楠公史跡は久子夫人の墓所を訪ねて終る筈でしたが、翌年訪ねた吉野神宮は、楠木正成・正行親子にとっては非常にかかわりの深い人物が祀られる場所。楠公史跡:番外編の最終回として紹介します。
延元元年/建武3年(1336)の暮、足利尊氏の京都占領によって建武政権が崩壊し、幽閉されていた後醍醐天皇は、京都を脱出して吉野吉水院に入り、数日後に近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮(あんぐう)と定めました。しかしその三年後、後醍醐天皇はこの行宮で後村上天皇に譲位した直後に崩御。その後四条畷の戦いで楠木軍が敗北すると、勢いに乗った高師直らの軍によって吉野王朝は陥落し、行宮は焼き払われてしまいます。
後村上天皇は、後醍醐天皇の像を吉野・吉水院に安置し、以降、仏教式の供養が行われていましたが、明治の神仏分離により、明治6年(1873)「吉水院」は「後醍醐天皇社」となり、明治8年「吉水神社」と改称。やがて明治22年、後醍醐天皇を祀る官幣中社・吉野宮の創建が明治天皇の意向で決定。明治25年に社殿が竣工し、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行され、明治34年に官幣大社に昇格。大正7年(1918)に「吉野神宮」に改称されました。
石段参道の上、鳥居の両側より神域を守護されるのは、昭和7年吉日建立の「護国タイプ」と呼ばれる狛犬さん一対。一般的に護国タイプと言うと精悍すぎるくらいきつい顔立ちなのですが、こちらは何故かとても優しい・・
前置きが非常に長くなりましたが、吉野町吉野山に鎮座される「吉野神宮」、御祭神は『後醍醐天皇』。
吉野神宮の本殿・拝殿・神門は、かつて後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲み、京都の方角を向くよう北向きに建てられています。社殿はいずれも総檜造。近代神社建築の代表とされるものです。
本社の右に正東面した摂社「三本殿」、南朝の忠臣が祀られます。
南から「御影神社」、『日野資朝、日野俊基』。「船岡神社」、御祭神『児島範長、児島高徳、桜山茲俊』。「滝櫻神社」、御祭神『土居通益、得能通綱』
東門を抜けた先、東鳥居の外より神域を守護されるのは浪花系の狛犬さん一対。
表鳥居の狛犬さんとはあまりにも対照的なその表情からは、何とも言いようのない切なさが感じられて・・・でも、多分気のせいですね。
ここから西方に金剛・葛城山、東方に高見山を望めるとありましたが、木々が視界を遮ります。古くは古事記、日本書紀、万葉集にも記述があり、歴史の大きな舞台にも幾たびか姿を現してきた吉野。後に天武天皇となった大海人皇子が壬申の乱の前に吉野に身を潜め、平家を討った源義経が兄頼朝に追われて吉野に逃げ込み、北条幕府を倒して建武の中興を遂げた後醍醐天皇が南朝の拠点として選んだ吉野・・・。
私たちが吉野神宮への参拝を終えた翌:2010年、神宮駅の大鳥居や表裏の鳥居、透塀、神庫、社殿、廻廊等々、ほぼ全ての建物が国の登録有形文化財に登録されました。
参拝日:2009年6月27日
楠公史跡の流れで、近畿各地に残る楠公と後醍醐天皇ゆかりの地を紹介してきました。他にも「福井県金崎宮」「岡山県作楽神社の院庄館の故事」など、数えれば枚挙にいとまがありませんがこの辺で終りとします。明日からは通常通り「ご当地マンホール in 奈良県各地」から紹介です。
初めて聞きました。
よく分かりませんが、体つきがすごくスリムですね😊
こういうタイプは初めて見ました。
そして、吉野はそんなに歴史に関わっていたのですね。
これだけ権力争いをして、天皇家はよく断絶しなかったな、と歴史の偶然?に感謝したくなりました。
後醍醐天皇はいまは安らかに眠っておいででしょうか・・。
宮古島で消息を絶った陸自の幹部の人たちが
生還・・は無理でしょうか、でもできれば生還してほしいです。🙏
後醍醐天皇陛下の護国の力が、彼らに奇跡を起こしてくれることを願います🙏
どうぞ明日も良い日をお過ごしください😊
本当に、護国の力を信じたい
なぜこんな事が起こったのか
日本は国の威信にかけてもきちんと調査して欲しい
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