏やかな顔で参拝者を出迎えてくれます。
神門内には、仏の守護者である阿吽の仁王像と、神の守護者である左右随神が背中合わせに配置され、それぞれに神域と祭神を守護されています。
随身門から真っ直ぐ、神門と同じく延享3年に再建された拝殿が、厳かな雰囲気で参拝者を迎えてくれます。
拝殿前より神域を守護されるのは、天保7年(1836)9月建立の狛犬さん一対。廻船の海上安全を祈願して奉納されました。
拝殿の左手には開放的な絵馬堂がつながり、40枚もの絵馬が所狭しと奉納されています。
「海上安全 順 風」と書かれた船絵馬は、享保7年(1722)の奉納、日本最古のものと云われています。
絵馬殿の一画に置かれているのは「祭禮用和船:楽船(がくぶね)」。瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り(国重要無形民俗文化財)」に用いられるものです。
これは奉納絵馬の中にあったもので、坂越浦沖に浮かぶ生島と、和船巡航の様子が鏝絵で描かれています。
こちらは観光案内所に展示されていた絵馬ですが、「大避神社祭禮船:歌船」が鮮やかに描かれています。
祭神『秦河勝』の墓と伝えられる墳墓がある事から、現在でも一般の人の立ち入りが禁じられている生島。祭礼では10数艘の祭禮船が、湾口にある生島の御旅所まで往復します。
参道途中に鎮座される唐破風屋根の社は、その赤い鳥居から直ぐに察せられる「境内社:稲荷社」。
社殿の左右より神域を守護されるのは、市内に唯一存在するという、尾道型の狛犬さん一対。慶応2年(1866)5月建立ですから、150年以上もここで頑張っておられる事になります
さらに屋根の上、留蓋の飾瓦には稲荷の神狐さんがいるのですが、これがまたおとぎ話に出てくるような愛らしい姿。
同じく「境内社:恵美須神社」。漁師町らしく海の神様である「恵比寿神」が祀られます。
一の鳥居から参道、境内と見所沢山の「大避神社」、その裏参道と思しき場所に「船岡園十三景」の石碑が建立されています。「船岡園」は大正3年(1914)5月13日、児島高徳卿550年忌の記念大祭典の準備として御墳墓付近3,000坪を開拓し、官幣大社、吉野神社の摂社船岡神社の社号に因み開設されました。そう言えば、船岡園中には『児島高徳』の墓とされる五輪塔があると聞いていましたが・・結局行きそびれてしまいました。
参拝日:2010年8月9日
冒頭の由緒にも記載があるように、「大避神社」は相生・赤穂・上郡一帯の千種川流域にのみ約30数社が鎮座されています。秦の始皇帝の末梢として渡来し、『聖徳太子』に使えた『秦河勝』。推古天皇30年(622年)『聖徳太子』の死後(643年)に起こった「乙巳(いっし)の変」を避けて、摂津国難波浦から出航し播磨国赤穂郡坂越浦へ漂着。生島で没した後、大避大明神となった秦河勝の足跡、辿ってみるのも面白いかもしれません。